シークの涙 第二部 永遠の愛

18.

『お兄ちゃん』

今日も可愛い声が響く。マリアムは人見知りで恥ずかしがり屋。自分の感情を表すのは苦手だけれど、兄のラビにだけは体いっぱいで喜びや嬉しさを表してくれる。それもそのはず、マリアムにとってラビはこの世の唯一の肉親だ。両親は幼い頃、言われぬ罪に問われ処刑され、それ以来、兄妹だけで慎ましく暮らしている。兄の目から見ても、マリアムはとても愛らしく素直に育っている。大きな茶色の瞳を飾る豊かな睫毛や、愛くるしい赤い唇は、周囲の者を魅了してやまない。14才のマリアムはまさに蕾。このまま、変わらないまますくすくと育ってほしいと、マリアムを見つめながらラビは思う。

『なんだい?』
『あのね、ラリットおばさんがこれくれたの。』

マリアムの手には古びたお皿にチョコンとのせられた肉の塊。スラム街の貧しい暮らしだが、そこに住む人々の心は温かい。みんなで 助け合っていきていこうと互いに手を差しのべる。親を亡くしても妹を慕い、兄を慕うこのラビとマリアムは、スラム街に優しい火を灯し、人々の優しい気持ちを動かしていく。ラリットおばさんは特にこの兄妹を気にかけてくれて、日頃から何かと面倒を見てくれている。

『よかったね。今日はラムのハーブ焼きだよ!』
『嬉しい!お兄ちゃん、嬉しい!』

ちょっとばかりのラム肉だが、赤肉の栄養を育ち盛のマリアムに食べさせることが出来るのがラビには嬉しくて仕方なかった。ラビだって15才で育ち盛りまっさかりなのだが、平均値よりもだいぶ細すぎるマリアムを心配するラビの兄としての気持ち。

『お兄ちゃんは、疲れてるでしょ?わたしが料理するから、大丈夫、休んでて。』
『何言ってるんだ、マリーだって疲れてるんだろ?』

今日は7日ぶりの休息日。兄は朝から夕方までゴミ収集の仕事をこなし、夜は工事現場で汗を流す。妹だって、体力こそなかったけれど、それでも兄の手助けになればと裕福な屋敷の家政婦をしていた。毎日兄妹にとって過酷な日々だけれど、この日だけ、日曜日だけは二人とも仕事を休み、この世に二人だけしかいない肉親の絆を確かめ合う日にあてている。

『ううん、大丈夫。』

まだまだあどけなさがぬけないものの、こういうときは母親に生き写しだなとラビはこそばゆい。

『そうか、なら、俺は窓のたてつけを直して来るよ。』

かなり前からたてつけが悪く、窓の開け閉めに、マリアムの力ではかなりきつい。早く直してやらねばと思いながらも、毎日に疲労に負けてラビは修理できないジレンマに自分を責め続けていたのだが、今日はやっとそんな罪の意識から解き放たれる。





『お兄ちゃんって好きな人いないの?』

小さな塊とはいえ、久々の肉が食卓にあがり久しぶりの馳走となった。

『マリー、もう少しお食べ。』

ラビは肉を半分切ってマリアムの皿にのせようとする。妹は兄を思い、ラムのほとんどをラビに盛り、自分はほんの欠片の肉で我慢していた。ところどころにヒビのはいった黄ばんだ皿の余白だけが広く見えた。

『お兄ちゃん、論理的に考えて!お兄ちゃんは170cm わたしは、150もないのよ?』

発育盛りの兄を思う優しい妹の心だ。ラビは険しい顔をしたが、妹のキラキラした瞳を見つめればもう何も言えなかった。ありがたくラムをいただくことにする。

『んもおっ!はぐらかさないで!好きな人はいるの?』

妹の真剣な眼差しにラビは首をかしげる。

『何だよ、それ。お兄ちゃんに彼女がいないのがそんなに心配なのかい?』

ラビの言葉にぽっとマリアムの頬が紅潮する。

『ふうん。いないんだあ。』
『何だよ、バカにしてるのか?』
『ううん。嬉しかったの。』
『うん?』
『だって、お兄ちゃんはわたしの憧れだもの。ずっとずっと独占したいんだもの。』

ラビはフフフと笑う。人形のような端整な顔立ちが優しくなった。

『そんなこと言ってるのは今だけさ。そのうちマリーにも好きな人が出来て、オレなんかきっとほっとかれちゃうよ。』

すると眉を寄せたマリアムが言い放った。

『絶対ない!お兄ちゃんはわたしの中では永遠だもん。世界で一番大好きな人だもん。』

妹の魔法の言葉に、思わずラビの心があったかくなっていく。だが、ラビはこのとき、マリアムの心の叫びを真剣に受け止めることはなかった。それがマリアムの真実だということを。



だがその夜、ラム肉の効力も虚しく、ラビは疲労のためか熱に悩まされ体力を奪われた。珍しく長く床をつくことになった。高熱が続き、マリアムは病院へ行こうとラビを説得する。けれどラビは最後まで首を縦にふらなかった。こんなものはただの風邪で寝ていれば治ると。医者代を払う余裕などない現状を、マリアムが嘆かないようにとラビは必死にカラ元気をみせた。

『ハハッ。久しぶりにラムなんか食っちまったからきっと体がびっくりしたんだよ。それがわかってたら、お前に、やっぱり半分やればよかったなあ。』

力なく笑うラビの気持ちがわかりすぎるからマリアムも必死で笑おうと努める。

『お兄ちゃん、ごめんね。わたしも、半分もらっとけばよかったね。』
『だな?ハハッ。』

マリアムは泣き笑いを続け、ラビはやがて深い寝息をし始めた。

『お兄ちゃん…ごめんね。』

綺麗な寝顔の兄に、マリアムの頬を伝わったのは、苦労をかける兄への詫びへの涙だった。




何とか熱も下がり、これ以上は休むことが出来ないラビは又過酷な毎日の労働へと戻った。ある夜、工事現場の仕事を終え、いつものように夜中に帰ってきたラビは暗闇の中でベッドにぺたりと座っているマリアムを見つけた。

『どうしたんだ、マリー。』

ラビは灯りをつけるのも忘れ、マリアムの傍にかけよった。

『どうした?』

マリアムはただ涙を静かにながしているだけで、何も言わない。

『マリー、マリアムッ!どうした?!』

ラビは必死になって、マリアムの両肩を揺らす。暗闇でもわかるマリアムの瞳は泣きぬれてキラキラと光っていて、それが一層ラビの心を締め付けるのだ。

『お…兄ちゃん…抱いて。』

言う通りにラビは、自分の腕にぎゅっとマリアムを抱きしめた。甘えるようにマリアムはその胸に体を預ける。

『違うの。本当に抱いてほしいの。』

ラビの腕の中でマリアムの華奢な体が小刻みに震え、その声には緊張が張りつめているのがラビの体に伝わってくる。

『抱くって?』
『お兄ちゃんの全てがほしいの。』
『え?』

マリアムの衝撃の告白に、思わずラビは妹から体を離した。

『な、何を言ってるんだ、マリー。お前はその意味をわかっているのかっ?!』

ラビの声音は、諌めるようではあったがとまどいの色も帯びていた。それでもマリアムは、暗闇に背中を押されるように必死にラビにしがみついた。

『いや、お兄ちゃん!お願い!抱いて!』

何故マリアムがそんなことを言うのだろうかと思いながらラビは唇を噛みしめた。ラビの指先は震えていた。動揺している己を落ち着かせるように、ラビは深く息を吸った。

『俺たちは兄妹なんだよ。そんなことが許されるわけないだろ?』
『兄妹でなければいいの?』

ラビの本音を探るようにマリアムの言葉は鋭かった。ラビは言葉に詰まる。それは何を意味をしているのだろう。だが、最後の線を踏みとどまるように、ラビは優しく妹の頭を撫でた。

『俺のマリアムでいる限り、お前はずっと俺の妹だよ。』

マリアムから力が抜けていく。ラビを必死に掴んでいた指先も今は意思を失くし、力ないまま惰性のように腕に置かれている。ラビはマリアムの指をそっと掴み、優しく体から放した。

『世界で一番大切な俺のマリアム、お前はずっとずっと俺の宝物なんだよ。』

闇に眼が慣れ始めると、マリアムの苦しげな悲しげな表情がわかった。何故、マリアムがこんなことを言い始めたのか、ラビには全くわからなかった。心あたりがなかった。マリアムの体にこれ以上触れていたくなくて、そのままマリアムを置き去りにして、ラビは家を出た。帰って来たばかりで疲労でクタクタなのに、体の中で沈んでいる暗闇に、急に鮮明な青白い閃光があたっているようで、落ち着かなかった。いつもなら眠気の襲来がやってくるというのに、頭が冴えわたり、ただ、何故マリアムが急にそんなことを言いだしたのか、、、そんなことを漠然と考えながら、もうすぐ日の明ける町を彷徨い歩いていた。



事件が起きたのはその翌日だった。いつものようにラビはゴミ収集の仕事を終え、そしていつもより必死になって工事現場で体を酷使していた。デコボコの道をつるはしで掘って行く仕事はかなりキツイ。けれど今日はそのきつささえもラビにはありがたかった。単純作業は何もかも忘れて、やがてそれに没頭することができる。

『ラビイイッ!』

夜明けは近くてもまだ闇はそこにいて、突然、その薄暗さから悲痛な叫びを耳にした。ラビは聞こえてきた方へ目をこらし、闇の中のものを確かめようと手を休めた。すぐに闇から飛び出して来たのは小柄な少年で、スラム街の顔なじみだ。セメロスは10歳だが、生活のために闇組織の下っ端で小銭を稼いでる。

すぐに息せき切って走ってくるセメロスと目があった。

『来て!マリアムが!』

それで十分だった。ずっとずっと嫌悪と苛立ちがモヤモヤと心の中をゆっくり動き回り、そしてわけのわからない不安が渦を巻いて、胸が押しつぶされそうになっていた。それが吹き出さないように、必死で心の奥に抑え込んでいたラビだったが、それが一気にあふれ出てきた。

『マリアムはどこだ?』

形相の変わったラビはすぐに走り出した。工事現場仲間は、ラビの殺気すら感じさせる体の空気に、ただ背筋を凍らせていた。








*****

『マリア――ム!』

セメロスに案内された場所は、働いていた工事現場から15分ほど走った廃墟だった。10年前まで、ずっと長い間アルミニウム工場として稼働していたここは、当時、活気に満ちて多くの労働力を提供していた。一時は貧しい人間の命綱として人々の生活を助けていたものだった。だが、それもITテクノロジーの普及により古い体質の工場は経営が窮地に追い込まれ、ついに、その40年の歴史を閉じた。それ以後忘れられた荒れた土地へと変わり果てていた。

ラビは震える体を奮い立たせ、不安な気持ちをかき消すように足早に鉄格子門に手をかけた。門は壊れていて、押せばギイッと一回だけ重苦しい音をたてた。開けた途端、錆びで赤褐色になった塗料がボロボロと地面に剥がれ落ちた。

建物の外観も石壁にもあちらこちらとヒビが入り、ブロック塀は崩れ落ち、もし当時の活気にあふれた工場を知っているものが見たら、今の姿にどんなに胸を痛めるだろう。中に入れば、ゴミ溜めの臭いと =時折浮浪者が宿代わりに使わっているらしく= 錆びてしまった時代錯誤の機械の残骸が置いてあり、息を吹き返さない虚無の世界に空気がひんやりとしていた。勿論、灯りなどなかった。そろそろ明けていく赤く染まる空の光を頼りに、室内がぼんやりとしていた。ラビは中に入って、何度も妹の名前を呼んだ。

『マリー!マリアームッ!』
『こっちだ、ラビ!』

セメロスが左奥を指差した。すっかり薄暗い闇に慣れたラビの瞳に、真っ白な足がぼんやりと映りこんだ。

『マリー?』

すぐに駆けよって、ラビはその傍でガタンと体を崩れ落とした。マリアムが横たわっている体の下に、黒っぽい水たまりができていた。

『マリー、マリー。』

闇に浮かぶ白い足は、汚れた泥とうっすらと赤いものがまじっていて、腿の方から血が流れ出ていた。水たまりだと思っていたそれは、マリアムの体中から流された血だとわかった。幸い、血はほとんど止まっているようだが、そのおびただしいどす黒い水たまりから、どれだけの流血があったのか、考えるだけでも怖かった。ラビはマリアムを抱き起し体に抱いた。生温かく、どろりとした感触がラビの作業ズボンからでも伝わってくる

『どうした?!マリアム!何があったんだ?マリアム。』

マリアムの顔は、殴られたせいで変形していた。目の瞼は腫れ、鼻からも口からも血らしきものが固まって肌にこびりついていた。頬も殴られて赤くはれていたし、片方の目はもう潰れかけている。

『何故、こんなことに、マリアム!目を開けてくれ―っ!』

体はまだ温たかかったがマリアムはぐったりとしていた。ラビの腕の中で小さな温もりが、今、生と死を彷徨っている。マリアムの衣服は引き裂かれていて、スカートがやっと腰に巻きついている。下着すらもはぎとられていた。マリアムを片手で抱き支えながら、ラビは器用に作業上着を脱いでパサリと彼女の体を隠した。おそらく何者かに慮辱されたのは間違いなかった。しかも、マリアムのボロボロになった体からは、一人だけではなく数人に乱暴された残酷な痕がまざまざと見られた。まだ女として熟してない体に暴行し、無理やり淫欲を吐き出し、犯し…彼女の体はもはや悲鳴をあげる力もなくぐったりとしていた。

『あああ……アッラー。』

ラビは涙を流しながら、何度も何度もマリアムを呼んだ。

『おにい…ちゃん…』

マリアムの苦しげな吐息がラビの耳を掠めた。

『マリー!マリアム!』

すぐに意識を手放そうとしそうな妹を必死に淵へととどめる。

『マリー!』

『お兄ちゃん…あ…ごめん…なさ…い』
『マリー…マリー!』

『おにいちゃん…わたし…汚くなっちゃったから…』
『マリー、誰にやられたんだ?!どんな奴らが…』

『ごめんね…お兄ちゃん…』
『もういい!しゃべるな!マリー!セルロスッ!救急車を呼んでくれっ!』

『お…に……ちゃん、』
『しゃべらなくていい!』

ぎゅっとマリアムをラビはその腕に抱いた。あんなに愛くるしかったマリアムの顔は腫れあがり痛々しそうで、それでもマリアムは必死に笑おうとしていた。


『わた…し…お兄ちゃん…の……こと…』

『マリー!』
『大…す…き……だっ……た…』

『マリー!マリー!』
『お兄ちゃん……信じ…わ……たし…い…も…信じ……』


『マリアム!!!!!マリアームッ!!』

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