シークの涙 第二部 永遠の愛
9.
「ラビ!」
音にはならないはずなのに、目の前の豊かな表情からラビの耳には名前が届いた気がする。ハナは、満面の笑顔でラビを迎えてくれる。恥ずかしがり屋で警戒心の強いハナが、よほど近しい人間にしかこのような屈託のない笑顔を見せない。ハナの信頼を一身に勝ち得た気になってラビは満更でもない。今さらながら、ここにモーセがいないことに、ラビは胸をほっとなでおろした。
ハナの大歓迎の両手に自分の頬を覆われて、ラビは少しだけ照れる。普段は物腰が穏やかなラビだが、実はあまり感情は出ない。みんなラビのにっこりと笑う微笑に騙されるのだが、実は眼鏡の奥に光る瞳は冷たく光っている。だが、ハナを前にするとさすがのラビでさえ、奥底に隠れていた温かな色が瞳に現れる。
「ご無沙汰しております。」
【本当!わたしのこと、忘れてたでしょう?】
サラサラとノートに親しげな恨み言がつづられていくのも、二人の仲が随分と縮まっている証拠だ。
「忙しかったのです。シークはご多忙な方ですから、わたしも頑張って身を粉にして働きませんと、、」
【なら、モーセに言うわ。ラビのお仕事を少し減らしてもらえるように、、】
「え?」
ハナは滅多にモーセのビジネスには口を挟まない。冗談なのだろうかと、ハナを見やれば、ハナは至って真面目な顔をしていた。
【ラビ、あなたの健康が心配なの。顔色がすぐれないわ。】
確かにこのところ心労も著しく、睡眠も削ってあれやこれやとラビは動いている。その上、今日だってハナを訪ねたのも、あまり良い話ではなく、ハナを傷つけてしまうことを考えると彼の心は重く沈む。
「多少、疲れてはおりますが、ほら、こうしてハナさんとご一緒にお茶をとれることで元気をいただきますよ。」
モイーニ家の屋敷で、ハナの一番のお気にいりの場所が温室だ。パティオと呼ぶには広大なローマン庭園の真ん中にキオスク型の温室が建てられている。ハナが屋敷に住むようになってから、小さな花々も植えられるようになったが、メインはやはり大輪の薔薇の花たちだ。温室に入れば、うっとりとするような甘く清々しい香りにしばし酔いしれる。お茶をするときは、温室の周りに設置されたテラスで、美しい花々に囲まれながら =ガラス越しとはいえ= 爛々茶をいただく。爛々茶はペルーシア王国へ来てからハナが味わうようになったお茶なのだが、香り高く、その強い味わいは心の芯までじんわりと温めてくれる。
【あの子たち、、大丈夫かしら?迷惑かけてない、ラビ?】
ハナは、責任感の強そうなキリリとした顔立ちのダリオと、顔から瞳が転げ落ちていきそうなくらい大きな瞳のエティを思い出し、ラビに心配げに尋ねた。
「ふふ、お陰様で、結婚もしてないのにいきなり父親の気持ちを体験しています。」
ダリオとエティのことを心配したハナは、モーセに頼み込んだ。当初、あの二人はモイーニ家でハナの傍に置いてもらえるようにと頼んだのだが、モーセは最後まで首を縦にふらなかった。ハナの願いごとを聞き入れなかったのは、モーセとしては珍しいことだ。彼なりに色々と考えることがあったのかもしれない。
『二人にはアパートメントを用意させよう。執事や家人をつけ面倒を見させよう。』
『この屋敷には、いつでも来てハナに会えばいいし、ハナも会いたければアパートに出向けばいいだろう?』
そう言われてしまえば、ハナには文句のつけようがなかった。ただ、今まで二人だけで生きてきたダリオたちとはいえ、まだまだ子供だったし、ひと肌恋しい夜だってあるはずだ。本来だったらハナ自身が引き取って一緒に育ててやりたい。そう思ったけれど、己では何一つ出来ない自分の非力さを恨んだ。結局モーセに甘えることしかできない。そんなときラビの申し出はありがたかった。
『わたしのアパートメントで一緒に暮らすのはどうでしょうか?』
このラビの言葉は心から嬉しかった。
『勿論、わたしも仕事を持っていますから日中は、家政婦を雇い、シークからの信頼できる家人を住まわせていただきましょう。けれど、わたしが時間があるときは、ダリオに色々なことを教えられます。エティの様子にも目を配ることができますし、、』
ラビが現在住んでいるのは彼自身の持ち家アパートメントで悠悠自適に暮らしている。ハナは一度も訪れたことはないが、のちに一緒に暮らすようになったダリオたちから、かなり大きな広さの家だということを知った。
<ラビさんって、本当は、大家族とかいるんじゃないの?>
<何故?>
<だって、あのアパートメンとすっげえデカいんだぜ?まるでちょっとしたホテルの廊下みたいさ!>
<うん、いっぱいいっぱいお部屋があって、迷っちゃいそう。>
ラビと住み始めた当時、ダリオとエティは興奮した様子で身振り手振りをまじえて話してくれたので、ハナとしてみればラビの部屋を知っているような気さえする。そんなことを思い出し、目の前にいるラビにハナは感謝した。
【大きなアパートとはいえ、子供と一緒に住むのは大変でしょう?】
<いえいえ、毎日が楽しいですよ。ふふふ。>
今ではダリオとエティはラビになついて、とても幸せそうに暮らしている。
「わたしも彼等のお陰で寂しさが遠のきますよ。ははは。」
ラビは微笑みながら、爛々茶を一口味わいながら、ハナのほっとした安堵の顔を見て心地よい空気に酔いしれていた。だがすぐに今日の目的を思い出し顔を少し曇らせる。
「ハナさんの方はどうですか?何か不自由とかございませんか?」
ラビはハナを訪れる度に、こうして気にかけてくれる。実は、この間からの胸のモヤモヤをラビに打ち明けてみようかとハナはふと思う。ある意味サビーンよりもモーセの近くにいる男だ。けれど例え何かを知っていても、ラビがペラペラしゃべるとは思えなかった。だが、ラビはラビなりに心底ハナを気にかけてくれる。ハナが本当に悩んでいることを知ったならば、きっと力になってくれるだろう。ハナはラビを見つめた。ポーカーフェースのラビなのに、実はハナの大きな黒い瞳で見つめられるのは苦手だ。一瞬、瞳に不安な色を浮かべた。そしてハナはそれを見逃さなかった。
【何かあった?ラビ?心配事?】
サラサラとペンで紙に字を書いているのに、ラビはハナの視線を感じる。ハナの五感が研ぎ澄まされ、ラビの一挙一動を探ろうとしているに違いない。ハナは人の気持ちにとても敏感だ。隠し立てしても必ずばれる。ラビはすっかり降参したように、それでもハナの心の傷口が小さくてすむように、慎重に言葉を探しながら優しい声音で話しはじめた。
「ハナさん、シークの周りにいる長老たちが保守的な考えなのはご存知ですよね?未だにシークの花嫁に外国人を認めたがらない、、、」
【でも、それは、わたしがモーセに相応しくないからでしょう?】
ラビはハナを見つめた。この娘はちゃんと物事の真髄を理解している。いつもながら、ハナの聡明さにラビはため息をもらした。
「そうですね、あなたに隠し立てしても仕方がない。ええ。おっしゃる通りです。そのようなお考えを持っている長老たちがいることは事実です。ハナさん、正式な妻の座を勝ち取るためには、まずは長老たちを説得しなくてはなりません。そうでなければ、あなたは、いつまでたっても人々から、シークの愛人の一人だとしか思われないでしょう。」
ハナの顔は自然と俯き加減になり、ラビはズキンと胸が痛かった。長い睫がハナの顔を悲しげに揺らしていた。
【長老方の言うことはもっともだと思います。モーセはわたしにとってはなくてはならない人です。けれど、わたしがモーセにとって価値があるとは当然思えない。】
文字を通してハナの気持ちが現れていた。いつもより書きなぐった感じのある文字は、ハナのやるせない気持ちを隠しているかのようだ。
【モーセが、今、わたしの傍にいるのは、愛というよりも同情の方が強いのでしょう。】
同情だけ、、それならモーセの全てをハナにくれないのは、、悲しいけれど納得がいく。ハナは自然と手を動かしている。胸の前で両手の人差し指の先端をつけて、くいくいとツイストさせた。
<心が、、痛い、、、>
彼女はそう叫んでいる。ラビは思わずハナを守ってやりたい衝動に駆られた。
「同情なんかではありませんよ。ハナさん。シークはちゃんとハナさんを愛しておられます。」
根拠は何もなかった。モーセがラビに向かってそんなことを言うわけもなかった。だが、あのモーセのただならぬハナへの独占欲を省みれば、そう思わずにはいられなかった。突然、アショカツールの娘の面影がラビの頭を過る。ユリカがモーセの傍にいることがわかれば、長老たちの思うツボでもあった。
「だから、ハナさん、長老たちを見返してやりましょう。」
<え?>
「あなたが世界一、いえ、この宇宙広しといえどもシークに相応しい花嫁であることを認めさせてやるのです。」
ラビはユリカの儚げな顔を頭から追い出すように、力強い声でハナに唱えた。
ハナの口がぽかんとあいた。今の台詞はラビらしくない。青二才が吐くようなセリフで、芝居がかっている。ハナはげらげらと笑いだした。
<ラビ、、、変、、おかしい。>
人差し指で自分の鼻を、ギターの玄をつま弾くように何度も動かした。
「それは、面白い?って言う意味ですね?」
手話を少し覚えたラビの顔が赤らんだ。確かに先ほどの熱血漢のような言葉は普段冷静なラビらしからぬ台詞だった。けれど、ハナを見ているとどうしても力を貸してやりたくなる。あの訳知り顔の長老どもの鼻をあかしてやりたくなった。
「ハナさん、シークはこれから、もう一人の花嫁候補をお迎えになります。」
<ハッ>
ハナが息をのんだ。
「でもこれはシークのお望みになったことではありません。ただ、どうしても納得しない長老たちへの妥協案です。」
【わたしはどうすればいいの?】
「もう一人の花嫁候補をコテンパンにするくらい、ハナさんは堂々と胸をはっていらっしゃればいいのです。」
ラビは敢えて愛人という言葉を避けたが、それは花嫁候補ではなく、今の段階ではモーセの愛人という立場になるだろう。もしこれで、愛人に子供が宿れば、ハナの立場はたちまち逆転してしまうだろう。そうなれば、ハナはどうするのだろうか。ラビは、今はまだユリカの名前をハナに告げることはできなかった。
【ねえ、ラビ、、、わたし、、、大学で勉強してみようかしら?】
唐突にハナがつぶやいた。
ハナは大学へ進もうとも考えていたが、孤児である自分の経済力を考え、高校卒業後働く道を選んだ。だが、教育者の父親の教えを守り、いつも独学で学び、わからないことへの知識を身につけていきていた。好奇心旺盛のハナは、もっともっと世の中のことを知りたいと思っていた。もしこのまま、何もせず、ずっと屋敷で、モーセの帰りを待っていたら、嫉妬に気がくるってしまうかもしれない。
『ハナ、大学に行ってみない?あなたも青春をもっと謳歌してみたら?』
サビーンの考えが唐突に頭を過った。青春を謳歌したいとは思わないけれど、大学に行くのは、今のハナには必要なことなのかもしれない。毎日モンモンとモーセのことを思い、猜疑心に悩まされるくらいなら、少しでもモーセのことを忘れる時間がほしかった。
「なるほど、それはいいお考えかもしれませんね。もう具体的には、どの学部に行かれるか決められましたか?」
ハナは漠然ではあるが、独学で勉強してきた国際福祉法律についての知識をもう少し広げたいと思っていた。ラビには素直にそのことを伝えた。
「シークには、ご相談してみましたか?」
ハナは顔を赤らめながら頭を横に振った。大学に行くのは単なる思い付き、いや、モーセのことを少しでも頭から追い出すための苦肉の策、、今思いついたことをモーセが知る由もなかった。
【ラビから頼んでみてくれる?】
おずおずと自信なさげな顔をしてハナがラビの瞳に映りこんだ。
「はあ。勿論やぶさかではありませんが、ハナさんからシークにお願いしてみたほうが、シークも嬉しいのではありませんか?」
ハナは複雑な顔をした。シークは基本ハナの望むことに反対はしないだろう。けれど、もろ手をあげて賛成されても、もうお前などほしくもないと言われているような気持ちになるだろう。また大学など行ってどうする?などと問い詰められてもそれはそれで困ってしまう。かといってハナと一緒に家族を築いていく気持ちもないのにハナを屋敷に閉じ込めようとするのであれば、それはもはやハナをハナとして見ていなくて、単なるモーセの所有物と思われているに違いなかった。どの答えをとってみても、ハナは怖くてモーセの顔が見れないだろう。
「わかりました。ハナさん。それではわたしからシークにそれとなくお話してみましょう。」
ハナの胸の内を汲んでくれたのか、ラビは、銀縁の奥に光る瞳を優しく細めた。
<ありがとう、ラビ。>
ハナは満面の笑みを返した。
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