シークの涙 第二部 永遠の愛
22.
青みがかった碧のラグマットは素足でも心地よいフカフカな素材だ。部屋のはしばしに置かれた観葉植物はつやつやとしたあおい葉を誇らしげにして、冷房の風に心地よさそうに揺れている。ナイヤリシティの屋敷と比べれば、こじんまりとした広さではあるが、それでもマンシオンと呼ぶには十分すぎる敷地である。また部屋の調度品は涼しげなラタンで揃えられていて、最高級の籐材質なのは一目みてわかる。クリーム色の壁に、インテリアは白を基調としていて、ラタン細工のソファーに、尻に丁度よい硬さの白のクッション椅子、レースのカーテンからは思いっ切り日の光が輝きもれている。
ラグマットの上で組んだ長い脚を持て余しながら、モーセはイライラを隠そうともしない。眉間にしわを寄せて豪華な籐ソファに座っていた。威厳たっぷりな姿はまるでアラビアンナイトから抜け出てきたような王族のようで、周りの景色を圧倒しながらしっかりと部屋を制圧していた。
昨夜、おしゃべりなタンパベラ支局長のお陰で、モーセとユリカの関係が一気に表立ったわけだが、実際のところ、夜の10時、約束直前に、ユリカから具合が悪いため訪問延期の申し出があった。モーセとしても旅の疲労も手伝い、その申し出は都合もよかったのだが、出来るなら早く目的を達してしまいたいと思っているのも事実だった。故に、翌朝早く、モーセは何も告げずに、モーセ所有のマンシオン =ユリカの滞在地= へと押しかけた。いきなり現れたモーセに召使たちはあわてふためき、とりあえずとモーセを客間に通したのだが、待てど暮らせどユリカは現れない。すでに10分は経っている無駄な時間にモーセの不機嫌さは増していく。
/ガチャリ/
ユリカかと思えば、先ほどのユリカ付の召使が現れた。この屋敷の使用人達はほとんどがモーセに仕えている長年の者たちだが、愛人の申し出をモーセが承諾したのち、ユリカがここに移るにあたり、ユリカは自分の使用人たちを数人連れてきていた。
「あ、あの、お茶のお替りは、い、いかがでございましょう。」
トルタ夫人よりは年若ではあるが、40代後半の女はどうやらユリカの乳母であるらしく、ユリカが現れない場を繋ぐために必死にモーセのご機嫌をうかがっている。
「お前は、わたしを溺れさせる気でいる。」
先ほどから口を開けばお茶のことばかり言う乳母に、モーセはツンとした声をたてた。一瞬何のことか乳母はわからない顔をしたが、すぐに皮肉と気づき頭をうやうやしく下げた。
「いえ、も、、申し訳ございません。ユリカお嬢様のお支度が、、まだできず、、、こんな朝早くからお越しいただけるとは思ってもおりませんもので、、」
「わたしの家だ。お前にとやかく言われる筋合いはない。」
それだけ言い放ったモーセは、すくっとそのたくましい体をソファーから起こした。乳母の顔にまるで大きな影がかかったように、そのくらいモーセの背丈は高い。乳母は首を必死に上げてモーセを見上げた。
「あ、あの、、どちらへ?」
「ふん!お前の主人に会いに来たのだ!決まっている!」
乳母が必死に止める手をいとも簡単に払いのけ、大きな歩幅で部屋を出ていく。
「案内しろ!」
有無を言わせぬ声に乳母は観念したようだ。小走りにモーセの前にでて、今度はそのまま足を速めた。必死になって先を急ごうとする乳母なのだが彼女がどんなに足を速めても、モーセの長い脚から繰り出す歩幅はなんなくと追いついてしまう。無駄な抵抗と言わんばかりで、だが乳母の不審な行動には眉をひそめずにはいられない。
<<もう、出ておいきなさい!>>
突如、廊下に響いた女の声に、乳母がひっと唸った。凛とした声はユリカの声に間違いない。
<<昨夜も言いました!
お前がここに来ていいはずはありません!>>
乳母の体が固まり廊下に立ち尽くす。どうやら先客がいるのか、相手の声ははっきりとは聞こえないが、低くこもった声が聞こえた。モーセは状況をすぐさま理解し、散漫に唇の端をあげた。
「ふん!どうやらお前のお嬢様は、ここに男を連れ込んでいるらしいな。」
冷たく言い放つモーセに乳母は言葉を必死にさがしているかのように口をパクパクさせている。どうやら、客が男だということは間違いないようだ。
/ガチャッ/
彼はノブをぐっと握り勢いよく扉をあけた。モーセの瞳に飛び込んできたのは、いきなり開いたドアの方を見つめている二つの驚愕した顔。ユリカは突然のモーセの姿に、言葉をなくし、すぐさま瞳が潤み始めた。そして、もうひとり、それは間男まおとこ
というにはあまりにお粗末なありさまで、モーセに睨まれ一瞬びくりと体をひるませた。顔に髭をたくわえているものの、どう見ても20代半ばの若僧で、とてもモーセに太刀打ちできる器量もなさそうだ。だが、まるで負け犬が歯をむき出すように、すぐにモーセを睨み返した。
「お、おまえが、トリパティのシークだろうと俺は関係ない!俺のシークは、アショカ・ツールさま、ただおひとりだ!」
「ふん、わたしだってお前のような部下を持った覚えはない。」
「な、なにをおおっ?!」
顔を真っ赤にさせてわなわなと一人いきり立つ青年をモーセが相手にするはずもなかった。
「出ていけ。」
静かな声で、だが有無を言わせない声音が響く。
「う、、うるせええ!」
「トルムール!」
ユリカがいきなり二人の男の前に割って入った。モーセの前で成すすべもなく、ただいきり立つだけの情けない男に、ユリカが諌める。彼女の声にトルムールと呼ばれた男がはっとなった。
「お前とモーセさまでは何もかもが違うのです。お帰りなさい!」
頼みの綱のユリカからも最後通牒を言い渡され、みるみるうちにトルムールの顔に血が上った。恥ずかしさからなのか、あるいは怒りからなのか、トルムールは顔を赤くしながらその場でワナワナと震えていた。
「カヤーク、トルムールを、、、」
今度は乳母に向かってユリカは小さな声で告げた。乳母はすぐさまトルムールに目で合図を送り部屋から出ていくように促す。さすがの男も、もはや抵抗することもなく、項垂れ、乳母カヤークの後に続いた。
「お騒がせいたしました。シーク。」
カヤークがモーセの視線を避けるように頭を下げ、トルムールを連れて部屋を後にした。ユリカの唇から吐息がこぼれでた。
「も、、申し訳ございません。シーク。」
決して瞳を合わせず、ただ長い睫が下を向いて揺れているユリカを見つめながら、モーセはユリカとの間合いを詰めた。
/くいっ/
長い人差し指で、ユリカの顎をあげ、わざと己の瞳を見つめさせる。とたん、ユリカの頬がたちまちに桃色に染まっていく。先ほどトルムールに毅然とした態度をとっていた女とは思えぬほど、今は、居場所をなくした捨て猫のように不安な色を瞳に浮かべ、そして恥ずかしさのためか茶色の大きな瞳が潤んでいた。
「ユリカ、、、あなたは、わたしのものになると言いながらも、だが、男と密会とは、驚いた話だ。」
「ち、違います!あの男は、父が可愛がっていた部下なのです。ただ、それだけです!」
ユリカが俯こうとしてもモーセはそれを許さず、人差し指にさらに力を入れ、彼女の顔を自分に近づけた。
「“ただそれだけ” の割には、素顔をあの男の前で平気でさらしているとは?」
それは、ペルーシア王国の回教徒の女たちの処女性を疑うものだ。未婚の女たちは絶対に異性に顔をさらさない。ヒジャブをとるとき、それは処女を奪う将来の夫にだけとされている。
「それは、トルムールがいきなりやってきたものですから、、」
「そんなにガードが甘いと、昨夜の約束を反故されたのも、あの男との密会のためだと疑われても仕方がない。」
自分の処女性を疑われたと思ったのか、ユリカは真っ赤になってモーセを見つめた。
「ち、、違います、、違うんです。」
声が小さく震えていた。
「まあ、いい。そんなものは、確かめればすぐにわかること。」
ユリカの息をのむ音がする。
「あなたは愛人を申し出たわけで、正妻でない以上、このわたしが、いつ、どんなときにでも好きにしてもよい、そういうことだと思うが?」
「手を、、、お放しくださいませ。」
震える声でユリカがモーセに懇願した。
「ふん!怖気づいたとみえる。」
バカにしたように、モーセの唇の端が散漫に上がった。彼は言うとおりに人差し指の拘束を解いた。ユリカは、一歩後ずさりし、震える指先で胸元のボタンに手をかけた。
「ユリカ?」
「あなたさまの思いのままに。」
ユリカの裾の長い夜衣のボタンがハラリと開いていく。ひとつ、またひとつ、彼女のきめ細やかな肌が露出していく。衣擦れの音だけが恥ずかしそうな音をたて、あたりに響いた。
「すべてシークに捧げます。」
そう言って彼女は身に着けていた長い夜衣をするりと体から滑り落とした。衣が輪っかになって足元に落ちた。寝室の大きな真っ白いカーテンから朝日が差し込み、ユリカの肌がまぶしげに光っていた。彼女は確かに男を知らない体だ。だが、蕾が待ちきれず今か今かと咲き誇ろうとする瞬間の美しい肢体だ。ハナと同じような華奢な体なのに、露わになった胸は、たわわで張りがある。ツンと胸の先端が上を向く。腰つきもほっそりとしながらも柔らかな美しいカーブの線がくびれを際立たせる。その下の陰毛はかなり濃く、それが真っ白な裸体に妙な淫靡さを醸し出していた。男なら、こんな初心で清楚な女を乱れさせたいと思うだろう。己の前だけでは、その清純さを暴き、淫らな女の顔をさらけださせたいと思うかもしれない。
ユリカの体はピンクに染まる。初めて男にさらしている自分の裸体に、羞恥心と葛藤しているようだ。恥ずかしそうにしながらも、それでも必死に隠さないようにとぴったりと体につけた両腕に力が入っている。ただ、下半身が心持たないようで、少しだけ内またになっていた。モーセは先ほどから一言もしゃべらず、ただ、じっとユリカを見つめているだけだった。
「し、、シーク。モーセさま、わたしの処女をあなたに。」
乳母から伽のことは聞いているに違いない。ユリカは裸のままモーセの前に跪き、震える手でモーセの足に手を伸ばす。だが、それ以上何もできずに、下からそっと潤んだ瞳でモーセを見上げた。モーセは微動だにしなかった。
「もう、よい。」
重苦しい沈黙のあと、何の感情も持たない声でモーセは床に落ちたユリカの夜衣を拾った。
/ストン/
「え?」
モーセはユリカの肩に衣をかけてやる。彼の不可解な態度に、驚いたらしくユリカの瞳が濃い茶に変化した。
「何か、わたくしが粗相を?」
か細い声が震えていた。
一言もしゃべらないまま、モーセは窓辺に歩き出した。部屋の真ん中に置いてある天蓋付きベッドのそばを通れば、天井からゆらりと優雅にたれさがっている薄い布がふわりと揺れた。軽く大人4人は眠れそうな大きな寝台だが、それでも部屋はゆったりとして広々している。壁づたいには鏡台やクローゼットなどが置かれている。その対面には、ベランダへ出る窓があり、その側のソファーセットにモーセはゆったりと腰をすえ、窓をみつめている。
「モーセさま、、、」
モーセの後ろ手にユリカの哀しげな声が聞こえた。彼女はどうしていいのかわからないのだろう。
「服を着なさい。」
ユリカの方を見もせずにモーセはそう答えた。
「わたしは妻以外の女は抱かない。」
「え?」
「あなたの決意がどのくらいのものか、、それに興味があっただけだ。」
「、、、」
「あなたを手中におさめたと世間に思わせたほうが何かと都合がよい。」
「え?では?」
自分は何のためにここに囲われているのかと、そんな疑問がユリカの表情から伺える。
「ダンマー族は、アショカ・ツールが長い間束ねてきただけはある。なかなかに良い部族だ。」
モーセの耳元に衣擦れの音が聞こえた。どうやら、ユリカは衣服を整えているらしい。
「本来アショカ・ツールがあのようなバカげた野望さえ抱かなければ、安泰だった部族だ。だからこそ、頭かしら
がいなくなった今、愚かなモノたちが内紛を起こしたり、また分裂してしまったり、あるいは部族自体が消滅してしまってのでは、実に惜しい。」
窓に広がる穏やかに揺れるヤシの木々を見つめながらモーセは溜息をついた。
「覚えておいてもらおう。あなたにはここでずっと過ごしてもらう。世間では、あなたはもうわたしのモノだということだ。」
しばらく衣擦れの音が聞こえ、やがて、素足で長いタグの上を歩く頼りなげな足音がした。彼女はモーセの側にやってきて、彼が座っているソファの斜め向かいにそっと座った。茶色の潤んだ瞳は俯いていた。彼女がモーセの言葉に安堵したのか、あるいは失望したのか、それはまったくわからない。
「わたしの言う意味はわかるだろう?」
モーセは念を押すように、はす向かいにいるユリカの顔を見つめた。ユリカがゆっくりと顔を上げ、モーセの瞳を見つめ、そしてまた俯いた。
「はい。」
下をむいたままか細い声で答えた。アショカツールの娘を “愛人” にしたモーセは、事実上ダンマー族を配下にしたということだ。ただし、ユリカは世間の目をごまかすための人身御供であり、実際にはモーセからは指一本触れられないということだ。
「でも、、、」
ユリカの唇から小さな吐息と小さな声が吐き出された。
「トリパティ部族のような大きな族のシークなら、愛人を何人も持ってもおかしくないでしょうし、、」
子供の頃からペルーシアの女として教育されてきたユリカにとって、男が女を慰みものにすることはあって当然であり、権力のある男が愛人を持つことは当たり前のことだと頭に叩き込まれている。現に父親のアショカ・ツールだって何人も愛人がいた。
「もしかして、わたくしのために敢えて褥を一緒になさらないとご心配なさっているのでありますなら、どうかそんな考えはお捨て下さいませ。わたくしはもとよりその覚悟で参っております。あなたさまと夜を共に出来るだけでも幸せなことだと感じいっているのですから。」
今度はしっかりとユリカの瞳はモーセの瞳を捉えている。大きくゆらゆらと弛む茶色の瞳は男心をなんともくすぐるに違いない。
モーセは唇の端をあげた。
「あなたのためではない。」
「え?」
「わたしのためだ。妻以外は抱かない。」
そういうとモーセはユリカの瞳から視線をはずし、また窓を見つめる。アーモンドに形どられた目はこの上もなく優しく穏やかだった。
「そして妻の泣き顔はもう、見たくないのだ。」
とても静かな声だったが、その声には、まるで愛しい女を忍ぶ思いが込められているようだった。いつも自信ありげなモーセなのに、彼の長い睫が下を向きじっと考え込む姿は、何だか寂しげに映った。
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