シークの涙 第二部 永遠の愛

2.

ラビは馴染んだ革椅子に背中を預け、目をとじた。指先で軽く目元を押さえれば、無意識にため息が漏れた。

ここ何か月、何カ月も、、怒涛のような日々だった。トリパティ部族の長でもあり、また、王国の経済の潤滑油の大きな役割を担う、一企業のトップでもあるモーセの片腕として、17,8年間必死に勤め上げてきた。生半可な気持ちでは、モーセの下では働けない。だからこそラビ アシュウカは秘書としても公私にわたって、モーセの絶大な信用を勝ち取ってきた。世間では、ラビを攻略することが、冷徹で氷のような男、モーセを落とす勝機につながると言われていた。

冷めたカップをチラリと視界に入れた。部屋の冷気で、カップの陶器が氷のように冷たい。それでも、まとわりつくワイシャツのベトツキは、ペルーシア王国の高い湿気を物語る。こんな夜は自宅に戻り、熱いシャワーを浴びたいものだ。



『長老たちを説得しろ!』



それは、ダンマー族のシーク、アショカ・ツールが過去の殺人を問われ逮捕された頃だった。勿論、モーセ、ラビなどのごくわずかな関係者は、アショカの断罪を追い詰めていたから、逮捕は綿密な計画通りだったわけだが、、、このシークの逮捕劇にペルーシア王国に衝撃が走った。そしてこの驚きは、当然、モーセ率いるトリパティ部族の中でも不安と驚愕で揺れた。特に、部族のご意見番、長老たちがうるさく騒ぎ始めた。ラビは明確な説明を持って、長老たちを押さえるだけでも一苦労だというのに、ここへ来て、ハナ コスギとの結婚を、モーセは彼らに承諾させるよう命を下したのだ。これは一筋縄ではいかないはずだ。まず、ハナは外国人であり、ペルーシア王国の利害に何の関与もしない。つまり彼女と結婚しても、トリパティ部族として何のメリットも生まれない。案の定、長老たちの猛撃な異論に、ラビはがんじがらめだった。

『ラビ、わかっていると思うが、わし等の部族は王国一の大きな勢力を持ち、王国の手本になるための誇りを皆持っている。だから、長であるシークの結婚には、政略結婚などは必要ないのじゃ!』

一番の年寄りであるサイマールが、長く白い顎鬚を何度も触り、ラビに説く。

『はい。シークもそのようにお考えのはずでございます。』
『ならば、真っ先に跡継ぎの血筋を考えるべきではないか?!』

のらりくらりと交わすモーセの片腕ラビにしびれを切らし、一人の長老がドンと机を叩いた。堰をきったように長老たちが次々にいきり立つ。

『まさに道理!あんな外国の血をいれるくらいなら、アショカの娘のほうがまだましだ!いや、正統な血筋とダンマー族が傘下になるとあれば、この結婚は利が生まれる!』
『確かに言われる通り!アショカがダンマーのシークだったときに、この婚姻を進めたとて、トリパティ部族にとって何のメリットもなかったが、今、頭を失ったダンマー部族が右往左往しているときが機会かもしれぬなあ。』
『ふむ。確かに。今なら、ダンマー族を我らの下に取り込むことができれば、』
『いや、出来るであろう。我がシークが本気でアショカの娘と婚姻すればよいのじゃ!しのごの言わずにな!』

ここは、トリパティ部族会館、8階、最上階の会議室だ。普段、会館は、展示物や料理教室 語学教育など、主にトリパティ部族の家族のために解放されいているスペースだが、臨時長老会が開催されているため、臨時休館となり関係者以外立ち入り禁止となっていた。

『そう声を荒げてはいかん。我らトリパティの血は、いかなるときでも冷静沈着なはずだ。』

長老の中で人脈も厚い、現在、ペルーシア大学で現役で教鞭をとっているファイタル博士が、興奮した男をたしなめた。博士は70に手が届こうとする、長老の中では若輩の部類だ。とはいえ他長老たちの平均年齢も72−3歳であるから、博士が、さほど年齢で引け目を感じることはない。先ほどの最高齢ドン・サイマールですら75歳で、さすがに80を過ぎても、未だ権力の椅子にしがみついている往生際の悪い長老は、トリパティ部族にはいない。

ラビがモーセに憧れ、18歳の頃よりモーセの下で働いてきた。右も左もわからない中で、モーセが教えてくれるわけもなく、苦労して仕事を覚えた。その中で、ファイタル博士は、長老の中でも聡明で思慮深かった。彼が若きラビの道筋を指南してくれることもあった。勿論、シークの言葉は絶対だったが、さすがのモーセもこのファイタル博士には、尊敬の念を払っているようだ。そのファイタル博士が、今ラビの説得で過激な長老の頭を押さえてくれるのはありがたかった。

『ただ、わたしも、今回のモーセの花嫁候補には首をかしげるほかあるまい。なぜ、ここへ来て、異国の血を我が部族に入れなくてはならないのだろうか。モーセともあろう者が、明確な理由も提示せず、ハナ・コスギとの結婚を認めろというのは、甚だ乱暴ではないかね?』

『『『そうだ!そうだ!』』』
『何が悲しくて異国の花嫁など!』
『障害があるというではないかっ?!』
『そんなものにシークの跡継ぎの血がまざるよりは、罪は犯したとはいえ、娘に罪はないわけで、アショカ ツールの娘の方が、ましじゃわい!』

最後の言葉にはラビも思わず頭に血が上ったが、だが、ハナをよく知らない人間なら、ましてや、シークの花嫁の条件となれば、こういった糾弾も仕方のないことか。ラビは困ったように、長い指先で、銀縁眼鏡のブリッジを触った。それにしても、さすがに博士は痛いところをついてくる。他のヤジのような抗議には、ラビだって正論でバッサリと切ることはできる。だが、博士にあれを言われてしまうと、=ラビ自身も密かに思っていることだから= 最もだと思わざるおえない。話は簡単で、つまりは、ハナを愛人にして、第一夫人にはシークの跡継ぎを生む女を据えれば話は丸く収まるのだ。恐らく長老たちもすんなりと納得しただろう。けれどモーセは決して首を縦に振らず、ハナを己の妻にすると決めているのだ。彼が決めているのだから、誰も止められない。とはいえ、長老たちが喧々諤々の中での婚礼は、さすがにモーセも少しばかり厄介だと感じたのか、先の言葉の通り、 =長老たちを説得しろ!=  早急の説得をラビに厳命が下ったのだ。

博士がゆっくりと最後通牒のように、言葉を吐いた。

『それでは、シークに伝えるがよい。一年間の猶予をやろう。その間、わしたちも花嫁候補を探す。だがもし有力な花嫁候補が見つからない場合は、アショカツールの娘との婚姻をとりしきる。』
『そ、それでは、、ハナさんが、、、』

博士は有無を言わせなかった。

『その異国の娘とやらが、トリパティ部族の繁栄になくてはならい存在だということであるならば、わしらも認めざるおえない。このわたしたち長老どもを、納得させるのだ。1年の猶予をやろう。その間、わたしたちに認めさせるがよい。そうすれば、異国の花嫁として、盛大な披露目をすることに異議はない。どうだろう?それでよろしいかな?』

博士は、他の長老たちに同意を促した。勿論長老たちに異議はなかった。満場一致で決定が下された。

この1年以内で、ハナを長老たちに、シークの花嫁として認めさせなくてはなくてはならない。さもなければハナの第一夫人の座などありえなかった。ここはペルーシア王国だ。例え、書類上で認められた妻の座でも、長老に祝されず、世間に披露目もせずに娶った妻など、所詮、愛人としての待遇でしかない。たとえ、どんなにモーセがワンマンで権力を誇っても、こればかりはどうにもならなかった。




/トントン/

ノックの音に、ラビは現実に引き戻された。つい思考が後ろ向きになって、一気に疲労が吹き出した。実際、あのとき、長老たちに囲まれ厳しい条件を出され、その後、モーセの機嫌を損ね、、散々な目にあった。それでもモーセは己の決断を実行し、ハナと籍を入れた。だが、これでは何の解決にもなっていない。今後のことを考えると益々憂鬱になる。

ノックされてから未だ開かぬ扉に向かって、ラビは入るようにと声をかけた。

「ラビ先生、何かお申しつけありますか?」

ひょっこりと顔を出したのは、まだ青年と呼ぶにはあどけない愛嬌のある少年だ。

「ダリオ、まだいたのか?」

ラビは時計をチラリとみて、もう夜10時近くになっていることに驚いた。

「エティはどうしてる?一人で寂しがっているのではないか?」
「あ、大丈夫です。今日は、俺、、あ、わたしは、シャイさんの手伝いがあって遅くなるのわかっていましたから、タマール夫人のご厚意で、、」
「では、そろそろ帰った方がいいね?あんまり遅くなると、屋敷にも迷惑をかける。」
「はい。」
「では、わたしの車に乗りなさい。エティをピックアップしてあげよう。」
「え?で、でも。」

「いいさ、帰り道だし、、わたしも居眠りをしないためにも、話相手がいた方がありがたい!」

メガネの奥の美しい瞳が、ふっと細められた。ダリオにとって、ラビは仕事も人生でも、憧れの先生だ。13歳になったばかりのダリオに、彼はなんでも教えてくれる。時に厳しく、そしてとても優しい。今のように優しく微笑まれると、同性なのに、ダリオはぽっと顔が赤くなった。ペルーシア王国で、ヒーロといえば、この国の王ではなく、トリパティ部族のシークだ。ダリオだって、ずっとずっと強い彼に憧れを抱いてきた。だが実際に会えば、モーセ モイーニは、威光を放ち、万人を寄せつけない散漫で冷たい空気、そして何よりも美しいその姿に神々しさを覚える。彫の深い目鼻立ち、強い意思を感じさせる眉、曲線に沿った綺麗な唇は下らない人間を小ばかにでもしているような印象さえ与える。初めてモーセを見かけたとき、ダリオは足が動かなくなるくらい強い衝撃と恐れを持った。鋼のような鍛え抜かれたがっしりとした筋肉に覆われている体つきが、彼の大きさをますます誇張させるようで、まるで怪物と会ったかのようにダリオは動けなかった。この男を怒らせてはいけない、、、ダリオの本能がそう叫んでいた。

だが、ラビ アシュウカは違った。モーセが最も信頼していると言われているラビは、モーセよりも5歳くらいは若いはずだが、いつも落ち着いた柔らかな物腰をしている。容姿だって、同性のダリオがみてもうっとりするくらいの男前だが、それをちっとも鼻にかけることもしないで、万人みんなに笑顔を向ける。ダリオや、2歳下のエティをまるで自分の身内のように可愛がってくれるラビを、ダリオは大好きだった。勿論とても厳しいし、怒られることも頻繁だが、それもダリオの為だからというラビの思いがひしひしと伝わってくる。少し前までの自分と妹の人生が、今、ガラリと変わってしまった幸運に、夢ならば覚めないでほしいと、ダリオは願うばかりだった。

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