シークの涙

11.

翌朝の食卓で、モーセの形の良いアーモン型の目の中に飛び込んできたのは、ハナの驚いた顔。それは滑稽で愛らしい。大きな黒い瞳がポロリと転げ落ちそうなくらいで、びっくりしている。昨日サビーンから大まかな話を聞いたモーセは、渋々ハナの滞在を承知し、ラビは安心して自宅へと戻っていった。今朝は、モーセとハナ、二人っきりだけの朝食で、彼は朝から少しばかり憂鬱だったのだが、いきなり目の前でハナの愛嬌ある表情に吹き出した。

「ハッハハハハ、何だその面白い顔は?」
「お年頃のお嬢様に失礼ですよ。」

隣で給仕をしているタマール夫人がモーセをたしなめた。どうやら、昨日のクッキー作りのお陰か、すっかりハナに懐柔されてしまったタマール夫人は優しい顔をハナに向けた。

「ハナさんは、お可愛いらしいチャーミングなお嬢さんですよね?」

ハナは恥ずかしそうに下を向いた。だが、すぐ、何を思ったのか、顔をあげ、手で自分の顎をすりすりとこすった。

「あら、そうですか? 驚いたのねえ?」

タマール夫人とハナはすっかり気心が知れたようで、ハナの簡単な心の動きは文字でやり取りせずとも、ある程度わかるらしい。

「何だ?」

面白い顔を指摘しただけなのに、タマール夫人に睨まれ、挙句の果てはハナから何やら指摘を受けているらしい事に、モーセは不機嫌さを募らせた。

「シークのお顔ですよ。」
「どういうことだ?」
「お髭ですよ。ねえ、ハナさん?」

タマール夫人の見事な正解にハナは嬉しそうな顔でコクリと頷いた。

男の性を昨夜ぶちまけ、今朝は爽快な目覚めを迎えたモーセは、旅の疲れを落とすように、端整な顔を隠していた髭を見事にそり落とした。元々髭は、外国人との取引のためだけに生やしている所謂ビジネス用だ。髭はアラブ系民族の象徴だと思い込んでいる欧米人などの異国への期待に応えてやっているのと、また髭をはやすことにより、モーセの顔に深みを持たせ、商談相手に畏怖させることにも一役買っているのだ。

「フン!」

モーセは大きな手で自分の顎を触り、気難しい顔で指を滑らせた。ハナはその様子をまぶしそうな瞳で見つめていた。

「モシートお坊ちゃまはお髭ないほうがステキですものねえ?」

夫人は、つい幼少時代の呼び名で、ハナに同意を求めた。ハナはどちらとも言わず、ただ笑ってモーセを見つめる。その瞳があまりにまっすぐで、モーセは居心地が悪くなった。

「勘弁してくれ、夫人。その呼び名は。」
「あら、すみませんでした。」

反省している風でもないが、夫人は謝罪だけはする。そして、そのまま台所へと行ってしまい、気まずい空気が食卓に流れた。いや、気まずいと感じているのは、どうやらモーセだけのようで、ハナは普通に食事を続けていた。言葉のしゃべれないハナとでは、ただ静けさがあるだけだ。普段のモーセなら、そんな沈黙など、彼の威圧で飲み込んでしまい、逆に相手がその沈黙に耐えられず極度の緊張感に襲われ、居心地の悪い思いをさせてやるのだが、、ところがハナにはこの静けさは何も堪えていないらしい。ハナの瞳はクルクルとよく動く。それが顔の表情を作り、言葉を発していなくても、まるで会話をしているようだった。だが、実際には言葉はそこに何もない。そこには長い沈黙が続いているだけ。食べていたかと思うと急にモーセを見れば、モーセの茶色い瞳とハナは目が合ってしまう。

ハナはフォークを置いた。そして右手で胸をポンポンと叩き、続いてその手をモーセに向けた。それから自分の頬をさすり、コクコクと頷き、また頬をさすり、今度はいやいやをするように首を横に振った。それからゆっくりとまた自分の胸をポンポンと叩いて、最後ににっこりと笑みを浮かべた。モーセはその一連の動きだけで、すでにハナの言いたい事を理解していた。

<髭があってもわたしは好きですよ。髭がなくても好きですよ。>

つまりハナは、モーセがどんな風であろうと好きだと言っているのだ。モーセ自身、ハナの言いたいことはよくわかったけれど、あえてそれに返事はしなかった。

「フン、まったく言葉がしゃべらないとよくわからん。わたしには時間の無駄だ。」

冷たく言い放った。ハナは、そこであわてて、テーブル横にあったスケッチブックを取ろうとしたが、モーセの低い声が続いた。

「食事中だ。そんなことは無駄だ。早く食べろ。」

行儀が悪いとでも言われたようで、ハナはたちまちシュンとなった。小さな体がますます小さくしぼんでしまい、とても哀れに見えた。モーセの心の奥に針がチクっと刺さった気がしたが、彼はそんな痛みを感じなかったように、黙って食べ始めた。ハナもあわてて、フォークを手に取り、そこからは、今度こそ、本当の静けさが流れ、黙々と二人は食事をするだけだった。



*****


サビーンがハナをペルーシア王国に呼び寄せたのは、勿論ハナの治療のためだ。だが、それ以上に、サビーンはハナを一人ぼっちで放っておくことができなかった。2度までも、母と父の遺体第一発見者という悲劇をになったハナが哀れで、何とかしてあげたい、その一心でこの国に呼び寄せた。そしてその思いはモーセにも十分理解できた。だからこそ、渋々ではあったものの、ハナを自分の屋敷に置かせることを承知した。サビーンはいつまでとは言わなかった。モーセもまたいつまでとは聞かなかった。家族が困っているときは手を差し伸べる、それがシークの役目でもあるからか。

ハナがモーセの屋敷に初めて足を踏み入れてから早1週間がたった。その間、モーセとは中々話す機会には恵まれない。勿論、これはモーセの生活を知っているものならあたり前の話で、最初のハナとモーセの二日間が奇跡に近かかっただけの話だ。初めて一緒に夕食をとったり、翌日もずっとモーセの空気を感じながら過ごす、そんな密接した時間など、普段ならありえないこと。モーセは1日24時間では足りないくらい精力的に動く。通常シークといえば、富も金もあって、優秀な部下に指示するだけで、自分は優雅に生活を楽しむことがあたリ前だという風潮もある。勿論モーセの部下たちは、ラビを筆頭にみな優秀だ。だが、モーセは、いつも先を見据えている。1歩先なら誰でも考えそうなのだが、彼は、いくつかの選択肢を考えながら3歩先を読む。いつだって起こりうることを想定しながら駒をすすめていくのだ。彼にとって、どこかの政治家の決まり文句のように、”想定外”など、ありえないのかもしれない。

「ハナさん、今日は何を食べましょう?」

ここたった1週間だけだが、タマール夫人のお陰でハナの顔に色ツヤが戻り、少しだけふっくらした感も否めない。

「ハナさんはもっとお肉をつけないとこの国ではもてないんですよ。
もっとたくさん食べて、サビーンさまのようなプロポーションにならないと。」

タマール夫人の言う通り、サビーンはスタイルがいい。女性らしい丸みを帯びた線が見事だ。ただ本人は欧米にいたせいか、食事には気を使っているようで、女性の柔らかな魅力的な曲線以外の無駄な贅肉には手厳しかった。だがペルーシア王国の男たちは、たわわな胸や、どっぷりと丸みのあるお尻、さわればぷにゃぷにゃと動いて絡みつく贅肉が好みのようで、かなり福与かな女たちが持てはやされる。おそらく多産な女を本能で望んでいるのかもしれない。ハナは、自分の貧弱な体を思い、そして、モーセを思い浮かべた。あの男の好みもふくよかでたくさんの子供を生みそうな女たちなのだろうか。ハナはやるせなくため息をついた。

「モシートさまは、勿論、未来のシークの母上になってくれる女性を選ぶわけですから、丈夫な方でなくてはお困りでしょうけれど、適度の丸みはお好きなようですが、それでもあまりふくよかすぎる方はお好みではないかもしれませんねえ。」

まるでハナのため息の元を知っているかのように夫人はつけ加えた。ハナは心を読まれたようで、真っ赤になった。いずれにしても、自分の体型では彼の眼中外ということであろう。

「ほほほ、ハナさんはモシートさまのファンですものね。」

ハナの顔が燃えるように赤くなった。

「あらまあ、可愛らしい。でもね、普通の若いお嬢さん方は、モシートさまは怖そうだからと、ラビのファンの方が圧倒的に多いんですけどね。ほほほ。」

夫人は嬉しそうに笑った。ハナとしゃべるタマール夫人は、すっかりハナに心を許しているようで、シークと呼ばず幼少名、モシートと呼ぶのだ。

突然、ハナが怖そうな顔をした。実は、この怖い顔をするとき、夫人とのサインで、モーセのことを表している。それから、片手を日よけのようにオデコにくっつけてキョロキョロと探す振りをした。ハナはスケッチブックを使わなくても簡単なサインで、手話とは違う術で夫人としゃべる、そんなコミュニケーションが二人の間では築き上げられていた。例え知り合ってから短い間だというのに、二人は昔からの気心の知れた者同士のように見えた。

<モーセ、どこ?>

ハナはそう聞いた。

「今日は、地方へ視察です。お帰りは夜中かと思います。」

ハナは途端にがっかりした顔をした。ひな鳥が親鳥を待っているような健気さがハナにはある。タマール夫人は、それが何だかとても哀れに思えた。

「明日は恐らく午前中いっぱいは、書斎で缶詰めでございます。もし何か御用なら明日、タイミングを見計らって書斎を訪ねてごらんなさいまし。」

途端にハナの顔に笑顔が戻る。モーセは仕事中、関係者以外を絶対に近寄らせない。それは家のものに徹底させていた。タマール夫人をはじめ、召使たちは、例え王からの緊急連絡でも、モーセが許可しない限り、絶対に伝言も電話も取り次がなかった。だが、と夫人は考える。モーセに何の先入観も持たないこの素直で純粋な娘は、別格のような気がした。あの男がその気になれば世界でさえも思いのままにしてしまうかもしれない、それほどの男でさえ、何の邪念も持たないハナの無垢な心に抗う事ができるのだろうか。それを夫人は見てみたい気がした。もし万が一モーセの激高を買ったとしても、ハナに暴力をふるう事は絶対にしないし、ただ、夫人が彼の怒りをかうだけのことだ。あとでモーセの雷に耐えればいいだけのことだ。そんなイタズラ心が夫人に芽生えた。

「ただ、モシートさまは、お時間のない方です。書斎でお仕事をなさるときのその集中力はすごいものでございます。ですから、ハナさんも、ご用件を手短に順序よくお話になれるように周到に準備なさった方がよろしいかと。おそらくご機嫌なら、5分くらいはお時間がいただけるかもしれませんね。」

ハナはじっと夫人の言葉に耳を傾けながら、笑顔でコクリと頷いた。21歳の微笑みというよりも、あどけない子供のような笑顔で、夫人の心がほんわかとした。

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