シークの涙 第二部 永遠の愛

24.

キャンパスは学生たちだけではなく、まじめ腐った顔をした結構な年配までが、自転車を漕ぎながら、ハナの目の前を行き交っていた。それだけキャンパスは広大で、自転車は必須だ。建物を二つ三つ移動するにはもってこいの移動ツールになっている。あと数か月すれば夏も終わる、その前に9月には、いよいよハナはナイヤリシティの大学生となるのだ。アメリカでいうところのSATと同様のペルーシア王国規定の大学進学適正試験も、ハナが思うよりも遥かに優秀な成績で、堂々と入学を決めた。自分もここの学生になったら、自転車を買おうと心の中に書き留める。

今日は同敷地内にある大学病院でサビーンとのいつもの診療治療セッションが行われたのだが、ハナはエティを連れ、足をのばしてキャンパス内を見て周っている。先ほどから風をひゅんと切っていく自転車に目を丸くしながら、エティは笑顔をハナに見せている。慣れない場所で、何かとキョロキョロと挙動不審なハナとエティだが、エティが事故に合わないようにと握っている手をもう一度握りしめ、ハナは気をひきしめた。

  

『ハナ、わたしは、来週からアメリカに行くので、当分セッションはお休みってことになるわ。』

先ほど診療の終わり際にサビーンから言われた言葉だ。いよいよエティの手術がまじかに迫ってきている。サビーンは準備のため、先にアメリカに行って、エティを出迎えることになっている。エティはタマール夫人ともうひとりサビーンの知人の医師がペルーシアから同行する予定だ。勿論手術時にはラビも駆けつけると聞いていた。

今度ペルーシアに戻ってくるエティは、きっと可愛らしい小鳥のような声でハナの名を呼ぶだろう。そんなことを考えるだけでハナはワクワクする。

『ハナ、あなただって、あきらめちゃダメ。っていうか、あなたの場合は、手術なんてしなくたって声は出るんだから!』

医者としてか、それともハナを愛する気持ちからか、サビーンの声にはいつもよりも強い熱がこもっていた。ありがたいと思う。こんな風に自分のことを心配して思ってくれる人がいる、それだけで幸せなことだと、ハナは思っている。ペルーシア王国に来てよかったと、一番思える瞬間(とき)だ。サビーンやラビ、屋敷のみんな…それぞれの顔を思い浮かべ、そしてそこに強く鮮烈に浮かんだ美しい男の顔に、ハナはあわてて消し去るように頭を振った。モーセはタンパベラ =ユリカのいるところ= へ行ってしまった。あれからずっと連絡もない。おそらくラビはモーセの様子は知っているはずだが、ハナは怖くて聞けなかった。

 

<どうしたの?>

急に黙りこくったハナにエティが心配そうに下から見上げた。ハナはすぐに笑顔を浮かべた。

<なんでもないの!わたしも自転車買おうかなって考えてたの。>

するとエティの顔が上気して目を輝かせた。

<いいな、いいな、わたしもほしい!>

<うん。エティには、手術で頑張ったご褒美に、アメリカから戻ってきたらわたしがプレゼントするね。>

エティは嬉しそうな顔をしたが、すぐに唇をとがらかして下を向いてしまった。小さな手を動かしながら、ハナに早口で心の中を吐き出した。

<手術大丈夫かな?痛くないかな?声出るようになるかな?>

つぶらな瞳が不安げで、思わずハナはエティの体をぎゅっと抱きしめた。それから、エティの心配を吹き飛ばすように優しく瞳を見つめた。

<サビーン先生に任しとけば大丈夫!>

<でも…サビーン先生は手術しないんでしょ?>

エティの言っていることは正しかった。サビーンはエティの主治医として同行するが、実際に手術を担当するのは、耳鼻咽喉科の外科医師だ。もちろん、サビーンは事前に調査を重ね、エティが受ける手術症例の輝かしい実績を積んでいる医師に依頼している。後は、エティが実際向こうへ行ってからの検査結果次第なのだ。

<大丈夫、サビーンはすごいのよ。怒るとね、あのモーセもびくびくしちゃうの。>

<うっそ?!シークも?ええ?うっそ?>

<だからね、エティの手術する先生はね、サビーンに怒られないように一生懸命頑張るしかないと思うの。だってサビーンは…>

<<怒ると怖いからね?>>

同時に、ハナとエティの声が重なった。いや正しくは同じ手の動きで、小さな手とそれより少しだけ大きな手と、同じ動きで空を舞った。二人は思いっ切りゲラゲラと笑った。声がでない静かな世界なのに、なんだか空気がぱあっと華やいで大きく動いたように見えた。きっと遠くで見ていれば、可愛らしい二人組がキャッキャと楽しげに見えたことだろう。現に、キャンパスの花壇沿いを歩いていた老人は、はるか遠くにいるハナとエティを見つめ、まるでお腹を抱えて笑っているようなその様子に、目を細めていた。

ハナがいきなり怪訝そうな顔をして後ろを振り返った。

<どうしたの?>

心配そうにエティが手を動かす。

<ううん。なんか誰かに見られていたような?気のせいね。>

そう言ってハナはもう一度しっかりとエティの小さな手を握り返した。エティの瞳には信頼しきった安心な色が浮かび、ハナの瞳もエティの思慕であふれている。誰が見ても二人は、仲の良い年の離れた姉と妹に思える。花壇の側にいた老人は目を細め、ほのぼのと空気が醸し出す二人の姿を見つめていた。平和なヒトコマのように見えたが、花壇の数メートル後ろで、樹木に隠れるように立っていた大きな人影が忍びやかに動いた。

 

 

 

*****

「それは本当に間違いないのだな?」

いつになく声を潜めたラビの声は、ラビとその来客以外は誰もいない空間をザラザラと流れていく。

今夜もエティとダリオはハナのところへ泊りに行っている。最近金曜日の夜から、二人がハナのところに泊まりに行くことが多く、ラビも許可をしていることだ。モーセがずっと家をあけていたし、アメリカの手術に際し同行するトルタ夫人とも情を深めておいたほうがよいと考えているからだ。自分も渡米することになるのだが、最初から同行するタマール夫人には何かと世話になるわけだし、エティの事を少しでも多く知ってもらいたかった。

ひっそりとした久しぶりの静かすぎる我が家に、ならば、この機会にと、滅多に招かない客を呼んでいた。とはいえ、もちろんラビが信頼する人物の一人だ。苦楽を共にし、マリアムの死に対し一番真摯に嘆いてくれた昔ながらのラビの弟分セメロスだ。セメロスは今や、すっかり暗黒街とは足を洗い、マリアムへの懺悔の気持ちからか、ラビの個人的な情報源の手足となってくれていた。ラビよりも5歳は離れているセメロスも今ではラビのなくてはならない存在となっている。

「間違いは絶対にない!俺が、マリムのにっくき相手を間違えるはずもねえっ!」

セメロスの力強い言葉だった。ラビはギリギリと音がするくらい奥歯を噛みしめた。

あの高級コールガールクラブのオーナーが、かつてはペルーシア王国民を魅了したダンサー、ジーナ・シャダウーだったとは。いや、それだけではない。セメロスの情報では、ラビの妹マリアムを慮辱し、死に至らしめた残虐なマフィアの一人を、あのジーナの高級クラブで目撃したという。こんな目と鼻の先にいたとは。ラビの目が光った。怒りに満ちあふれ、爛々とした目力の強さは、さすがのセメロスもビクッと肩をすくめた。

「わかった。今度こそ絶対に逃さない!よくやった、セメロス!」

ラビの笑みに、セメロスもやっと安堵の息を吐いた。マリアムの死を贖罪として生きてきたのはラビだけではない。暗黒街とは手を切って真っ当な生き方をしているセメロスだが、情報をを掴むために暗黒街の連中を切ることはしていなかった。それが実を結んだのだ。

「すぐにでもとっ捕まえて、一気に殺(や)っちまうか?」

セメロスの小さな目がギラリと光った。

「いや、我々が手を汚すほど、もはやアイツはそんな価値もない!」

「じゃあ、どうすんだよ?ラビ?!」

「アイツを破滅させヤッカス送りにしてやる!」

ラビが唸った。

「ヤッカス…」

 思わずセメロスの声が震えた。その手があったかと言わんばかりにセメロスも無言で頷いていた。

ペルーシア王国は、近隣国の中では群を抜いて先進国として知られている。政治や思想だけでなく、宗教も自由で、回教徒以外のどの宗教にも寛大だと言われている。首都であるナイヤリシティの門戸は広く世界の国々に開かれていた。そのお陰で米国はもちろん、アジアやヨーロッパ諸国からも数多くの投資家にとっては魅惑的な投資場所であり、事業のゲートウェイとなっている。

女性たちの人権も、サビーンのように颯爽と男たちと肩を並べ社会の場で活躍する姿をみかけることは珍しくない。外からみれば、とても居心地がよさそうな国に見える。だが、それはペルーシア王国の一面に過ぎない。ナイヤリシティから遠く離れた田舎町や村では、今でも時代錯誤な風習がまかり通っている。その氷山の一角が幼な妻と呼ばれる、貧困に窮した家族が自分の娘を富者に嫁がせる風習もそのひとつであり、未だ貧富の差は激しい。また閉鎖的な村では男尊女卑は当たり前の話で、こうした悪しき風習は未だ貧しい農村や田舎町では根強く残っている。中でも王国の北の果てに位置するヤッカスという村の暮らしぶりは、現代の西洋文化が当たり前だと思っている人間からすれば、信じられないあり様だった。西欧諸国と肩を並べようとするペルーシア王国にとって、この村の存在が明らかになれば、おそらく人権問題などで世界から凶弾されることは間違いなかった。この村は王国にとってはアキレス腱に違いない。けれど政府はヤッカス村を敢えてそのままに放置していた。それはヤッカス村にある刑務所が大きな理由だった。この刑務所を知る者ならば、世界でも残虐冷酷非道な扱いを受ける刑務所だと言うだろう。受刑者はもはや畜生にも劣る扱いを受ける。そしてここでは正義など関係なく、ここに送り込まれてしまえば、たとえ無実だろうと、一生地獄暮らしを強いられる。表向き、法で裁けないことでも、この刑務所では何が起きてもおかしくなかった。本来、アショカ・ツールもここに送られて当然だったのだが、ヤッカスへ投獄しなかったのは、モーセやリドリーの、少しばかりの温情といえた。ヤッカス刑務所は、未だペルーシア王国の影の象徴でもあった。

ラビの復讐は今や、マリアムを恥辱し卑下し命まで奪った奴等を、殺すことではなかった。ラビは、もう二度とハナを裏切らない。ハナの悲しむ姿を見るのは、もはや死ぬよりも辛い。だからこそ、今度は、法の裁きに任せるつもりだ。もう二度と過去の過ちを繰り返さない。そのためには、セメロスがジーナのクラブで見かけた男をヤッカス送りにし、世の中から抹殺させること。そのためには、司法が確信するべき確固たる証拠を集めることにあるのだ。


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