餡子の行方

美味いもの・不味いもの 4.

/ざあああああああ、、、/

深夜に水洗の流れる音が響き渡る。案の定、風子は帰宅した途端、気分が悪くなり早寝をしたのだが、夜中、胃の不快感で目を覚ました。重い鎖を飲み込んだように、未だ消化できないらしいのか、胃が重い。むかむかした。食べ物がせりあがってくるような嫌な感じだ。両親が起きるといけないから、風子は階下のトイレに飛び込んだ。何度も何度も、何度も吐いた。苦しくて、辛くて、目尻に涙がたまる。

「う、、うううう、、、、」

こんなに吐いたのは、子供のとき以来だろう。食べ過ぎて胃痙攣をよく起こしていた風子だが、年とともに丈夫な胃腸に育ったお陰で、美味しいものを美味しく食べられる実に健康な体を手に入れた。成長期には、風子はありがたいことに滅多に病気になることもなかったし、まして腹をこわすこともなくなった。お陰で、入社してから1年半以上、未だ病欠で休んだことはなかった。

だが、吐いたその日、風子は初めて病欠で会社を休んだ。いきなり休む病欠は初めてだったから、少しだけドキドキしながら、メールで連絡通知を流した。





*****

/ブルルル、/

バイブの音で目が覚めた。あたりは薄らとなっていて、いつの間にかカーテンがひいてあった。随分と久しぶりにぐっすり眠ったような気がする。目の前の掛け時計が5時半近くだ。もう夕方なんだと驚いた。風子は、ゆっくりとタオルケットから腕をだし、ベッドわきに置いてあるスマホを手にとった。仰向けで画面を操作していけば、どうやら、ミッツからのメールのようだ。


【風子!大丈夫?】


5分後風子はミッツと会話をしていた。

「何かあった?昨日、アンタ、即効で帰ったでしょう?近衛兄とじゃ、、ないよね?」
「え?」
「だって、近衛君、近衛兄このえあに、昨日から泊まりの出張だって言ってたから。」
「そうなんだ、、、、」

風子の声があからさまに沈んだ。当たり前だけど、奏はそんなことは風子には言ってこない。おそらく佳つ乃は知っていたんだろう。出張で奏と会えないからこそ、だから、その時間を利用して、風子を誘ったというわけだ。

「どうした?元気ないのって、病気のせいだけじゃないでしょ?」

ミッツの声は機械を通すと感情がよくわかる。彼女は本当に心配そうな声を出して、風子の返事を待っている。いつもは厳しいことや強い口調で叱咤するミッツは、何だか電話を通すと、すごく優しい声に聞こえた。風子は我慢できなくなった。

「うわああ、、うわあん、、うっうっうっ、、、」

どこにこんなエネルギーが残っていたのだろう。胃液が出るくらい吐いて吐いて、精も根も尽き果てたと言うのに、、、そう思えるくらい涙がとめどなく流れ風子は大声をあげて泣き出した。喉がひくひくして熱くなって痛くて、胸がかきむしられるようだった。

「ミ、、ミッツ、、、、ミッツ、、ミッツ、、」
「ちょ、、ちょっと風子、大丈夫?ちょっとアンタ、わっ、どうしよ、わたし、、、」

哀れミッツは取り乱し、あわてふためている。こんなミッツは珍しい。風子は泣きながら、びっくりした声をあげた。

「ミ、ミッツが、あわててる、、」
「ば、ばか、アンタが急に泣くからよ。これから行くわよ!アンタン家、」
「え?」
「止めても無駄よ!つうか、泊めてはもらうからね!」

いつもの毒舌調で、ミッツは風子に有無を言わさず、すぐにカチッと通話を切った。何ともすごい実行力だ。口は悪いが、心底風子を心配してくれているのがよくわかった。ありがたい友だ。

(ミッツって、やっぱりショーニィと似てる、、、、)

初めてミッツと出会ったときから、風子は、何となくそんなことを思っていた。

(ショーニィ、、、出張なんだ、、、)

何気にこぼれた奏という名前、、、自分で言ったくせに、またじんわり、瞳が熱くなった。心が痛くてたまらない。これが片思いで、恋しいってことなのだろうか、、、奏に会いたい、、自分の手の中に掴めない男でも、それでも彼にとって風子は幼馴染で、佳つ乃を占める割合より明らかに少ないかもしれないけれど、奏は奏なりに風子のことを思ってくれているんだ。それがまた切なくて痛かった。

「ショーニィ、、、会いたいよ、、、、」

今度は声に出した。奏には、届かない虚しい言葉、、、この言葉を、そのまま送信出来ればいいのに、、、、儚いことを思いながら風子は目をそっと瞑った。涙が乾いて、目尻が少しだけヒリヒリした。




*****

「何て女なの?!はああ、計画的犯行ね、その女っ!」
「は、犯行って、、、」

風子が毒づく前に、ミッツが散々佳つ乃の悪口を言ってくれて、風子は、少しだけ飲み込んだ鎖が軽くなった気がした。だが、あとの重りは、もうどうしようもない。これは奏自身に抜いてもらわない限りは、一生風子の体をズルズルと重い鎖でがんじがらめにしてまとわりつくのだろう。

ミッツは会社が終わるや否や即効で家に来てくれた。風子の実家は、通勤からすればなかなか便利で、電車一本でいける。所要時間約35分というところ。最寄り駅からも徒歩5分とはいえ、商店街をつっきっていくので、あまり遠さを感じない。ミッツは、一人暮らしなので、新入社員の頃は、風子が彼女の食生活を慮って、実家に何度か呼んでくれた。勿論、風子の手料理で馳走するわけではなく、風子の母、晴子が料理するわけで、いい迷惑なのだが、そこは、小見山家。美人のミッツを大歓迎していたものだ。

最近では少しばかりご無沙汰の風子の部屋を、ゆっくり見回しながら、ミッツは息まいた。

「だって、近衛兄が、出張行くの知ってたのも確実じゃない?」
「うん、同じ職場だしね?」
「ふん、それだって、大方、その女が勝手に追いかけて入社したんじゃないの?」
「違うよ、二人は恋人だから、、」
「アンタね、それ、近衛兄にちゃんと聞いてみたの?」
「、、、、、」
「近衛君に聞いてみてもいいけど、、こういうことは、本人に直接聞いてみるべきよ!」
「うん、、でも、、もういい、、、もういいよ。ミッツ。」

風子はしょぼんと下を向いた。会社でもそれほど化粧はしていない風子だが、今日の風子は病み上がりだから正真正銘のスッピンだ。お大福のような、モチモチとした白いほっぺがぷっくりふくれて、唇をとがらせている。まるで子供のようなその表情にミッツの胸がきゅんとなった。

「もう、、、アンタって子は。」

気が付けば、ミッツのふくよかな胸にギュッとされていた。ミッツの胸は柔らかくて弾力があって実に気持ち良かった。ああ、幹大もこれに陥落したのかと、風子は何だか可笑しくなった。

「ふふふ。」
「何よ?風子?」
「ミッツのおっぱい気持ちいい!」
「ふふん。自慢の胸だもん。誰にもさわらせていないのよ。風子にしかさわらせてあげないわ!」
「え?」

一瞬、幹大の顔が浮かび、絶句している風子に、ミッツが大口を開けて笑った。

「本当に、風子、アンタって子は、正直すぎる。いやあね、嘘に決まってるでしょう?すぐ騙されるんだから。」
「んもおおおっ!」

風子はぷうっと頬を膨らませた。

「ふふ、元気、少し出た?」

今日のミッツは何だか本当に優しかった。風子はぐすんとハナをすすった。

「何だか調子狂うよ!ミッツ。」
「え?」
「やさしいんだもん。」
「ん?」

ミッツは何かを思いついたのか、そのまま黙り込んだ。風子は、何だかミッツに洗いざらいさらしたお陰で、、、、

/ぐうううう/

腹が鳴ってしまった。

「あんたねええ、」

恐る恐るミッツをみれば、ミッツは呆れた顔で、それでも嬉しそうだった。

「よかった!とりあえず風子から食欲とっちゃったら、いいとこなくなっちゃうもんね?」
「何よう!それ?!」

ぷうっとまたふくれたほっぺをミッツはつついた。

「まあ、とにかく食べて、元気出して、それから、近衛兄のことは考えなよね?」
「うん。」

本当にそうだ。空腹なんていいことありゃしない。風子の経験上、それはよくわかっていること。美味しい物を食べてから、それから考えようと、何だか余裕も出てきたようだ。明日は金曜日だから、奏が来る日で、、けれど、出張から帰って来る日だから、もしかしたら、遅くなって来れないかもしれない。会いたいけど、会いたいけど、会うのが怖い。風子の気持ちは揺れている。佳つ乃に現実をつきつけられ、それでも心のどこかでほんのわずかな隙間から、希望の光を信じているようで、実に往生際が悪い。ミッツには、面と向かって聞いてみろと言われた風子だが、やっぱり真実は怖いと思う。会いたいけれど会いたくない、なんて複雑なのだろうか。





*****

翌日風子は元気に出社だ。1日休んだだけなのに、薄い灰色が一面に広がるフロアーが何だか懐かしく思えた。

「風子先輩、大丈夫ですか?」

真っ先に声をかけてくれたのは、後輩凛子だった。

「うん。なんか、胃痙攣かな?すごい気持ち悪くなっちゃって。」
「もう、心配させないでくださいよ。」
「へへへ、ごめんね。」

いつもの風子の笑顔に、凛子も相好を崩した。

「お?小見山、大丈夫か?」

「小見山、お前、また変なもの拾って食ったのか?」

「やっぱり、小見山さんいないと、うちのフロアー寂しいよ。」

次々に同僚や課の先輩が声をかけてくれた。普段丈夫な風子だけに、いつもいるものだと思っているが、実際風子のいないフロアーは昨日だけでも何となく殺風景だったらしい。人見知りの凛子が、こんなにも早く課内の人間と打ち解けれるようになったのも、クッションに風子がいてくれるお陰だ。

「すみませんでした。もう、大丈夫です。」
「じゃ、今日の昼は、俺がおごってやるか?快気祝いな?」

2年先輩の筧(かけい)が嬉しそうに風子に向かって豪語する。

「マジですか?うわっ、かつ丼でお願いします。」
「お前、そりゃねえよ。腹こわしたばっかなんだから、もうちっと軽目のものにしろよ?」
「えへへへ。カツドンは別腹です。」

昨日十分な休養もとり、ミッツに何もかも吐き出したお陰で、風子の胃袋は絶好調だ。それにしてもたかだか1日病欠で休んだだけなのに、課内の人々のなんと甘いこと。けれど、みんな風子を認めているのだ。仕事はあまり出来るとは言えないが、言われたことはちゃんとやりぬくし、根性もある。何よりいつだって元気で笑っている朗らかさが、フロアーの雰囲気をほっこりさせてくれる。みんな、ちゃんと風子の良さを知っているから。

「よし!昼かっきりで、トンちゃんに行くからな!」

筧の威勢のよい声で、どっとみんなが笑った。風子は、トンちゃんのカツどんを思い出し、朝からゴクリと生唾を飲んだ。どんなことがあってもお腹は空くのだ。そして、気心のしれた人たちと食べれるのなら、美味しい食事はもっともっと美味くなる。そういえば、奏と一緒に食べたアジフライは絶品だったな、、と風子は思う。あれは、重田老夫妻の料理に対する愛情もそうだけれど、でも、一緒に食べた奏の嬉しそうな顔が、美味しいと思う気持ちに、ますます旨みを添えてくれたに違いなかった。
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