シークの涙 第二部 永遠の愛

14.

結局ラビはハナに何も言えてなかった。アショカ・ツールの末娘ユリカのことだ。幸いなことに、この女の存在は、まだトリパティの長老たちにも知られてなかったので噂がたつまでにはいかない。だが、遅かれ早かれ、長老たちはモーセの第一花嫁候補としてユリカを探すに決まっている。となれば、彼女が今、モーセの所有する場所にいることがわかれば、勝手な憶測が飛び交うであろう。

『ついにシークは心をお決めになったわい。』

などと長老たちはいいように解釈するだろう。

『やはり、シーク自身も、己の子を生み落とす母となるならば、生粋のペルーシア人がいいに決まっておろう。』

そうなってからでは実に厄介で、どんな形でハナの耳にはいるかもわからない。だからこそ、事前にハナには知らせておくべきだとラビは思っている。この件についてはモーセからラビのいいようにと申し使っているものの、実際に、ハナへ真実をどう話せばいいのか、冷静沈着なラビですら途方にくれているのだ。ハナを絶対に傷つけたくない、そんな強い気持ちがラビの中にひしひしと沸き起こる。先延ばししても何も始まらず、今日こそはとラビはシークの屋敷に向かう。夕刻18時を回っても、ここナイヤリシティは明るい。今日はダリオもエティもすでに帰路についているはずだし、モーセに至っては、王室への謁見に出向いている。サビーンはここのところ何かと多忙で、ならば、屋敷には今ハナ1人のはずだった。

タマール夫人に教えてもらいハナが書斎にいるというので、勝手知ったるなんとやら。長い廊下を進んで書斎扉をノックしようと思えば、扉が少しだけ開いていてハナの姿が隙間から見える。彼女は書斎机に座っているが、何をしているわけでもなさそうで、その面影は何だか寂しげに見えた。ハナの小さな儚げな姿が、亡き妹とダブってラビの胸がツクンと痛む。

/トントン/ 『ハナさん?』

ラビは、ドアを叩きながら明るい声でハナの名前を呼ぶ。すれば、ハナはまるで子犬が飼い主に呼ばれたようにしっぽをバタバタさせている様子で、すぐに満面の笑顔になった。

「何かありましたか?」

ラビの問いかけに、ハナはすぐに頭を振って否定した。近くに置いてあるスケッチブックでサラサラと書き始める。

【それより、ラビの方が顔色よくない。この間も、本当はわたしに話があったのでしょう?】

ハナは鋭い。声がでないことで、他の感覚をフルに使う。他人の熱量や発する空気に敏感だ。ラビは困ったような顔をした。

「ふふふ、、ハナさんには、隠し事ができないみたいで、、シークもそんなあなたを怖がってませんか?」

冗談で何気に言ったラビの言葉は、意外にハナの憂鬱をヒットする。

【モーセは上手に隠す、、、】

どういう意味だろうかと一瞬ラビは思考を止める。ハナとしゃべるとき、彼女は早く言葉を伝えるために、文字で言いたいことだけを羅列することが多い。だから、時として、文章がとてもツッケンドンになったり、本来のハナ自身とは少し違った雰囲気を羅列する。

「シークは何か隠しているのですか?」
【何を考えているかなんて、わからない。だから、わたしのこと怖いわけない!それにわたし、、嫌われちゃったかもしれない。】

ハナはアショカ・ツールの娘ユリカのことをすでに知っているのか。一瞬ラビの胸に不安が浮かぶ。だが、モーセが言わない限り、あのことは誰も知らない。かといってサビーンが言うとも思えない。となれば、ハナはハナなりに、モーセの放つ空気から何かを感じているのかもしれなかった。

「ハナさん、、、今日は、、、この間、わたしが言えなかったことをお話に参りました。」

ラビは覚悟を決めた。

「アショカツールが捕まった今、ダンマー族が、現在シークを失って、混沌状態なのはご存知ですか?」

ハナが動揺しないように切り出した。すでに1年近くたっていても、ハナはアショカ・ツールに両親を殺され、そして自分もひどい目にあっているのだ。だから、ラビは敢えてアショカ・ツールの名前は出さなかった。

ハナは大きな瞳をじっとラビに向けたまま、その先を待っている。

「え、、っと、、」

どうもハナの穢れのない瞳に見つめられることに未だ慣れない。ラビは少しばかりいつもの調子が出なかったが、それでも先を続ける。

「ダンマー族はシークを失い、宙ぶらりんです。シークには跡継ぎが、、、生まれたばかりで、内紛も起きかねない。小さな部族ですが、今まで平和的に王国のためにかかわってきた部族ということでは、前シークの功績は認められています。」

眼鏡の奥の瞳は、ハナの表情を見逃さない。ハナは今のところ落ち着いてラビの話を聞いているようだ。それを確認して、またラビは言葉を続ける。

「だからこそ、ダンマー族がシークを失った今、内紛で騒ぎを起こすのは、なんとも痛ましい。そう考えている我が部族の長老も多いのです。せめて、生まれたばかりの跡継ぎがシークとしての自覚を持つまで、ダンマー族は統制を保つべきだと。」

頭の回転の速いハナは、それで理解したようだ。持っていたスケッチブックに文字を起こす。

【モーセがダンマー族をしきる?】
「はい。それがペルーシア王国の為にも、また、ダンマー族の為にも一番いいのかと、長老だけでなく、シークご自身もそうお考えです。ただ、、、」

すうっと大きな息を吸って、ラビは気持ちを決めた。

「トリパティ部族の傘下にダンマー族が入るには、それなりの口実というものが必要になるのです。」

ハナの顔色が変わったのをラビは見逃さなかった。

【どちらの娘さん?】

書きなぐった文字がラビの瞳に映った。さすがにハナは聡い。ハナにしてみれば、モーセの女性関係は想像していたことだ。何の取りえも武器もないハナで、ましてやトリパティ部族に貢献できるものなど何もない。遅かれ早かれ、こんな日が来るのではないかと、胸の奥底にその不安を追いやりながら日々を過ごしていた。ただ、モーセがあまりに優しくあまりに甘くハナに接するから、忘れているように見えても、どこかでいつも不安が付きまとうのだ。この屋敷の宴で会った、二人の美しい娘を思い出した。

「それが、、、」

言いにくそうに話し出すラビの言葉に、ハナは胸を抑えた。当たった。嫌な予感が当たってしまった。大輪の薔薇のような華やかで美しく自由奔放に育てられた長女、アマル。そして、ペルーシア王国の女として育てられたユリカ。ハナは出来ればアマルであってほしいと思う。モーセの枕を温める女がアマルなら、と願った。ヒジャブをかぶり、それでも艶のある長い髪は隠せない。いつも顔を俯いて、けれど、時折長い睫があがれば、ドキリとするような美しい瞳を見せるユリカ。奥ゆかしくて、男の影を踏むことは一生ない。

「下のユリカという娘です。ハナさんは一度お会いになりましたよね。」

思わず瞳を閉じて、ハナは吐息をついた。ペルーシア女性として教育を受けた従順なユリカ。彼女なら、おそらくモーセは、、、そう思っただけで、ハナの胸がむかむかとして、この場から逃げ出したくなった。

「大丈夫ですか?ハナさん?」

心配そうな瞳が眼鏡の奥から見えた。ハナは頭をこくこくと振るだけで精いっぱいだ。

「ですが、ユリカ嬢は単に形式上の側室といいますか、、」
【大丈夫。わたしは平気。でも今日は一人にさせて、、】

スケッチブックにはハナの悲痛な叫びが表れでたような、不安におしつぶされそうな、そんな頼りない字だった。

「ちょっと、待ってください。」

ラビは、肝心なことを説明しようと思う。モーセはきっとハナだけなのだと。ユリカは単に長老たちの隠れ蓑に過ぎないのだと、、、だが、これはあくまでもラビの解釈で、ラビの思考だ。モーセが何一つ言ったことではない。モーセの考えなど誰にもわからない。仕事のことならとにかく、長年勤めあげたラビですらモーセの心の奥底など見透かすことなど出来ない。ならば、そんな不確かなラビの言葉がハナの何の慰めになるというのだろう。ハナは肩を落とし、顔色も悪かった。痛々しいハナを見つめ、ラビは言葉を告げなくなった。

「ただ、ユリカ嬢をハナさんの目に決してふれないようにとのシークからの厳しい命令が下っております。彼女はナイヤリシティにおられませんから、今後もお会いになることはないと思います。」

やっとそれだけをラビはハナに伝えた。だがハナにとっては、もう何も耳に入らないようだ。

「それではハナさん、、また。」

ラビは同情の眼差しをハナに向け、そっと部屋を出て行った。バタン、扉が閉まった音と同時にハナは大きな息を吐いた。


わかっていた、、、自分がモーセに全身全霊をかけて愛されるほど価値のある人間だとは思っていなかった。わかっていたはずではないか。それでもハナの瞳には涙があふれてくる。ハナとの間に子供を作りたくない。モーセの意思は明白だ。だから、遅かれ早かれ、モーセの周りにはハナの足元にも及ばない女たちが、未来のモーセJR.の母になるべく、いつか必ず現れる。それが早かっただけだ。けれど、、、、溢れる涙はもう止まらない。

(ユリカさん、、、)

豪華な姉、アルマの影でひっそりとたたずむペルーシア教育をしっかりと受けた女、ユリカ、、、ハナはユリカを思い出す。楚々としていて清楚で、そして奥ゆかしい。モーセの言うことには絶対に逆らわず、モーセの為に身を尽くすであろう。美しくそして可愛らしい、その上献身的な女を嫌いになる男が世の中にいるだろうか。おそらくユリカは、モーセJR.の母になるにはこれ以上に相応しい女はいない。そう思った瞬間、ハナの胸がズキンと痛んだ。こみ上げ来るドロドロとした黒い醜い嫉妬。

(ユリカさんならきっとモーセに反抗しない。)

ハナは後悔はしていないけれど、ただあの夜モーセに逆らった書斎での出来事を思うと胸がズキズキと痛み始める。大学のことで思わぬ口論になり、モーセは怒った。ハナが頑固で我を通したから。あれから、彼はハナを避けているのか、食堂で食事を共にすることは極端に減った。そして、、夜だって、、あれ以来彼は一度もハナの傍で眠ることはなかった。

(そうか、、ユリカさんのところへ行っているのか。)

ラビは、ハナとユリカが鉢合わせしないようにタンパベラのリゾート地で彼女が滞在していると言ったけれど、お忍びで、モーセがナイヤリシティに呼んでるかもしれない。彼女なら、長老だって世間だって、シークの妻に相応しいと思うに違いない。美しく可憐で従順そうなユリカの顔を思い浮かべた。彼女なら、決してモーセに逆らうことはしないだろう。恥じらいながらも、彼の成すままで、、、名前だけの妻のハナよりも、ユリカの方がモーセに愛されるにはうんとふさわしい。モーセの大きな手がユリカの髪を優しくなでて、、

<うっ、、、>

思わず頭に過った光景にハナはぎょっとした。

(いや!いや!)

モーセの宝のひとつになれればそれでよかったのに、、、けれどハナの本心は、もうそれだけでは満足ではできない。モーセの体を知ってしまい、男の本能をむき出しにされた今、ハナはもう昔には戻れない。もっともっとモーセを欲しいと思う。何と愚かしく醜い女に成り下がってしまったのか。そう自分を蔑んでも、蔑んでも、モーセを今さら手放すことができるのだろうか。

でも今はモーセの幸せだけを、、祈りたい。それもハナの本心だ。なぜなら温かい家庭を一番欲しているのはモーセだから。

ハナは確信している。モーセはいつでも孤高を保つ孤独の男。だからこそ、彼は人一番、安らげる場所を必要としている。ハナとそれを望んでいる、モーセがそう思ってくれている、、そう信じていた。けれど、ハナとの間に子を成そうとしないモーセの態度を見れば、ハナを安らげる場所だと彼は思っていないのだ。ハナは天涯孤独で哀れで、その上、モーセがこの世のライバルと思う憎き男、ジョセフ リドリーが孫のように慕う女だ。あの時、リドリーはハナに申し出た。


『だからハナ、これからのことなのだが、どうだ?わたしと一緒に、わたしのところでゆっくりと暮らさないかね?』


モーセはきっぱりと否定し、ハナもその申し出を断った。それはハナにとっては夢にも昇る気持ちで、モーセに望まれているとまでハナには思わせるに十分だった。けれど、今冷静になって考えてみれば、あれは、ハナへの同情、そしてモーセのライバル・ジョセフ リドリーへの対抗意識、ただそれだけで、ハナを手元に置いたのかもしれない。勿論モーセは男だから、ハナを抱く、、それは彼にとっては、愛していても愛していなくても、何の問題もない行為。

―――――愛している。

確かにモーセはハナに向けて言ってくれた。だが、今や、その言葉すらも揺らぎ、うっすらとモヤがかかっていく。モーセは愛をくれた。それはハナが彼の宝の一つになりたいと願ったから。けれど、モーセは普通の男ではない。大きな勢力を持つトリパティ部族の長なのだ。そんな男が囁く愛など、幻で蜃気楼のようなもの、、、

/ポトリ、、/

また涙が落ちた。こんなにもモーセを遠くに感じている。愛してくれる彼の大きな手はとても温かい。ハナに優しくとても甘い。でもそれは、ハナの経験のなさから、ベッドでのモーセはハナにこれ以上もなく気を使っているのだ。体が離れれば、モーセの考えていることなどハナがわかるはずもない。

もしかして止めてくれるかもしれないと思った大学へ行く話も、ラビ経由でモーセは快諾だという。そのあとモーセと顔を合せても、彼はハナに何も言わなかった。ユリカをモーセは傍に置くことに決めた。モーセの瞳を、ハナは別の女と分け合うことになるのだ。恐らくハナは耐えられないだろう。ならば、今は出来ることに身を置くしかない。

(モーセの傍を離れたくない。でもモーセの重荷になるくらいなら、死んだ方がまし!)

ハナはずっとそう思っていた。だから、今は大学へ行こうと思う。

大学で色々な知識を身につけておけば、いつか、きっとモーセの役にたつかもしれない。

脳裏に浮かぶのは、モーセの顔だ。凛々しくどこまでも美しい男。例えいつか飽きられることがあっても、何かの事情でハナの手を離すことがあっても、ハナはきっと誓う。モーセのためには自分の命を捨てる覚悟を。






*****
最初におかしいと言ったのはダリオだ。

「ラビ先生、ここ見てください。」

そう言ってダリオが持ってきたのはモイーニエンタープライズのここ数年の株価グラフだ。

「10年前からずっと、株価が安定しているのはご存じですよね?」

ラビは勉強熱心なダリオを頼もしそうな目で見つめ、黙って頷いた。

「勿論、我が社が鉄道プロジェクトに参入したり、新会社に投資したりという、人目を集めるニュースの時の株価は右肩上がりですが、、、それ以外は安定しています。」

コホンと咳払いをしたダリオはいっぱしのビジネスマンようだ。彼は株式投資書類をどさりとラビの机に置いた。一冊の小雑誌のページをめくりラビに見せる。

「ちょっと見てください。ここなんですが、」

大人の指にしてはまだあどけなさが残るが、それでもダリオは13歳にしては大きな手で紙面を指し示した。

「ここ、1年、月末時に、大量買いが起こっています。」

勿論大量買いとはいっても、モイーニ・エンタープライズを脅かすような額ではない。だが確かに月末だけ急に、株価が上がり、あとは緩やかにいつもの株価を保っている。その動きがここ、1年、毎月起こっていた。しかも、最近になって、モイーニエンタープライズの株を買っている額が増えているようだ。

「別に、こんな額ではのっとりとかそんなリスクはないと思うんですけど、、」

それでもダリオは心配そうにラビの顔色を窺った。

「確かに、おそらく、2,3の投資家による大量買いなんだろうし、このくらいでは我が社はびくともしない。だが、確かに気になるね。」

ラビは、くいっと銀縁のフレームをあげ目を細める。ダリオから小雑誌を受け取り、その前後のページをめくり丹念に株価の変動に目を通す。気になるのは、この動きが毎月、判で押したような動きを繰り返しているのだ。しかも、月末時、25日前後に株価が少しあがり、あとは緩やかに正常化となっている。

「調べてみよう。ダリオ。よく気がついたね?」

ダリオの顔がパッと明るくなって上気した。ラビになんだか認められたような、そんな嬉しさだ。

「は、はい!」

学びたくて学びたくて、うずうずしているダリオの目の輝きに、ラビは満足する。ダリオはきっと伸びる。いつか、モーセが手離せなくなるようなそんな人材になる。いや、そうなるように、だからこそラビはダリオに少しずつ少しずつ己のスキルを見せているのだ。言葉で教えるのではなく、見て覚える。ダリオはそれがしっかりと出来るタイプだった。

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