シークの涙 第二部 永遠の愛
10.
モーセはすこぶる機嫌が悪かった。何もかもが気に入らなかった。わかっていたのだ。ハナはまだ若い。外の世界だって知りたいはずだ。20も年回りが違う。モーセは今まで色々なものをみて、色々な人間を見てきた。女遊びもしたし、ハナとこうなるまでは、眠れない夜は女を抱いた。けれど、ハナの初めてはモーセだったし、=これは男冥利につきるのだが= ハナはモーセしか男を知らない。モーセがハナの全てがほしかったから、ハナの羽ばたく未来への翼をもぎ取ってしまったのだ。
『モーセ、わかってると思うけれど、赤ちゃんはまだ作らないで。』
結婚した矢先、サビーンに釘を刺された。勿論モーセだって漠然と考えていたことではあった。
『長老たちすらも掌握できないのに、これ以上ハナに心労をかけないで。ハナは、まだ心の病が治っていないのよ。その証拠に、声がでないの。今はゆっくりとあなたの愛で癒してあげてほしい。彼女の余裕のないうちはまだ子供なんて無理よ。ハナを不安にさせないであげて。』
心療内科の医師の立場からもサビーンはそう付け加えた。確かにハナはまだ声が出ない。今は誰よりもハナの声を待ち望んでいるのはモーセ自身に他ならない。その為なら彼は金もおしまないし、労力もなにもかもすべて捧げるだろう。
『それからハナには少しは自由に過ごさせてあげて。お友だちと出かけたり、おしゃべりしたり、、同じ年頃の子と楽しむ時間を持ったってバチはあたらないでしょう?従兄殿は、そこまで了見が狭くないわよねえ?』
最後は嫌味なのか、サビーンの大きな瞳が意地悪そうに細まった。
『む、、、』
そう言われてしまえば、もう何も言えなかった。
どんなにハナを抱いても、のどの渇きは満たされない。いや、抱いた瞬間モーセの体中に強いエネルギーが湧きたち、全てを手中に収めたような自信と満足感に襲われる。なのに、ハナを放した瞬間、ひとかけらのピースが足りないように、ぽっかりと心に穴があいてしまうのだ。抱くたびに思う。
―――このまま子供が出来ればいい。ハナが妊娠してしまえばいい。
そうすればずっとずっと自分の庇護の下でハナを守り独占できるのだ。モーセはそんな葛藤と戦っている。どんなに女を抱いても、決して己を吐き出すことなどしなかったのに、ハナが相手だとモーセの体中が反応して本能的に子種を植え付けたい衝動に何度もかられるのだ。
(まったく、、、、)
ハナを思うとき、モーセはシークでいられなくなる。一人の男してハナを欲しているのだ。だからこそ、その衝動と独占欲を抑え込むことがどれだけ苦痛なことか、、なのにこの間のハナは =彼女の真意はわからなかったが= 自分に避妊具をつけるのをやめさせようとした。もしあのままモーセが本能のままに感情のままに流れていたら、今頃、ハナのお腹には子が宿っている可能性だってある。
(小悪魔め、、)
ハナの大きな濡れた瞳を思い出す。あんな瞳で誘われて、それでも己が頭を振ることが出来たのは、モーセならではだ。そう思うと、誰の目にも触れさせたくないなどという戯言も出てきて、実に情けなかった。
だが、先ほどラビから言われた言葉で、モーセは一気に現実に引き戻された。
『シーク、ハナさんが大学進学をお考えのようです。』
少なからずショックを受けた。ハナが外の世界を見たがっているかもしれない、、、それは、いつもどこかでモーセが考えていたこと。けれど、同時に、ハナの世界はモーセ一色で、モーセさえ傍にいれば彼女は満足するに違いない。そんな不遜な考えも、、、一度ならず何度も頭を過ったこともある。だが、今、目の前に現実をつきつけられた。しかもハナの口 =ハナが伝える= からではなく、ラビから聞くのも面白くなかった。
「わかった。」
モーセは無表情だった。
「ハナの好きにすればよい。」
低く言い放った。それはまるでハナに無関心だとも取れる口調だった。モーセはすぐに書類に目を通し始めた。もうこの話は終わりだとばかりにラビに命を下す。
「カタール氏に繋げ。前回の投資の話の続きを聞きたい。」
すでに仕事へと頭が切り替わっているようだ。ラビは銀縁眼鏡のブリッジを押さえたまま、頭を垂れ部屋を後にした。これからハナのために必要な手続きなどを考えながら、彼の頭の中は猛スピードで動き始めていた。
*****
その女主人は、秘密の覗き窓から客を値踏みしていた。覗き窓は、こちら側から客を観察することはできても、中にいる人間には覗かれていることはわからない。薄暗い室内だというのに真っ黒なサングラスをしている客は、先ほどからソファにふんぞり返っていた。決して端整な顔立ちではなかった。サングラスから出ている顔は、どちかといえば精悍で野卑な男のイメージだ。座っていてもわかるのは、ガタイの良さで大きくたくましい体をしている。その客は、窮屈そうなソファで足を組みながら、身動きひとつしていない。先ほど給仕が置いていった酒にも手はつけていないようだ。髪は手でなでつけたような自然なオールバックで、黒を基調としたスーツは男の野性味に一役かっているようだ。着ている服や靴、つけている時計も海外の高級ブランドもので、男にあったデザインは趣味がいいと言える。客としては悪くはなかった。
/トントン/
/ガチャリ、、/部屋の扉が開いた。
女主人は、ヒジャブと呼ばれる大きな布を巻いていたが、それはマスクのようなレース布で顔を完全に隠していた。かなり肉感的な体つきを隠そうともせず、えりぐりが大きく開いた胸元から見えるたわわな乳房は、今にもこぼれ落ちそうだ。腰をゆっさゆっさと振りながら男に近づいてくる。
「お待たせ致しましたね、お客様。それでお決まりになりました?」
媚びるような声は、さすがに男の誘い方を心得ているようだ。女の体から、甘く妖しげな香りがぷうんとその場に溶けていく。狭い部屋だが、なかなかな上等な部屋だ。客は全員顔を会わせないように、それぞれの個室で待つ制度となっていた。モスグリーンのペイズリー柄の壁紙と落ち着いたコーヒー色のソファは薄暗い部屋の印象を与え、どこか欧州の田舎町にあるような湿っぽい宿屋を彷彿とさせる。
「指名はない。」
そっけない口調と腹に響くような低く掠れた声音は、その風貌を裏切らなかった。
「じゃあ、わたくしのほうで選ばせて、、、」
「いや。」
男は、尊大な様子で、唇の端を揚げニヤリと笑った。
「アンタにしてもらおう。」
「あら、わたしはもうとっくの昔に薹が立っちまってますよ。せっかく若い小娘たちとの機会に、お客様?何を好きこのんで?」
「確かにそうだ。だが、俺はここしばらく女を抱いていない。」
「、、、、、、、」
「まずは、たっぷりとサービスしてもらいたいものだ。」
女主人は淫靡に笑う。
「ほほほ、物好きな方。でも心中お察し致しますわ。男は、女を自分色に染めたがり、真っ白な生娘は男のロマン。けれど時には互いに楽しめるような大人の女がご所望のときもございましょう。」
「ならば、主人。アンタにたっぷり楽しませていただこう。チップはたっぷりはずむつもりだ。」
女主人は、真っ赤に塗られた爪で男の太腿を軽く撫でて、ふふふと笑った。男が立ちあがれば、190は優に超えているその肉体は小さな部屋を圧倒する。
「確かお客様は、ユーラッシュさまのご紹介でしたわね?」
息を吐くたびに、女主人のかぶっているマスクが空気で膨らみまたへこむ。
「ああ。アンタ、そのマスク邪魔じゃないのかな?」
男の質問に、やり手の女らしく、クスリと笑った。
「お客様のサングラスと同じようなもの。」
「ふん。だが、こちらは、これをしていても、目いっぱい楽しむことはできるがな?アンタが覆面面では、何もできまい?」
「ほほほほ、お楽しみはまだまだでございましょう?今日はお客様のここでの初遊び。たっぷりサービスさせていただきますわ。ほほほほ。」
海千山千とはこういう女のことをいうのだろう。女主人は男の言葉に何一つ動じることはなかった。
「では、こちらへ。」
彼女は男を促しながら、部屋を後にした。立ち上がった男の体は本当たくましく、これから起こることに女は久しぶりに興奮を覚えているのがわかった。
Copyright(c) 2015 Mariya Fukugauchi All rights reserved.