シークの涙

12.

モーセは自分の目の前に飛び込んできた光景が信じられず数回瞬きをしていた。だが、どうやら錯覚ではないらしい。

(まったく意味がわからない。)

書斎の扉の前に椅子が置かれ、その上でハナが眠っている。こんな椅子にでさえ、随分と器用に眠るものだと、モーセは感心する。ハナは胸にスケッチブックをしっかと抱えているようだが、体がコクリコクリと揺れる度にスケッチブックが手から落ちていきそうだ。その度に、無意識の中で、もう一度、しっかと胸に抱きかかえる。思わず笑いが漏れた。だいたい女の寝顔などというのは、男と女のそれが終わったときにチラリと見るくらいでモーセにとっては全く興味のわかないものだ。だが、今こうやって勝手にそんな寝顔を見せられてしまい、その上、小動物のような動きのハナは何ともほのぼのとしていて、モーセですらふくみ笑いがもれる。

(さてどうしたものか、、、)

気づかれないように書斎の扉を開けるのは至難の業だ。となれば、

「起きろ。」

ハナの顔は夢心地でまったく夢から覚める気配がない。モーセはため息をついて、片手を彼女の肩にかけて軽く揺らした。

「おい、起きろ。」

微力な揺れのはずだが、ハナの細い首と顔がガクンと揺れた。モーセの大きな手のひらが軽く彼女の肩にふれただけなのに、その肩は何と頼りなげで華奢なのだろう。軽く揺らしているというのに、今にもグニャリと折れてしまいそうだ。モーセはあわてて揺らすのをやめた。まったく触れたことのない感触、、、いや、一度だけ、確か一度だけ、、あれは、部族の長になった祝いの儀式で、祝いにかけつけた親戚から懇願されて、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたことがある。ちょっと圧をかければ、その生き物は容易く息絶えてしまうような、そんな危うい生き物。だれかが守ってやられなければきっと生きてはいけないそんな庇護欲をかきたてられる生き物。モーセはあのとき、こわごわ触った赤ん坊の感触が体に蘇る。

「あっ。」

モーセの目の前でハナは目を開けた。大きな黒い瞳が驚いたように、けれど、まだ夢を彷徨っているのか、キョトンとしている。どうやら単に驚いているだけで怯えている様子はない。

「どけ。」

モーセは一言だけ告げる。ピョコンといきなり椅子からたったハナは、使命を思い出したようで、スケッチブックを広げる。

【5分だけ時間を下さい。】

おそらくタマール夫人あたりから、今日はずっと書斎にいるであろうモーセの日程を聞いたのかもしれない。ただ、いつから部屋にこもるのかわからないから、ずっとここで待っていたということだろう。モーセはタマール夫人の笑顔を思い出しながら、後で小言を言ってやろうと思う。

ハナはモーセの答えを待っているようでじっと瞳をこらしたまま動かない。

「早くしろ、もう時間は動き出している。」

/サッ/

すぐにページをめくる。あらかじめ、彼女は文字をスケッチブックに書いていたようだ。

【わたしは施しを受けるわけにはいきません。】
「何だと?」
【ただで置いていただくのは心苦しい。】

「フン、わたしの知った事ではない。サビーンの頼みだ。」
【ならば、出て行きます。】

普段なら『勝手にしろ!』と一喝するところだが、生憎、サビーンは、ハナの身の上話をモーセとラビに話してから、アメリカの学会に出かけてしまって今は不在中だ。彼女は、本来ハナがやって来る事を想定して学会に出かけることを中止しようとしていたのだが、晴れてモーセが面倒 =屋敷において貰う= をみてくれるということで安心して、予定通り学会に出かけてしまった。だから、サビーンの留守中にハナに何かあってはシークとしても面目丸つぶれだ。そのことを知ってか知らぬか、ハナはモーセの痛いところをついてきた。

「お前はどうしたいのだ。」

【おいて貰う以上は働きたい。】
「なに?」
【家の仕事を手伝おうと
タマール夫人に言ってもとりあえってもらえない。】

ハナは時間を短縮するべく、出来るだけ短い言葉でモーセが読みやすいように、予めスケッチブックに書いていた。

「あたり前だ。客人は、のほほんとしていればいい。」

/バサリ/
ページを何枚かめくって出てきた言葉。

【わたしは客人ではない。】

モーセは、『おや?』と思う。確かにハナは自分の言いたい事をあらかじめスケッチブックにしたためているようだ。だが、どうやらモーセの対応にも予想をつけて、色々と対応できるように言葉を書いてきたらしい。その証拠に、スケッチブックのページは、ぎっしりと文字が書かれているらしく、ハナの指が、色々なページにはさまれていた。つまり、モーセがこう言ったら、このページを開く、モーセがああいえば、今度はこっちのページ、と、時間の無駄がないようにと考えてきたらしい。

(頭はいい。)

そう思わざるおえない。ならば、どこまで、このモーセに対応できるのか一興だ。

【家の仕事をもらえないなら、あなたの仕事を手伝いたい。】
「俺の?フン、俺には優秀な部下がいる。
今のところ人を雇うつもりはない。さあ、5分は終わりだ。」

ぐいとモーセは前に出て、椅子をどけようとする。その腕を掴まれた。

【ラビは日本語が出来ない。韓国語が出来ない。】

スケッチブックにはそう書いてあった。ラビは英語は勿論、フランス語、スペイン語にはたけているのだが、確かにアジア圏内の言葉はできない。最近のモーセの事業ではアジア圏内ともビジネスを行っている。最近、提携を結んだ会社3件、うち、韓国企業1件、日本企業2件。勿論ビジネスは英語で繰り広げられるが、ただ資料集めをする場合、相手側の母国語でしか資料がない場合がある。翻訳に手間がかかることが再三あった。例えば、今、この最後の文章のこの部分だけでも知りたい、と思っても、すぐにその答えを手に出来ず、翻訳があがるまでイライラして待った経験が何度かあった。ビジネスは時間との戦い。そう思っているモーセには、ハナの主張は興味をそそられた。

「ならば、お前は、出来るというのか?」

コクリとハナは頷いた。フン、とモーセはまた鼻で笑った。語学を知らない人間は、言葉がしゃべれることでどんなものでも翻訳出来ると思い込む。だが、実際翻訳などは、その分野の知識があってこそのものだ。たとえば、電気技師が英語をしゃべれなくても、図を見ただけで、あるいは、英語で記された電気用語だけで理解してしまう。逆に、たとえ英語がしゃべれる人間だとしても、電気についてはズブの素人だったりする場合、翻訳はかなり難航を極めるだろう。今目の前にいるハナは珍しく自信たっぷりな顔をしていた。

「やめておけ。仕事での失敗をわたしは許さない。」

ハナは頑固に自分の意志を曲げなかった。ペラリと別ページを見せた。

【でも働きたい。何でもする。】
「お前に重労働が出来るとも、思わん。」

先ほどからモーセとの会話に、ハナが事前に書いて用意してきた文章は見事にあたっている。つまり、ハナの読みどおりの会話が進められていることになる。何だか自分の思考をいとも容易く読まれていたようで、モーセは気に入らない。それなら、ハナを追い詰めてみたい。何だかそんな気持ちに駆られた。

「ならば、俺の愛人になればいい。」

ハナの目が見開いた。まさに言葉を失っているようだ。

「お前がどうしても働きたいのなら、わたしのベッドでも暖めていればいい。1ヶ月くらいなら、かわいがるのも一興だろう。」

スケッチブックを持つ手が小刻みに震え始めた。ハナは目を伏せた。長い睫毛がゆるゆると揺れている。心なしか耳や首筋がピンクに染まっているようだ。さすがに、この言葉には、答えが用意されていなかったらしい。モーセは勝利に酔いしれてほくそ笑む。ハナのうなだれた姿は確かに胸をうつ。さて、余興もここまでと言わんばかりモーセは扉のノブに手をかけた。

すると、

【食べても美味しくないです。】

目の前に出された紙にそう記されていた。

「な、、」

モーセは予期せぬ反撃に口を開けたまま、ハナを見つめた。ハナもじっとモーセを見つめ返している。目の前にいる、女としては貧相な体、まだ少女だといっても通じるハナの体を上から下までモーセは見下ろした。

「アッハハハハハハ、確かに馳走とは言えまい。」

大きな笑い声が、朝の静かな廊下に響く。こんなモーセの笑い声など誰も聞いたこともないのではないか。

「アハハハハ。負けだ。」

そう言って、椅子をどかし、モーセはドアをガチャリと開けた。中に入り、ドアが閉まる彼の背中から重厚な声がした。

「夫人に、昼、食事を取るからと言っておけ。」

/バタン/

ドアが閉まった。ハナは呆然と目の前の赤茶色の彫刻の入ったドアを呆然と見つめた。そのあと、すぐに、『はああっ』と大きなため息をついて、へなへなと椅子に座り込んだ。彼女も彼女なりに緊張していたようだった。けれど、どうやら、昼、モーセと話せる機会があることだけはわかった。おそらく、タマール夫人はすでに起きていて厨房で働いているに違いない。モーセからの伝言を夫人に伝えるべくハナはイソイソと椅子から立ち上がり、厨房へ向かった。

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system