餡子の行方

奏の気まぐれ? 3.

「車、、、で来ればよかったか、、、」

屋根にかかる大雨のしぶきの音を聞きながら、奏がつぶやいた。大粒の雨は、ひっきりなしに地面にも叩きつけている。

「もうすぐ止むんじゃない?」

風子は腕時計をみて驚いた。もう17時近くになろうとしていた。何てことだろう。もうそんなに長く奏といたなんて、、、あっという間の時間だ。風子にとっては空白の年月を埋めるにはまだまだ足りない。けれど、奏は少しイライラしている様子で腕時計を見ている。きっと佳つ乃と待ち合わせをしているのかもしれない。

「ショーニィ?ショーニィだったら、駅まで走ってもそれほど濡れないんじゃないかな?」
「え?」

昭和動物公園は、駅から5分という立地の良い場所で、マイカーで来訪するより電車利用者が圧倒的に多い、人気のスポットだ。それでも風子が駅までドタドタ走っていくには、いくら近いといっても無理がある。風子は走る前からそう結論付けた。だが、奏ならば、さっと走ってあっというまに駅へとかけていけるだろう。

「だって、時間、、約束してるんでしょ?」
「あ?ああ、、」
「だったら、ショーニィ行ちゃっていいから、わたし、もう少し雨が弱くなるまで、ここで雨宿りしていくから、、、」

奏はもう一度時計を見直した。

「別に、、約束ってわけじゃねえけど、、、あまり遅くいくと、、、」

奏の心配そうな声音に、佳つ乃を思う彼の気持ちが表れているようで、風子の胸がズキンと痛んだ。だが、それも道理だ。彼女をそんなに待たせるわけにはいかないだろうし、、、

「風子、もう少しここで待って、それでだめだったら走るぞ!」

つまりギリギリまで奏も風子に付き合ってくれるらしい。正直嬉しい。このまま置いていかれることも覚悟していたし、実は、今日の動物園行きも、現場で集合と聞いた時から、ちょっとだけ心の片隅が黒くねじ曲がっている。きっと佳つ乃となら、車で向かえに来たに違いない。もし車なら、こんなことになっても、佳つ乃が濡れることなく、対処出来たに違いないのだ。とことんひねくれていく風子の腹の中だ。風子自身、そんな自分が嫌で、ブンと頭を振った。

「どした?」
「あ、、虫が、、、」
「ん?ああ、これか?」

奏の長い指の摘まんだ先には、テントウムシがついていた。出まかせを言ったのに、どうやら、テントウムシは風子のふわふわの髪の毛の中で =雨が降っているからよけいくるんくるんとなっている= 丁度いい隠れ蓑とばかりに雨宿りを決め込んでいたらしい。

奏は、そっとセメントの凸凹した壁に虫を置いた。そこが気に入ったのか知らないが、てんとうむしはそのままじっと動かなかった。

「よし、行くぞ、走れっ!」

見れば、雨が随分と小雨だ。このチャンスを逃がすまいと奏は勢いよく走り出した。同時に風子の体も前に押し出された。彼の大きな手は、風子の手をしっかりと握っていた。あったかい温もりと、大きな手のひらの感触にうっとりすれば、ぐいっと腕が引っ張られる。

「ほら、風子!ぼやぼやすんな!」

奏の叱咤に我に返り、風子は自分の持てる限りの速さで、=はたから見ればコロコロと転がっているようだとしても= 必死に駅へと走った。





*****

奏は風子と一緒に銀座で降りた。何も言ってくれず、風子は果たして一緒についていってもいいのかわからなかったが、例の通り、ほら、降りるぞ この一言で駅に降り立つ。ありがたいことに、もうすっかり雨は止んでいた。最初は華やかな街並みの中を、早歩きの背中を見ながら必死に歩いた。雨の名残が見える湿ったアスファルトの上を小走りに追いかけていく。

「はあ、ショーニィ、ちょっと、どこ行くの?」

風子の歩幅だと、小走りになって、すぐに息があがってしまう。またまた運動不足を実感して、今度こそダイエットの文字が頭を過る。

「早く来い!置いてくぞ!」

またこれだ。とにかく人込みの中、風子は奏を見失わないように、けれど、スラリとした彼の肢体は、人々の頭一つ分は出るから、案外簡単だ。道行く女たちは、奏とすれ違いザマにみんな意識をしていくようで、それくらいに彼は颯爽としていた。後ろから、ひょこひょこと転がってくる風子が、彼の連れだとは、みんなわからないだろう。

(佳つ乃さんと待ち合わせなのかな?)

恐らく奏は、風子と佳つ乃が初対面ではないからと、あのまま動物園で別れるのも悪いと思ったのか、佳つ乃と待ち合わせ場所にまで風子を連れてきているのか、、、

(いいのに、、、今日、楽しかったから、、、)

何だか、佳つ乃に今あったら、今日の楽しさが全て半減されるような気がする。そんな風に感じる自分自身も嫌だったけど、けれど本当のことだから、、、奏はかなり前を歩いているが、風子のすぐそばに奏がいるような気がするのは、このシャツのせいだ。風子ははっと思う。もし、この恰好を佳つ乃が見たら、、

「ショーニィ、ちょっと待って?!」

人混みで、大きな声で叫んだ。すぐに奏が振り返った。風子は上着を脱いで、バッグから自分の白い上着を出した。濡れてしまった上着はそのままバッグにしまわれていたから、しわくちゃだったし、もわぁんとした生温かさで気持ち悪かったけれど、とにかく風子は上から羽織る。

「何やってんだ?」

見かねたように、2,3歩大股で戻ってきた奏に、また手をぐいっと引かれた。

「お前、これ以上走りたくないだろ?」
「え?」

そりゃそうだ、早歩きだって息があがっていて、とにかくきついのだから。その上、何だか腹も空いた感じがしてエネルギー切れのような気がする。そこへ、いきなり又走れなどと言われたら、無理無理無理、風子の頭が自然とぶんぶんと横に振る。奏の手にしっかりつかまれて、手を握りあう甘い男女というよりは、迷子にならないように拉致されている図というほうが、大方世間も納得するに違いない。気が付けば、銀座の華やかな雑踏からはずれ、何本か入った路地へと入り込んでいた。西銀座あたりではないかと思われる。店も、何となく、仕事終わりの親父たちが暖簾をくぐって一杯などというような飲み屋や居酒屋がひしめきあい始めていた。

【しげた食堂】

白地に、太い筆で勢いよく描いた食堂の名前 『しげた』と染められた暖簾を、奏は躊躇なくくぐり、引き戸をガラリとあけた。

「いらっしゃあい。」

威勢のよい女の声だったが、発したのは70代くらいのカクシャクとしとシニアレディだ。彼女は最後の客を送り出したらしく、テーブルの上の食器を片付けている最中で、奏がガラリと開けた途端、小動物のように一瞬固まっていた。

「なんだい、こりゃ、ヒョウでも降るんじゃないかね?え?近衛ちゃん、久しぶりだったねえ?」

皺だらけの顔に満面の笑顔が広がった。奏は照れたような笑いを浮かべた。風子は、奏に手を掴まれたままで放すタイミングがわからない。

「相変わらず、アンタ、イケメンだねえ?おや?同伴かい?こりゃ、本当にヒョウが降るわ。ヒャッハハハハ!」

豪快に笑ったおばちゃんは、どうやら風子たちが手を握っているのを見ているようだ。奏から手を放そうとしないから、風子があわてて、手を離した。

「おばちゃん、まだ、ある?」
「ふふん!近衛ちゃん、アンタ、本当にいつも食いっぱぐれることがない子だねえ?」

そういうや否や、厨房カウンターに向かって大声を出した。

「じいさん!鯵定食!」

言ってすぐに奏に向かって聞いた。

「二つでいいのかい?」
「ああ、いいんだろ?風子?」
「え?あ、う、うん。」

風子にしてみれば、何の話やら、、、だが、おそらくここで何かを食べさせてくれるらしいことはわかった。風子はお陰様で好き嫌いがないので、とりあえず、わけはわからなかったが、奏に促されるまま頷いて、テーブルに座った。

「じいさん!鯵定 2つ!」
「あんだって??」

厨房では一人で調理を担当しているのか、じいさんと呼ばれた男がひょこっと顔を出した。

「おやあ?これはお懐かしい顔だな?え?あんちゃん、元気だったのかよ?え?」

カウンターに顔が少しだけ出るくらいの小柄なじいさんが顔を出した。骨と皮のじいさんだが、やけに威勢がいい。

「ご無沙汰しています。」

奏は立ったまま頭を下げれば、カウンターのじいさんは、抜けた歯を見せて、嬉しそうに笑った。

「嬉しいねえ。社会人になってもこうやって訪ねてきてくれる。よっしゃあ、今日は、任しときな!鯵定でいいのかい?」
「はい。」
「よし、それなら、今日のオススメ、イワシの香味揚げも任しときな!」

じいさんも、そしてばあさんも、シャキシャキとした物言いや、まだまだ敏速な動きに、社会人現役の心意気が伺える。

「おばちゃん、ビールね!」
「 あいよ。」

奏は、いつになく饒舌で嬉しそうな声をあげる。よっぽど、この食堂と懇意にしているのだろう。

/シュポッ!/

テーブルに置かれたビール瓶の蓋を、ばあさんが、小気味よいくらいすぽっと開けた。

/トクトクトク/

無造作に注がれたビールは、アワだけが先走って、あっというまにコップをあふれさせる。

「おっと、、」

奏があわててズズっと泡を飲んだ。危ういところだったが、ビールは一滴もテーブルに落ちることなく、奏の喉ごしを通って行く。奏は実にうまそうに飲む。ばあさんから瓶を受け取った、奏は、ゆっくりと丁寧に、もうひとつのコップに注ぐ。コップは冷たく冷やされていて汗をかいていた。今度はうまい具合にアワとビールの割合が見事に収まった。

「ビール飲めるだろ?」

トン、と風子の前に置いた。気が付けば、喉がからからだ。思わずすぐに手にとって口につけた。

/ごっくん/

「あああああ、美味しい!!喉乾いちゃったから。走り通しだったしね?」

風子はごくごくと、まるでサイダーでも飲むようにビールを飲み干していく。奏は最初は驚いていたようだが、やがて目を細め、面白そうに、風子の空のコップに注いでやる。瓶はあっという間に空になった。

「おばちゃん、もう一本!」
「あいよおお!」

どこにいても、ばあさんの返事は実に気持ちがいい。そしてすぐにビールを持ってきてくれた。奥からじいさんの声が聞こえた。

「ばあさん、暖簾いれろよ?!」
「あいよ!」

暖簾をいれるということは、今日はもう店じまいなのだろうか。風子は時計を見た。17時半だ。もしかしたら、奏は、この食堂が閉まるからと、急いできたのだろうか?だが、風子が疑問を口にする前に、くんくんと自分のハナが過剰なほどに敏感に反応している。厨房奥から、ぷうんと、油の香りと磯の香りのような、何とも刺激的で空腹の腹に、これでもかと誘惑をし続ける。やがて、カウンターに鯵定食らしきお盆がポンと、二つのせられた。別のテーブルを拭いていたばあさんが、あわててカウンターに行く前に、大股でさっと奏がカウンターに近づいて、お盆を取って行く。見れば、まるまると太った鯵フライ2枚に大盛りのキャベツ千切り、大盛りのホカホカの白飯、お新香、そして味噌汁がお盆狭しと湯気をほわほわたてながら、のせられている。奏はそのお盆を二つ軽々と、ひょいと持って、こちらにやって来る。

「あら、悪いねえ、近衛ちゃん!」

ばあさんは本当にすまなそうな顔をした。けれど風子は、ばあさんの筋ばった細い腕を見て、たぶん奏は自分が持ってきたかったのに違いない、、そんな風に誇らしく思った。
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