シークの涙 第二部 永遠の愛

19.

「わたしは気がつかなかったのですよ。毎日必死に働いて、へとへとになって家に帰ってきたわたしには、マリアムの様子に気がついてやれなかったんです。」

遠い過去を封じ込め、贖罪のように背負いながら生きてきたラビの声は静かで取り乱すことはなかった。だからこそ余計、ハナの胸は痛くて痛くてたまらなかった。幼いマリアムを思うと、幼かったラビを思うと、喉が絞られるような痛さと苦しみが胸からあがってくるようだった。

「友人のセメロスによれば、マリアムはわたしの体を心配していたようなのです。セメロスに頼めば仕事を回してもらえるとマリアムは考えたようです。勿論セメロスは組織の使いっパシリのようなことをしていたのも知っていましたから、それなりの仕事は覚悟していたと思います。それでも前からセメロスに良い働き口がないか、相談していたようです。」

ハナはラビの目を見ることができなかった。ラビは居住まいを正し淡々と話し続けていたが、膝の上に置かれた手が拳を作り、少しだけ震えていた。

「生活を少しでもよくして、わたしの為に何とかしたいと思ってくれたのでしょう。手っ取り早く稼ぐには、、、体を売るしかないからと、セメロスの知り合いが言ったそうです。」
<、、、>
「丁度よい金持ちがマリアムをほしいからと、それでマリアムは決心したらしいのですが、、、けれど全てはデタラメで、組織のやつらは最初からマリアムを金持ちに紹介するつもりなどもなく、、、ただマリアムを己の欲望のはけ口としてめちゃくちゃにしたいだけの、、、獣のやり口です。マリアムは容姿もよく、その上、初心うぶだったから、悪党らに目をつけられてしまったのです。」

結局、歪んだ醜い欲情のためにマリアムは犠牲になり命を落としたのだ。その頃、ペルーシア王国では集団で少女をレイプする事件が農村地帯や貧民街で多発していたが、新聞やニュースに取り扱われることはなかった。今でこそ、少女集団レイプ組織というものが世間でも明るみにでて、警察の動きも多少厳しくはなったが、当時は被害者はみな泣き寝入りしかなかった。幼い娘たちをよってたかって獣のように犯し続け、挙句、欲望が満たされた後は、どこかへ売り払ってしまうという末路があとをたたなかった。


<そんな、、、むごい、、、>

ハナの顔には苦痛の色が広がった。ラビは目を細めながら、優しく言う。

「悪の組織と各部族の間では利益の共有などがあり、持ちつ持たれつの関係を持つ部族も多々ありますが、我が部族はそういった組織とは一切かかわりをもっておりません。特にシークは、弱者への犯罪についてはとても厳しい方ですから、その掟を破ったものには過酷な罰が待ち受けています。」

ハナは頷く。あの気高く美しき男を思い浮かべた。モーセはあまり言葉を語らないが、ハナ自身が身を持って知る通り、弱者への慈悲は深い。以前、売春組織に手を染めてしまった部下を探し出し処刑した冷酷な一面を持つが、それも部族の規律を守るためのものだと、トリパティ部族の面々は理解している。

「わたしはずっとこの組織を調べていたのですが、マリアムを殺したヤツラの1人がジーナ シャダウーと関係があったことまではわかっていたのです。だから、なんとか、ジーナを泳がせて、バックに潜む組織のドンに社会的制裁を受けさせてやりたかったのですが、、」

わなわなとラビの拳が震えていた。本当は社会的制裁ではなくラビ自身の手で制裁を加えたい、それが正直なところだろう。

「ハナさんを利用して、あの女を泳がせていたのです。けれど、、、ハナさんが拉致されたことで、シークの怒りがマックスに達し、結局ジーナ シャダウーを追い詰めてしまった。」

ラビの声からはハナへの罪悪感が感じられた。あの頃ラビは、ハナをおとりにしてジーナの背後で蠢く組織をつきとめようとしていたのだ。結果は知っての通り、ジーナに逃げられ背後の存在も取り逃がすこととなった。結局ジーナはハナとの拉致とは無関係だったものの、モーセに脅され己の危険を察知した。一時は亡命したとまで言われていた。だが、先ほどのラビへの報告書によれば、ジーナは亡命を思いとどまり、一時期逃亡し安全な場所に潜伏していたらしい。ほとぼりが冷めたと思ったのか、最近王国に舞い戻り、また少女売春に手を染めているということだ。だが、ラビはハナにはそのことを伏せておく。ハナには余計な心配をさせたくなかった。

ハナはラビの話を聞きながら、だんだん胸が締め付けられていく。ラビの激しい苦悩、あともう一歩で妹の敵がとれるというところで、ハナの為に断念せざる終えなかったこと、、、それはどんなに無念だっただろうか。それがハナの胸に突き刺さった。

【ごめんなさい。】

走り書きの文字はハナの辛さを表しているようだった。

【わたしが捕まったから、、それでラビはチャンスを逃しちゃった。長年追いかけていた組織のしっぽを捕まえられたのに、、ごめんなさい。】

文字だけではなかった。ハナは何度も何度も頭を下げながら、拳骨で胸元を撫ぜ回した。

<わたしが悪いの、わたしが悪いの!>

幾度も幾度も、ハナの握られた拳は胸元をぐるぐると動いている。ラビはあわてて手を振った。

「違います。ハナさん!シークは正しかったのです。あなたの無事に勝るものはないのですから。」

眼鏡の奥のラビの綺麗な瞳は細められ、ハナを安心させる。

「一時は、あなたを利用しようと、少女売春組織の黒幕を引きずりおろそうと、ジーナを使って、ハナさんを利用しようと思いました。けれど、シークはそれを望まれなかった。それは、正しいことなのです。もしあのときあなたに何か起こっていたら、、もしシークがわたしの謝った判断に従っていたのなら、恐らく、ハナさんは今ここにいなかったかもしれません。わたしはまた後悔するところでした。だから、ハナさんがご無事で本当によかったのです。」

ラビは寂しく笑った。笑った後、目をクシャリとさせたが、それはおよそいつものラビらしくない仕草で、ハナはハッとなった。ラビの瞳はキラキラと潤んでいた。

「わたしが悔やんでも悔やみきれないのは、、、あのとき、あの夜、何故、マリアムとちゃんと向き合ってやらなかったのかということ、、、」

小さな声はやがてラビの口の中で飲み込まれていった。マリアムに抱いてほしいと懇願された夜、ラビは、動揺したのだ。実の妹がそんなことう言うことに嫌悪したのだ。けれど、その一方、世界で大切で愛しいマリアムの願いならばと、、、あのままマリアムにしがみつかれていたら己の理性のタガがはずれていたかもしれない。浅ましい己にも嫌悪した。だから、あのときラビはマリアムを突き放したのだ。超えなくてもいい一線を決して越えないように、夜の町を彷徨ったのだ。

だが、、、

マリアムが亡くなった後、数年後、セメロスとばったり町で会った。セメロスはあれから己を責め続け、再会したラビにも何度も何度も頭を下げた。ラビはセメロスを責める気持ちにはなれなかった。憎むべき相手は、レイプ集団組織
であり、そして、妹を救うことのできなかった己自身なのだから。

「あのとき、、わたしが妹に手を差しのべていたりすれば、、あんなことには、、、」

逃げずにマリアムと向き合えばよかったのだ。今だからわかるのだが、ラビにとってマリアムは世界中で一番大切な女だけれど、それはラビの妹だからだ。この世にたったひとりの血を分けたラビの妹。妹以外の何物でもない。だから、あのとき、あの瞬間、何も動揺すべきではなかったのだ。どんなにマリアムが縋ってきても、ラビが抱くことはきっとなかったのだから。けれどあのときのラビはまだ、15才の少年で、本能のまま性の衝動に駆られてしまうのではないかと、己が怖かったのだ。

<ラビ、、>

出ない声でハナはラビを呼んだ。ラビの瞳は、もうためらうことなく頬を伝う涙が光っていた。

「セメロスから聞いたのです。わたしが体を壊してまで金を稼ぐことに心配したマリアムが、体を売ってでも少しでもわたしの役にたちたかったのだと。おいしいお肉だって買ってあげられるのだと、、、ラム肉をおいしそうに食べていたわたしにもっともっと美味しい物をと、、マリアムはそう言ってセメロスに仕事を頼んだそうです。体を売ることは承知だと、、、穢れることは覚悟の上だと、、、だからその前に、せめて初めては、、わたしに、、、と、、、あの夜、、」

言葉は、もう続かなかった。ラビはガクリと頭を垂れた。パサリと前髪が落ちてきても、それを払うこともせずに下を向き、涙がポトリと落ちる。嗚咽になりそうなのをぐっとこらえ、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。

「あの夜、そうあの夜、マリアムが『抱いて!』と言ったのは、翌日、金持ちに売られるすさんでいくであろう自分の体をせめて、誰かと肌をあわせて温め合いたかった。いや、ラビは本当は知っていた。マリアムの瞳には時折ラビが男として映っていたことを。まだ14才という、幼い青い恋心だったのかもしれないけれど、ラビはマリアムにとってヒーローであり、憧れで、そして全てだった。それを感じていながらラビはあの夜逃げた。背徳行為に嫌悪した。だがあの夜、男と女の契りを結ばないまでも、せめて、優しく一晩中マリアムを抱きしめて腕に抱きしめてやっていたのなら、、、」


「わたしは、、わたしは、、、わたしは、、、」

/すっ/

目の前のハナが手を動かした。

<ありがとう。>

口もとに片方の指先をそっとつけて軽くキスを投げる。ハナの瞳が潤んでいた。ラビの腰かけている向かい側に回り、そっとラビの頭を抱きしめた。

<ありがとう。ラビ、ありがとう。>

無言で抱きしめるハナの温もりからは、まるでそんなことを言っているようにラビに優しく伝わっていく。ハナの柔らかで温かい香りはマリアムを思い起こさせる。

何に対してありがとうなのか。ラビの心の痛みをハナに少しでも分けてくれて、辛いのに苦しいのに話してくれたことにありがとう、そうハナは言ったのか。

それとも、、、、



『お兄ちゃん、ありがとう。』



マリアムの声が聞こえた気がした。ラビはハナに包まれながら、マリアムがラビを許してくれているような、そんな感覚に襲われた。ハナに抱きしめられるのはこれで二度目だった。不思議な娘だと思う。足に重りがついていて、どこまでも落ちていく暗い海の底で、もがき苦しみ、、、そんなことがまるで嘘のように、ハナの温もりを感じながら、靄がはれていくのをラビは感じる。

『お兄ちゃん、、、ありがとう。』

キラキラと光る零れるようなマリアムの笑顔を思い出した。マリアムが死んでから初めて思い出したマリアムの微笑だった。そうだ、マリアムは恥ずかしがり屋な娘だったが、ラビの傍ではいつも幸せそうに微笑んでいたではないか。

「マリー、、、」

ラビは小さな声でもう一度愛しい妹の名前を呼んだ。ハナはそのままぎゅっとラビの頭を抱きかかえたまま動かなかった。

ラビの部屋の扉は少しだけ開いていた。先ほどハナが部屋に飛び込んできたとき、勢い余ったドアは壁にぶつかっただけで、きちんと閉められてはいない。廊下で人の気配があった。けれど勿論ハナもラビもそんなことに気がつかなかった。
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