シークの涙 第二部 永遠の愛

13.

/ピキッ/

灼熱のアルコールが氷を溶かしていく。すでに夜明けがまもなくやって来るというのに、寝室にも戻らず酒を飲んでるのでは自己管理が出来ていない、ラビは皮肉っぽく笑って、また一口煽る。サビーンの怒りはすさまじかったが、それも想定内。ラビは、モーセのいいつけでアショカ―ツールの娘、ユリカをタンパベラで面倒を見ている。それはモーセにとって側めと言われてもしかたがない状況だ。それをサビーンに告げた。彼女は烈火のごとく怒りだした。最後には、目尻の涙をそっとぬぐっていたのは、さすがのラビも驚いた。だが、ラビにしてみれば、こんな秘密をやっとサビーンに打ち明けることが出来て = 例えサビーンに散々イヤミを言われたとしても= 少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。

/カサリ/

「はっ!、、エ、エティ!」

足音にやっと気が付けばリビングにそっと入り込んできたエティだ。彼女は眠そうに目をぐりぐりとこすりながら、もう片方の手にはラビが買ってやったラクダのぬいぐるみを抱えている。エティは12歳になったばかりだが、小柄だから小さく見える。ダリオと一つしか違わない二人だけの兄妹で、ついついラビも甘やかしてしまうのだ。だが同情だけではない。それはこの兄妹を見ているとラビの中に切なく辛い気持ちが沸き起こってくるのだ。

「ん?どうした、エティ?」

エティは、ラビを指差したあと両手をあわせて頬に寄せた。小首をかしげて目を瞑ったので、ラビはエティが眠らないのかと聞いているとわかった。

「いや、寝るよ。エティはおトイレだったのかい?」

こくりと頭を縦に振った。

「そうか、じゃあ、眠ろうか?」

エティの前にラビは手を差し出した。ラビの手のひらがエティの顔を覆ってしまうくらい大きく見えた。

/ぎゅっ/

エティが躊躇なくラビの差し出した手を握る。ラビもしっかりと握りなおした。過去の贖罪に許しを乞うように決してこの手を離さないとばかりに、、、ラビは小さなエティの歩にあわせて、手を繋いだままゆっくりと歩きだした。




*****
ついぞこの数年前までは、屋敷のどの部屋もモーセだけのために息をしていた。食堂の家具も全てどっしりしていて落ち着いた空気を醸し出す。食卓の材質には分厚いローズウッドが使われ、頑丈さだけではなく、複雑な装飾がほどこされている。大男たちが10人以上はゆったりと座れるであろう大きなダイニングテーブルは、夕飯時には屋敷の主が独占する。だが彼がいるだけで、美しく優雅なテーブルでさえも彼の存在に圧倒される。モーセはそこで夕飯をとるときもあったが、今までにゆったりと食事を楽しむことなど滅多にはなかった。通常は、ワーカーホリックの如く、朝早くから夜遅くまで会社に残ったり書斎にこもっていたりする。そんなときは食事は簡単に食べられるものをモーセは好むので、せっかくのシェフの腕前も宝の持ち腐れであったりする。ところが、ハナが屋敷に住み始めてからは、モーセも優雅に食事の時間を楽しむことになった。ハナのお陰で、屋敷の中に色がついたかのように、ぱあっと明るく春が来たようだ。それからの屋敷はずっとほんわかしており、使用人たちは、ほっと安堵の息をついたりする。

だが、、、最近、モーセがまた不機嫌のようで、時折空気がピシリと凍る。ハナはそんなモーセを知ってか知らないのか、相変わらずマイペースぶりだった。けれど、ハナが来てから彼女の面倒をずっとみているタマール夫人は、眉根を寄せる。生涯独り身で、モイーニ家の先々代から忠誠を誓っている彼女は、ハナのことを孫娘のような気持ちで見守っている。そんなタマール夫人だからこそ、ハナのちょっとした変化にはとても敏感だ。ハナは一見、モーセの不機嫌さを気がついてないようにみえるのだが、時折見せる寂しげな表情にタマール夫人は思わずため息をもらす。天涯孤独なハナにとって、今やモーセは絶対的な存在だった。そんなモーセの様子をハナが一番敏感に感じ取り、悲しげな色を瞳に浮かべる。夫人の胸がツキンと痛んだ。

<モーセ、美味しいね。>

そんなことを言っているように、にっこりと満面の笑顔を浮かべたハナに、モーセの表情は複雑だった。葡萄マスタードと呼ばれる、このペルーシア産のぶどうとマスタードは本場フランスにも勝るとも劣らない。最近のハナのお気に入りで、このマスタードを焼きたてのフランスパンにぬって食べるのが、目下のハナの日課となっている。ハナは美味しい物を食べているとき、実に幸せそうな顔をする。モーセだって、幸せをかみしめているハナの顔を見れば、とろりと甘い顔をしたくなる。だが、今夜はぐっと奥歯を噛みしめた。

「大学はどこに行くのか決めたのか?」

いきなりの唐突の問いかけにハナはただ黙って頷いた。実際にどこの大学とはっきり決めているわけではなかったが、モーセの前では曖昧な答えはしない。勿論学びたい学部は決めてある。残ったパンを咀嚼しながらハナは憂鬱になった。というのも問題は金銭面だ。いつまでたってもモーセにおんぶにだっこではハナは心苦しくて仕方がない。ただでさえも、モーセと同じ足場を踏むことができないハナは、せめて、せめて、お金だけでもモーセの負担になりたくなかった。

「その件は後で聞こう。」

モーセの一言で、この話は打ち切りになった。またすぐにガサガサと布ナプキンとテーブルクロスが擦れる音、時折起きる皿とカラトリーのぶつかる音、あとは居心地の悪い沈黙だけ。ハナは別段モーセとの沈黙は何とも思っていなかった。むしろ、彼がしゃべらない空気でも彼との間の沈黙には色があると、そう感じていた。だから、いつだって自然体でいられた。けれど、、、最近、とみに思うこと。

(何で、自分はしゃべれないのだろう、、、)

モーセを愛しているという気持ちが強くなればなるほど、自分がしゃべれないことが歯がゆくなってくる。今までは何とも思わなかったこと。気持ちは、紙に綴ればいい。そう思っていた。思いは手話にして伝えればいい。そんな風に生きてきた。けれど、今は、何てもどかしいのだろう。モーセにハナの心を言葉に出して、声に出して伝えれない、、、何て哀しいのだろう。

ハナの胸に去来する寂しい気持ちを、咀嚼するパンと一緒に飲み込もうと、けれど喉が痛くて上手く飲み込めなかった。胸の奥底からあがってくる熱い想いが、それをおしもどそうとする。目頭が思わず熱くなって、今にも零れ落ちてきそうなものを必死に何度も瞼を瞬かせながら、ハナはモーセに悟られないように食べ続けていた。




*****
モーセの書斎は広くて、今夜は特にひんやりとしていた。それはエアコンの設定温度のせいではない。いつもなら一笑に付してしまうことが、まるで棘が刺さったかのようにいつまでもモーセの心にささっていく。きっかけは些細なこと。食事を終えて、ハナの大学進学の話をしようと、寝室へ誘った。勿論、ハナの大切な話だからピロートークのついでにするわけはなかったが、それでもすぐに終わる話だろうとモーセはタカをくくっていたのかもしれない。だがハナは、書斎を示した。モーセの眉があがる。ただでさえも、ハナが外界と接触を持つ=大学へ行くこと、 正直言ってモーセにすれば甚だおもしろくない。けれど見聞を広げるという意味では、ハナにとっては喜ばしいことであろうし、いつまでも籠の鳥というわけにもいかない。ハナが自由に外の空気を吸うことを心よく容認してやることがハナにとって精神上すこぶるいいことだと頭ではわかっているのだが。これは独占欲なのだ。モーセが世の中で一番下らないと思っていた独占欲。



『ふん、嫉妬に狂った男ほど馬鹿な真似をする。』


以前、モーセの社員が妻の浮気に腹を立て、浮気相手と妻を射殺。挙句、自分の頭をぶち抜いて自殺。そんな悲惨な事件にもモーセは興味なさそうだ。バカらしいとばかりに鼻を鳴らした。だが、今のモーセはそのときの馬鹿な男よりも劣っているのではないか。ハナのことになると知らずに感情が動いていってしまうことに最近は往生している。そして、このていたらく。ここのところモーセの不機嫌さが一気に押し寄せている。ハナが書斎で話したいという意思を示したことでさえも、モーセの心が黒くとぐろを巻いていくようだから情けない。


「何を学びたいのだ?」

それでも声だけではいつもの威厳を保つ。モーセの心中など例えハナとて読めるはずもない。いつものように、凛とした低い声は、ハナの小さな体をたちまちのうちに飲み込んでしまう。ハナは持っていたスケッチブックにマジックを走らせる。気の短いモーセを待たせてはいけないと、あわただしく文字が紙面をかけていく。だが不思議なことに、モーセは一度たりともハナをせかしたことはなかった。モーセはハナと対面に座りながら書斎デスクの向こうで、いうつものようにハナが書き終えるまで、ゆっくりと待っていてくれた。

【ペルーシアの福祉を学びたい。】
「ならば、ナイヤリハーマン大学でいいな?明日、ラビに願書を持ってこさせよう。」

完全にモーセは話を閉じた。彼の中ではすでに終わった話だった。だが、、

【ペルーシア国立大学】

書いた紙をハナはモーセに向けた。

「む?」
【ここで学びたい。】
「よいか?お前はペルーシアに住んでまだ1年だ。それほど我が国の事情に長けているとは言えまい。ハーマン大は、全てがそろっている。世界から選りすぐりの教授が呼び寄せられ、また設備も豊富で最新式のものが揃っている。図書館の蔵書も、各国の文学者や歴史家がこぞって訪れるくらい貴重で価値のあるものばかりだ。学びたいと思っているのならハーマン大学がいいだろう。」

ハナはモーセの言葉に耳を傾ける。大きな瞳がモーセをじっと見つめていた。だがキラキラと光る黒い瞳は頑固そうにペルーシア大学がいいと言っている。

「理由は何故だ?学ぶ以上はペルーシア最高峰で学ぶべきだ!」

モーセの声に少しだけイライラとした色がにじみ出る。ナイヤリハーマン大学はペルーシア王国の一流私立大学なのはハナだって知っていた。王家は代々ここの卒業生であり、ましてやモーセの母校でもあるのだ。だがペルーシア国立大学だって素晴らしい人材を輩出しているのも事実だ。サビーンはハーマン大学卒業後、わざわざペルーシア大学に籍を置き博士号を取っているのだ。

【ペルーシア大学も一流!第一、国立だから、お金がかからない。】

モーセに反抗するようで、だからハナの文字は段々小さく弱々しくなっていく。案の定、モーセの頭に血がのぼったようだ。

「金がかからないとは何だ?情ない!ハナ、お前は俺の妻なのだ!」

野獣が吠えるような大きな声が部屋中を圧迫した。ハナはピクリと肩を震わせた。モーセはハナを委縮させたと思ったのか、少し息を吐いて、間をとった。


「ハナ、お前はこの間、銀行で口座を作ったはずだ。あれはお前が好きなように使えばいい。もし、大学費用が不足だというのなら、わたしに言いなさい。いつでも都合しよう。」

それではだめなのだ。モーセはハナの心の内を知らない。それでは、ただ、囲われているだけの非力な愛人に過ぎない。ハナの本当になりたいものは、モーセの宝のひとつになりたくて、、、けれど欲望は貪欲に大きく広がっているのも事実。モーセの傍で力になりたい。ただ、お人形のように守られているだけでは、ハナはハナとして何の価値もなくなる。言葉がつむげない上、金銭的にも精神面でもすべてが受身であるならば、モーセの妻として何の役に立つのか。ハナとの間に子供すらも望まれてもいない、これでは今度娶ると言われた愛人と変わらないではないか。長老たちだけではない。ハナ自身、モーセにはふさわしくないと、負の感情がわき出てくる。

【いやです!大学は自分のお金で行きたい!】

どこまでもグルグルとハナの体をがんじがらめにしてしまう不安な渦を振り払うように、ハナは大きく頭をぶんぶんと振った。モーセとしてみれば、ハナがここまで我を通すと思わなかったのか、目を細めたまま、だが唇はぎゅっと固く結び黙っている。

【ハーマン大学は、わたしには高額。国立がいい!ペルーシア大学でもきっと素晴らしい学生生活が送れるはず!】
「ハナ、わかっていなのかもしれないが、お前はわたしの妻なのだ。俺だけの、、、」

ハナが気がつくより早く、モーセのたくましい腕がさっと伸びた。華奢なハナの腕はがしりとモーセの大きな手に掴まれた。

<あ、、、>

モーセの力で、書斎デスクを挟んでハナの上半身がすすっと机越しに引っ張られた。ハナの体が斜め上へと引き上げられる。モーセはしっかりとハナの片方の腕を拘束して、もう一方の空いた手でハナの顎をぐいとあげた。モーセのはしばみ色の瞳にハナの自信なさげな瞳が悲しげに映った。

「お前は俺の妻だ。」

彼の吐息まじりの言葉は、ハナの唇を塞ぐことでくぐもった。力強い乱暴な口づけだった。ハナは思わず手を引こうとしたが、モーセが許すはずもなかった。やがて、彼がゆっくりとハナの唇を離した。

<はあはあ、、>

乱暴ではあったけれど熱情的な口づけに、ハナの息があがる。モーセは怒ったような真剣な瞳でハナを睨んでいる。

「ペルーシア大学に行きたいというのなら、勝手にすればいい。だが、経済的なことは俺がだす。お前の金からはビタ一文使わせない。いいな?」

最後通告のようなモーセの言葉だ。だが、ハナだって負けるわけにはいかなかった。思いっきり自分の腕を引っ張れば、案外あっさりとモーセは手を離した。ハナは尚もぶんぶんと頭を振った。自分の胸を何度もたたく。それは、自分のことは自分でします、と言っているようだった。ハナの悲壮な決意は、その大きな黒い瞳にも表れていた。感情が高ぶったのか、涙がこみあげてきているようで、濡れた瞳がキラキラとモーセを凝視していた。モーセは呆れたように、ひとつ大きなため息をついた。

「ふん!勝手にするがいい。」

ハナを無視して、大股で書斎を出ていく。

/バタン/

扉の音がやけに響いた。堰をきったように熱い塊がハナの胸を押し上げてきたようで、瞳から零れ落ちる涙を拭こうともせずにモーセの出ていった扉を茫然と見つめていた。

そしてその夜、モーセは初めてハナと寝室を共にしなかった。その晩ハナはずっとずっとモーセの温もりを待っていた。涙が枯れてしまうと思うくらい、とめどなく頬をつたった。

「うっうっうっ、、」

大声を出して泣けないハナの胸は切なさと辛さでつかえてしまったようで、痛みだけを感じながら、一睡も出来ない夜を過ごした。

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