餡子の行方

風子の修羅場 3.

風子は、自分の髪の毛がはらりと頬にかかったのを感じた。風子の髪が、さらさらと力を失った佳つ乃の指先から零れ落ちていた。佳つ乃は驚いたようでそのまま動けないでいる。彼女は、まるで猛禽類に睨まれたカエルのようにぴくりとも動かなかった。

「風子っ!」

親鳥に呼ばれた雛のように、風子は無意識に奏の方へと足を踏み出した。子供の頃に培われた習慣とは恐ろしい。彼女は、奏の声を聞いただけで、さっきまではあんなに怖くてガタガタしていたのに、今は体中で安全だと言うことを知っていた。柔らかいダウンライトのせいか、ほっとしているような奏の顔が見えた気がした。

「おいで。」

言われるまでもなく風子は駆け寄っていた。奏の大きな腕が風子を捕まえ、彼の背中に隠すように風子を後ろへ行かせた。

「ツノ、、、」
「そ、、奏、、こ、これは、違うの!違うのよ!ふうこちゃんと行き違いがあって、、」

奏の眼鏡の奥がすうっと細まった。冷たい視線で佳つ乃を一瞥していた。佳つ乃は、初めて自分に向けられた凍るような瞳に、ブルリと体を震わせた。

「お願い、奏、お願い、違うのよ。違うの。」

駆け寄って奏の胸にすがろうとした佳つ乃を、奏は大きな手で押しやった。

「そ、、奏、、、」
「ツノ、、、今は、無理だ、、俺は、、、お前にひどいことを言ってしまう。」
「奏、これは何かの間違いなの。」
「風子に何かあったらと、、そう思っただけで、ツノを責めてしまいそうだから、、今夜は、悪いが、帰ってくれないか?」
「奏、、、、今、わたしち話し合わないと、、、わたしたち、、、だって、、、」

佳つ乃の瞳が潤み、マスカラやアイラインでしっかりと形どられた大きな瞳からポロポロと涙が流れ始めた。それが佳つ乃の計算なのか、それとも初めて無意識に流した涙なのか、、彼女自身わからなかった。

「ツノ、、、」

さすがに胸が痛むのか、奏の声が苦しげに唸った。

/ぎゅっ/

奏の後ろにいた風子が、奏のダンガリーシャツをギュッと握りしめた。

「風子、、、?」

奏は、後ろの風子を守るように片手で風子を支え、顔を少しだけ傾けた。あの時と一緒だ。風子がいつもビービー泣いてた、お肉屋さんのジョンに吠えられた時、『ばあか、鎖に繋がれてるだろ?』 いつものように口は悪いけれど瞳はとても優しくてそれを見ただけで風子の心は落ち着いたものだ。奏は変わらない。奏はいつだって風子の嫌なことはしない。

「ショーニィ、、ごめん、なさい、、わたしが、、悪い、、から、、、二人けんかしないで、、お願い、、ごめんなさい、、、」

自分のせいで、奏と奏の大切な佳つ乃が仲たがいをしているようで風子は辛い。泣きそうになったのを必死にぐっとこらえた。きっといつもの奏なら、ブッと吹き出して変な顔っ!とか言いそうだ。目があってるはずなのに、彼は何も言わなかった。それどころか眼鏡の奥の瞳を細め唇を歪ませた。とても辛そうな顔だった。

「わ、わたし帰るから、、、話し合って、ショーニィ。」

必死に嗚咽をこらえてる姿は、さぞかし不細工に違いないのに、奏は笑わなかった。何だか恥ずかしくなって、風子は思いっきり手で目をごしごしとこすった。奏の顔がみるみるうちに曇って困った顔になった。

「わかった。お前が帰りたいなら、送る。」

そんな風に言われてしまうと、困るのは風子だ。佳つ乃の狂ったような態度は、怖かったけれど、それは嫉妬というものだ。風子相手に激しいジェラシーを覚えるとは、よほど追い詰められていたことがわかる。奏の背中の温もりを感じていれば、風子だって余裕と落ち着きが戻る。だからこそ、佳つ乃をおいて、奏と一緒にこの場を立ち去ることなんてできないと思った。

「ショーニィ、わたし平気だよ。一人で帰れる。」
「風子、、、」
「お願い、今日は、佳つ乃さんと。話し合ったほうがいいと思う。」
「お前な?俺たちこそ話し合わねえと、、、」

奏はやっぱり風子を抱いたことを気にしているのだろう。結果的に二股ということで、本当は佳つ乃にだって話したいこともあるだろうが、一応風子に気を使ってくれているのだ。だからこそ、風子は決めた。もう逃げない。

「うん。わかった。話し合う。けど、今日は、佳つ乃さんと、、、お願い、ショーニィ、、、」

奏の背中越しから発した声は小さな声になってしまった。けれど、決して怯えた声ではない。風子の精一杯の勇気を絞り出した声だった。心配そうな顔をしたが、それでも奏は、風子の決心をちゃんと受けとめたようだ。風子の方へくるりと体を向けた。両手を風子の肩に置いて、風子を見下ろした。もう一度奏の顔が見たくて、風子はゆっくりとうなだたれた頭をあげた。背の高い奏がじっと風子の顔を見つめていて、本当に風子が大丈夫なのかを見極めているようだ。あまりにも近い奏の存在に風子は心臓が飛び出すかと思った。あわててぶんぶんと頭を振る。

「だいじょうぶ!本当、ダイジョブ!」

安心したかのように、やっと奏は少しだけ笑った。

「おう!じゃ、気を付けて帰れよ?」

頭をポンポンと撫でられた。風子の頭は、先ほどまで佳つ乃に強くひっぱられていて、ぼさっとなっていたけれど、奏の手のひらが優しく撫でると、息を吹き返したようにふわふわと揺れ動いた。風子はそのまま、佳つ乃と目をあわせないまま、軽く会釈をしてパタンと扉をしめた。

「ふうう、、、」

急に力が抜けて、廊下の壁に背中をドンとつけた。本当に緊張していたようで、先ほどまでの恐怖が今では夢のようで、あまり記憶がないように思えた。

(今夜は実家に泊まろう、、、)

奏と会った今、もう逃げる必要はなくなったわけで、トボトボとそんなことを考えながら店の出口へ向かった。

「風子っ!」

店先のすぐ外に、今一番会いたかった友の姿が目に飛び込んできた。ミッツの顔を見た途端、急に何かがプツンとはじけた。

「ミッツ! うわあああん、、」

風子はもう我慢が出来なかった。ミッツの胸にドシンと飛び込んだ。

「うわああん、ミッツ、、、怖かったんだよおっ!」
「うん、知ってる。きっとそうだと思った。あの女、性悪だもん。あの女と比べたら、黒葛原逸美つづらばらいつみなんて可愛いもんだ!明日、黒葛原にそう言って謝んなきゃ、はは。」

ミッツは、秘書課のぶりっ子黒葛原逸美の名前を出して、風子の気持ちを和らげようとした。風子はミッツのあったかい胸に顔をおしつけたままだ。

「ちぇっ、プー子!おまえ、超羨まし!メガウラヤマだぜ!三ツ矢さんの爆乳にそんな風にできるなんて、チェッ、羨ましすぎて泣けてくるぜっ!チッキショオオオー!」

頭上から、めちゃくちゃ羨ましそうな叫び声が聞こえてきた。

「か、幹大あっ?!」

風子は泣きはらした目で顔をあげ、幹大のむくれた顔をみつけた。だが、幹大はすぐにニカリと笑った。

「どうだ、気持ち、少し楽になったか?」

ミッツも幹大も、風子を心配して外でずっと待っていてくれたようだ。まだ日中は心地よい日差しだが、夜風に吹かれれば肌寒く感じる。いつもバッチリと決めているミッツの化粧も、今は、ハナの天辺が少しだけ赤くなっていた。

「ありがと、、、ミッツ、、、ついでに幹大も。」
「おいっ!俺は、ついでかよっ!」
「ふ、ふん!」
「大丈夫?帰れる?風子?」
「う、、うん。でも、今夜は家に帰るね、ミッツ。ごめんね、わがまま言って。」

ミッツは知ってるよ、とばかりに目を細めた。

「そう言うと思って、運転手連れてきたから。」

ミッツは、ガタイのいい幹大を見上げてニヤリと笑った。

「運転手って、お、俺?三ツ矢さん、そりゃあ、ないぜ。呼ばれてすっ飛んできたってえのに。あ!勿論、風子がなんか元気ないってことあるけどさあ?!」
「うん。ありがとね、幹大、ミッツも。」
「ふふふ、近衛君なら、きっと風子のためにも、そしてわたしのためにも、ここぞっていうときに何をおいても来てくれるって、信じてたもの。」

「あああ、三ツ矢さあああん。」

ミッツの流し目に、ズキュンと胸を打たれた幹大のハナがぴろーんと伸びた。単純だ、幹大は実に単純で、よろしい。世の中こんな人間だらけなら、もっと簡単なのにと、単細胞の片割れ、風子は思う。本当はわかってた。抱いてって言えば、奏を困らせること、、、でも、きっと奏は風子を傷つけないことも、、風子の知っている奏はいつだってなんだかんだ言いながら、最後は風子の頼みをきいてくれた。だから、本当にずるいのは風子だということ。佳つ乃を傷つけ、奏を困らせ、謝ってすむことではない。けれど、やっぱり、答えは簡単なことだ。逃げちゃダメ。明日、奏に謝ろう。許してもらえないかもしれないけれど、佳つ乃にも謝ろう。佳つ乃の言う通りにすれば、もう、奏と一生会えないかもしれない、、、、でも、、、、仕方がない。風子はそれだけのことをしたのだから。

「さあ、帰ろう!」

ミッツが威勢のいい声をあげた。曇り空に星の明かりがぼんやりしていたけれど、ミッツの声に救われた。何もかも吹き飛ばすような迷いのない声に、風子はうんと頷いた。
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