シークの涙 第二部 永遠の愛

4.

高い天井には、今にも旋律にのった楽しげな笑い声がきこえてきそうな天使たちが舞っている。どの天使の顔も美しくそしてあどけない表情で、見ているだけでも癒される。ここへやって来る患者は、ほっと肩の力を抜いて、素直な自分を発見する。だが、一方、回教徒の多い王国では、異教画だと言って憤慨する患者も少なくない。けれど、それはそれで十分に効果はある。怒という感情をだすことにより、心の浄化が行われたり、人間が無意識に隠したいと思っているものを引き出すことが出来る。

「どう、最近変わったことはない?ハナ?」

モーセの従姉妹であり、心療内科の博士でもあるサビーンが、愛する大切な妹のようなハナの心のケアを見始めてから、1年は経っている。だが、ハナの声は戻っていない。母親が殺された現場を見たハナの心の恐怖が、しゃべらないという言葉を失うことで、本能的に己の心の均衡を保ったのだ。けれど、モーセと知り合い、モーセに愛され始めたハナの精神は、確実に安定していた。

<調子はいいと思う。>

忙しく手を動かしながら、ハナが手話で返す。ハナの隣には小さなエティも並んで長椅子に横たわっていた。二人はそれぞれの長椅子に仰向けになり、その間にはゆったりとした椅子が置かれ、そこにサビーンが長い脚を組んで座っていた。エティは、天井の天使が大のお気に入りだ。今も、サビーンがハナを診察している間、エティはじっと天井を見つめていた。ハナの精神が落ち着いた頃から、週2の診療セッションは、月2回のセッションへと減少していた。それだけモーセがハナの心の支えになっているという証拠だ。エティも、時間があうときは、ハナが一緒に連れてくる。エティも声がでない。だがそれは先天性のものや、心の病というわけではなかった。とはいえ、親の顔を知らず、ストレートチルドレンとしてダリオと共に育ったエティに心の傷がないとはいえない。その辺をハナは考慮して、サビーンにエティを見てもらっているのだ。
エティの声が出なくなった原因は、完全に人為的事故だった。赤ん坊の頃高熱で甲状腺の腫れ、治療にあたった医師の医療ミスで声帯に傷がついてしまったのだが、それも手術をすれば声帯がもとに戻ると、前にアメリカ人の医師に診断されていた。ハナはエティの為に出来る限りのことはしてやりたい。そしてサビーンもまたそれは同じだった。

「モーセはどう?ちゃんと毎日早く帰宅してる?」

ハナはすぐに頷いた。片手をあげて5本指を見せた。それは、夕方5時には帰宅するという、なんとも模範な夫ではないか。

「やあだ、、、何よ、モーセ、すっかりハナに骨抜きね?」

ハナは、真っ赤になった。それまで天井を見つめていたエティも、ケタケタ笑うように、ハナを見つめて手を叩いた。ハナのセッションはエティがいなければ、いつも日本語でやり取りする。だが、サビーンは唯一英語の手話しかわからないので、ハナからの手話はもっぱら英語で返される。ハタから見れば何とも複雑極まりない会話だが、ハナが声を失ってから、二人が築き上げてきた世界なので、当の本人たちは苦にならない。だが、今エティがいるので、二人は、英語で話を進める。これは、英語の手話はわかるが、英語の音をエティは認識しなかったので、エティの将来的のことを見据えて、セッションのときは全部英語で会話されている。

サビーンはエティの頭を撫でた。エティは嬉しそうに目を細めた。一度は、ハナを自分の養女にと真剣に考えたことも会ったサビーンだが、39歳の彼女が11歳のエティを実の娘だと言っても、それは何の違和感も生まれない。

<ただ、最近、、、ハナ、元気ないの。>

エティは手を動かして、サビーンに伝えた。

「え?」

サビーンが思わず声を漏らした。エティの手の動きは隣で横たわっているハナには、見えなかったようだ。

「何か知ってるの?エティ?」

その声に、ハナはゆっくり顔を動かしてエティの方を見た。

<ハナおねえちゃん、、、、時々、寂しそうなかおしてる。>

ハナは驚いて、両手をぶんぶん振った。

<そんなことないよ。エティ。わたし、毎日幸せよ?>
<うん、、、でも、、、この間シークの後姿見て、泣いてたもん。>
<え?>

ハナは体が固まっていた。本当に泣いていたわけではない。けれどエティはそう感じたのかもしれない。モーセに愛され、可愛がられ、この上もなく満たされているはずなのに、彼はハナとの間に子供をなそうとしない。肌を触れあっているときは愛されている実感はあるのに、モーセがハナから離れていけば、ハナは意味もない寂しさに襲われる。あの日も、モーセの背中を見ただけで、胸が痛くなってしまった。おそらくエティはそのときのことを言っているかもしれない。言葉をしゃべれないエティは、空気を読むことを知っている。それはハナも同じだった。言葉に頼らない、その人の持つ空気を肌で感じるのだ。

黙ってしまったハナにサビーンが優しい言葉をかけた。

「話してみる?ハナ?」

ハナはすぐに首を横に振った。

<今は、、まだ、、大丈夫だから。エティも、心配かけてごめんね。>

寂しそうな手の動きに、エティの瞳は心配そうな色を隠そうともしなかった。サビーンはため息をついて、モーセに探りを入れてみなくては、そう心に決めた。ただ、これ以上ハナにプレッシャーをかけたくないので、話題を変えた。

「そういえばね、エティ、この間の検査の結果なんだけど、、、、」

エティは、いつでも喉の手術ができるように、甲状腺の血液検査などを定期的に行なっている。また口の開き方にも問題があるため、サビーンの大学病院耳鼻咽喉科で、エティはリハビリ中でもあった。




*****
/ピーピーピー/

ラビのデスクの内線が光った。ラビはPC画面から顔を動かさず、手だけを電話機のボタンに動かした。スピーカーボタンを押せば、耳慣れた女の声が聞こえた。

<ラビさま、、、>
「ん?その声は、マミーだね?」

秘書課の若手女子だ。

<すみません、お手を煩わせます。階下に、シークにご面会の、、、>
「アポは?」
<いえ、それが、、、>

アポなしなのだから、モーセにとりつげるわけもない。いくら新人とはいえ、秘書課に配属され、ベテラン、イッサ女史の下でしごかれているマミーだ。それなのにラビに連絡してくるということは、よほどの想定外のことが起こったに違いない。

「うん、わかった。僕が下に行こう。」

その瞬間、ほっとしたマミーの答えにラビは愕然とした。

「何だって?誰だって?」


ラビはシークのスケジュール帳を確かめた。午後15時から20分間は、何もモーセを拘束するものはない。それを確かめて、15時まであと10分はあると思いながら、自ら階下へと降りていった。




*****

「シーク、、、」

時刻はきっかりと15時を告げ、社長室の扉を叩いて、まずラビが一人で入った。突然の訪問客には、少しばかり扉の外で待ってもらうことにする。

「何だ?」

どっかりと大きな座り心地のよい椅子に落ち着いているモーセは、相変わらず尊大な態度だが、ハナと暮すようになったモーセは微かだが優しいオーラも放つことがある。特にラビのように信頼している人間の前では、それを隠そうともしない。勿論、これはほんの些細な変化であり、それは他人には恐らく感じられないだろうが、、、一緒に働いている秘書達でさえも、未だモーセの前では緊張を隠せないのだから。

「実は、シークにお会いしたいとおっしゃっている方がいらっしゃるのですが、」
「む?」

アポもしていない相手にラビが断らず、社長室に連れてくるような間抜けなどとはモーセは到底思っていない。人差し指をついとあげ、けだるそうに答えた。

「通せ。」
「はい。」

ラビはすぐに退室して、また姿を現した。今度はラビの後には女が静々とついてきた。彼女は、回教徒らしく、頭からすっぽりと布で覆い、垂れ下がるヒジャブの裾を指先で持ち、顔を隠している。ヒジャブはシックなグレイ色だったが、フンダンにあしらった刺繍は外国製のもののようだ。全体的に地味目の服装だが、高級感が漂っていた。

「これはこれは!」

モーセは珍しいものをみるように眉をあげたが、相手が萎縮しないように、椅子に座ったまま、両手を広げ、ソファに座るように指示を出した。女は、黙って頷いたまま、大きなソファに座ったが、頑丈なソファは女の重さなどものともしないようで、彼女が座ってもクッションは微動だにしなかった。女が座ったのをみて、モーセは立ち上がり、同じく応接間セットのソファに腰をゆったりとかけた。ラビに目配せをして、退出しないように合図を出す。

「お父上の様子はいかがかな?」

あんな男のことなど知ったことではないが、モーセは公人として笑みをうかべ、腹のうちを飲み込んだ。

「あ、あなたさまに、迷惑をおかけいたしました、、本当にも、申し訳ありませんでした。」

アショカ・ツールの娘、ユリカ・ツールは肩を震わせて頭をさげた。華奢なほっそりとした体つきは、ハナを思わせる。チラリチラリとラビをみやるのは、どうやらモーセと内密の話があるらしい。

「この男は、わたしの腹心ですか、あなたは何も心配することはない。どうか、今日の用件を。」

もう一度ユリカはラビを見上げたが、ラビは微動だにせず、気配を一切消して部屋の空気に溶け込んでいた。

「じ、、じつは、、、」

ユリカは下を向いてためらっていた。ヒジャブのせいで彼女の表情はわからないが、だが、体中が震えていて確かに庇護欲をそそる女だとシークは思う。

顔を上げたユリカの瞳は強い光を放っていた。その強いまなざしはモーセの瞳にまっすぐと入ってくる。手で覆っていたヒジャブの端がヒラリと落ちて、黒髪というよりはダークブラウンの艶のある長い髪がふわりと肩を舞った。ユリカはゆっくりとヒジャブの結び目をといて、頭からすっぽり外した。

(あっ!)

さすがのラビも声をあげそうになった。未婚の女性が、男の前でヒジャブをはずすことは絶対にない。それをはずしていい相手は、結婚初夜、処女を捧げる相手だけだ。ユリカの濃い眉、そして長く豊かな睫毛に守られた大きな猫目の瞳とそのバランスの良い顔立ちが露わになった。20は超えているはずだが、全身を震わせてそれでも何かと戦うようなユリカは可憐という言葉がふさわしい。本当に美しく、だが手を伸ばせば消えてしまいそうな儚げな女だった。

「わたしを、あなたの、、トリパティ部族シークの愛人にしてくださいませ。」

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