餡子の行方

想う人・想われる人 3.

「じゃ、風子ちゃんまたね。さようなら。」

結局佳つ乃のマンションの前まで奏は送った。マンションは最寄駅から車で15分ほど走った閑静な住宅街の中にあった。かなり家賃がお高そうだと、風子は、車内の窓に額をつけて、白い建物を見上げた。おそらく、佳つ乃は便利性よりも贅沢性をチョイスしたのか、立地は、車がなければ最寄駅に出るには、かなり不便といえた。

「奏、また、明日、、ふふふ。」

佳つ乃は運転席の奏に極上の笑みを浮かべ、車から降りて行った。マンションの灯りが、夜の闇にたたずむ佳つ乃のスラリとした肢体を照らし出す。思った通り、背が高くスレンダーな女だった。ポキリと折れそうな白い腕を出して、二人に手を振って、彼女はマンションのエントランスに消えていく。奏はその姿を見ているのか、名残惜しそうなのか、車のエンジンをかけずにじっと座ったままだった。
とっくに佳つ乃の姿が消えたというのに、奏はいっこうに出発する気配を見せない。ただ、不自然な沈黙が流れていた。風子は、息苦しくなった。もしかして、風子にここで降りろとでも言うのだろうか?

「あ、、あ、あの、、ショーニィ?」

ルームミラーの奏の瞳と目が合った。彼はずっと風子を見ていたらしい。

「お前さ、いつまでそこにいんの?」
「はい?」
「俺、おまえの運転手じゃないんだけど?」

やっぱり、ここで降りて帰れと言っているのだ。

「あ、ご、ごめんなさい。今夜は、えっと、ありがとう。びっくりしたけど、会えて、う、嬉しかったよ、ショーニィ。」

風子は、必死になって取り繕った。精一杯の虚勢を張って、目にこみ上げてくる熱い涙を、弱い心と一緒に、瞬きで追い払う。バッグを抱え奏に別れを告げ、ドアに手をかけた。

「馬鹿か?ここで帰ってどうすんの?」
「へ?」

/ドンドン/

奏は、先ほどまで佳つ乃が座っていた助手席を、トントンと叩いた。

「ここ、に来れば?」
「へ?」
「このままじゃ、お嬢様をお送りする運転手の図じゃねえかよ?」

何だか、佳つ乃と比較されたみたいで、風子の心がささくれ立っていく。どうしても今夜は、ほんの些細なことでも卑屈になってしまう。ずっとずっと会いたかった。どうしているんだろうと、思う気持ちを何度も何度も押さえこんで、気がつけば19年経っていた。奏たちはきっとまだアメリカにいるのかもしれない、、あるいは、日本に帰って来ても、どこか遠くで自分たちの生活を築いているんだろう。そうやって、どこか諦めていく中で、風子は自分の気持ちが風化していくものだと思っていた。最近ではあまり思いださなくなったし、だから、本当に気持ちは前を向いていると、そう思っていた。けれど、、、

突然、幹大に再会した。気がつけば、奏の車の中にいる。互いに19年ぶりだというのに、奏から何の優しい言葉もなかったし、懐かしさの余韻も感じられない。19年間の空洞を埋めようとする特別な感傷というものが、奏からは感じられなかった。想いが溢れて、溢れて、どうしようもないのは、風子だけなのだ。奏は、風子のことなんか忘れて、どんどんカッコよくなって素敵になっちゃって、大人になって、美しい女たちと生きてきたのだ。だけど今夜、幹大からメールをもらって、興味本位か、気まぐれか、そんな軽い気持ちで風子に会いに来た。そんな奏に、なんだか、風子はハラノムシがおさまらない。

「な、何言ってんの?!ショーニィ?ちょっと勝手じゃない?自分勝手過ぎるよ!」

言わないと決めていたのに、ついに口からこぼれてきた奏を攻め立てる言葉は、モクモクと黒々と風子の中から湧き上がり、もう止まらなかった。

「ずっと、ずっと、今まで知らんぷりしてたくせに、、急に会いに来て、勝手に車に乗せられて、、何がしたい、、、のっ、、、?!」

最後の語尾は、風子自身の吐く息にかき消された。喉の奥が痛くて、唾を飲むたびに、奥の方に隠してあった心の欠片が出てきそうで、何度も何度も風子は唾を飲み込んだ。パチパチと瞬きもたくさんした。気が抜ければ、目から熱い何かが零れてしまいそうだから。奏は、風子の口調に異変を感じたらしく、今までのルームミラー越しの会話をやめて、くるりと後ろを振り返った。奏の顔が先ほどよりも間近になって、彼の瞳に風子がしっかり映っていた。風子は、もう我慢できず涙が潤み始めていた。だが、彼女は歯を食いしばって泣かないように、ぐっとした顔で、奏を見返した。

「ふ、ふうこ、、」

奏の顔が曇った。驚いたような、困った顔のような、そんな表情だった。風子が泣きだすとき、昔から奏はこんな顔をした。だけど、別段優しい声をかけてくれるわけではなかった。だからといって風子のことを見捨てるわけでもなかったし、ただ、黙って風子が泣きやむのを待っていてくれた。けれど、今、風子の目の前で困った顔をしている奏は、別のことを思っているのかもしれなかった。せっかく佳つ乃と一緒だったのに、風子のお蔭で、今夜は佳つ乃の部屋にあがれない、、そんな失望感のところに、風子の涙を見て、どっと疲労感が押し寄せているのかもしれなかった。

「だから送ってくれなくたって、、」

勝手に頭の中がぐちゃぐちゃになっていき、風子はもうわけがわからなくなってきた。

「風子。」

眼鏡の奥の瞳が細められた。悲しい色のように映る。

「いいから、ここへ来い。」

穏やかだが、有無を言わさない口調は、手が付けられなくなったときの幼い幹大や風子たちに、奏がやる昔からの操縦法。風子も結局、腰をあげ助手席に移った。

/ガサガサ/

気まずそうに、風子が奏の隣にやってきた。

「風子。」

/ふわり、、/

下を向いたままの風子の頭が、奏の大きな手のひらで覆われた。そして、その手は優しいリズムでポンポンと風子の頭を撫でた。その温もりをずっとずっと風子は知っていた。不思議なもので、心がさああっと晴れていく。

「だって、ショーニィ、わたし、ずっとみんな、遠くにいると思ってた。ずっと遠くでわたしたちのこと忘れて生きてると思ってた。」
「忘れねえよ。」

風子の語尾にかぶせるような奏の声に、風子は上を見上げた。瞳に、端整な顔立ちの奏が目いっぱいに映りこむ。

「え?」

風子の見つめる瞳に、奏はすぐにプイっと横を向いた。

「ほら、シートベルト?」

反論もどこへやら、風子はまたもや素直にベルトをシュルっと体に締めた。本当にスリコミ現象とは恐ろしい。奏の言葉に逆らえないのだ。

/カチリ/

風子がきちんとシートベルトをしたのを確認したかのように、奏はチラリと風子を見た。そして、車はすうっと発進した。
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