シークの涙

13.

久しぶりにモーセが食卓に座ることに、シェフやタマール夫人の気合は十分で、そして従業員たちもそれは伝染していく。勿論客人のハナのためにも決して手を抜かない使用人たちだが、モーセが屋敷にいるというだけで、ピンと緊張の糸が張り詰める。それは働くものにとって良い意味での緊張感となり、働くモチベーションにも繋がっていくのだ。

今日の昼食はどうやら、子羊のロースト香草焼きとほうれん草のヨーグルト和え、さらには、暑さを乗り切る為の豆スープ、そして、ラクレット。牛のチーズをスライスしたものを、小さな四角いフライパンにのせ、それをラクレット専用のグリル器具にのっける。いわゆる電気鉄板プレートなのだが、鉄板が二段で構成されている。上部のプレートには野菜や肉などを焼き、下段には10cm角のミニフライパンをいくつか置けるようになっている。各々が、チーズを入れた小さなフライパンをそこにのっけて下から熱することで、中のチーズがどろりとして溶け出してくる。チーズがたっぷり溶けてきたら、四角いミニフライパンをサッと取り出して、自分の皿にトロリチーズを移しかえる。アツアツのチーズをたっぷりとパンにのせて食べたり、グリル野菜の上にかけて食べる。これはハナが初めて口にして以来大好物となった。シンプルな味わいもそうだが、何しろ、自分で作れる楽しさがたまらなかった。

ミニフライパンに入れるチーズは、大きな皿に予め十数枚スライスされ食卓に置かれている。傍の給仕係がラクレット用チーズ皿に触るより早く、ハナは勝手知ったると言わんばかりに皿に手を伸ばした。その刹那、大きな手の平がハナの手を包んだ。

ハナはびっくりして瞳を大きくしたが、モーセも同じように驚いているようだ。だが、こちらは、少しだけ眉があがって散漫な顔に見える。どうやら、モーセもラクレットを食べようと、チーズ皿に手を伸ばしたので、偶然ハナの手と重なってしまったようだ。

「あらあら、お二人の大好物でしたものね?」

思わず可笑しくなったのかタマール夫人が微笑ましいと言わんばかりに笑顔になった。実はラクレットはモーセの好物でもあるのだ。だが、モーセは何となくバツが悪い。小動物が驚きすぎて体を固くするように、ハナはチーズのサーバー用のスプーンを握ったまま動く気配がない。見かねたモーセが声をかけた。

「早くとって、こちらにまわしなさい。」

キョトンとした目に、バサリバサリと長い睫毛がまばたいた。そのあとすぐに急スピードで、チーズを一枚取ってフライパンにのせ、ラクレット用鉄板に置くや否や、チーズ皿を目の前に座っているモーセに渡そうとする。だが、非力なハナの腕ではチーズ皿が重すぎてヨロヨロと揺れていて、モーセに渡すどころではない。勿論、これは、マナー違反で、本来、給仕係がいる場合、彼らがチーズを取り分け皿にのせてくれる。ハナが重い皿をモーセに手渡そうとするなど言語道断だった。だがモーセは別段ハナを咎めるわけでもなく、逞しい腕をさっと差し出し、いとも軽々とハナからその重い皿を引き受けた。その一連の動作はとても自然で優雅だったのだが、実は、周りにいた使用人たちは声にこそださなかったが、内心驚いて腰が抜けそうになっていた。タマール夫人だけは、下を向いて嬉しそうに微笑んでいた。

「ハナ、」

彼女はハッとして顔をあげた。

「翻訳物を後で渡すから、3日以内に訳しておくように。お前が働く能力があるか否かは、それからだ。」

ハナはタマール夫人に顔を向け、怖い顔をしたあと、すぐに自分の顔の前で花の形を手で作った。夫人はすぐにわかったようだ。

「よかったですねえ。ハナさん。ほほほ。」

ハナの顔は上気して、夫人は嬉しそうに笑いながらモーセを見た。

「な、なんだ、夫人。」
「いいえ。ハナさんが、シークに初めてお名前を呼んでもらえたと、とても喜んでらっしゃるものですから。」

何と、おそるべし夫人の通訳。怖い顔=モーセ、花の形=ハナ、これだけのジェスチャーでハナの気持ちがしっかりと伝わっていた。

「フン、いつのまに、手話を覚えたのだ?」
「いいえ、シーク。これは手話ではないんですの。わたくしとハナさんとの二人だけにわかりあえるサインですわ。簡単な意思疎通ならもう問題ございません。」

モーセのいない間に、すっかりタマール夫人はハナと仲良くなった様子で、その可愛がり方もかなりのものだ。そういえば、今朝の書斎の件だって、あれほど口の固い夫人が、ハナに進言するほどハナは随分と信用されているのだとモーセは思い出す。不思議な女だと思う。まずサビーンのあの可愛がり方も以上だと思う。従姉妹のことは、年も近いこともあって昔から一緒にいたりよく遊んだりしているので、彼女の性格は良く知っている。面倒見は悪くはないが、それも決して度を越したりしない。メンタルの面でさまざまな患者を看ているが、彼女は医者と患者の一線は絶対に超えないのだ。なのに、ハナへの愛情は、驚くほどだった。それから、ラビのこともそうだ。あの男は決して感情を表に出したりしない。普段はニコニコ人当たりがいいのだが、そのくせ絶対に腹の中を見せない。モーセのように最初からポーカーフェイスを装っていれば、人からもそれなりに距離を置かれたりするが、ラビの場合、人当たりがいいだけに、何を考えているかわらない性格は掴みどころがないように思え、タチが悪い。そのラビでさえも、随分とハナに心を痛め気にかけているようだ。彼のハナを気遣う様子は、ラビの正直な気持ちのように思えた。

「ハナっていう意味は、ハナさんの祖国ではお花を意味するのですって。」

唐突に夫人の嬉しそうな声がする。つまり先ほど花を手で作ったサインはハナ自身のことを指していたのだ。なるほど、花か、モーセは、ふと、白い小さな花を思い浮かべてしまった。だがまた思考が乱れたことにむっとする。モーセは、先ほど自分が言った事に返事がないハナを咎めるように、もう一度繰り返した。

「よいか、3日以内だ。」

コクリ。ハナがしっかり頷いた。その顔を尻目に、モーセはラクレットのチーズをごっそりとのっけたフランスパンをガブリと口に入れた。こういうタイプは、自分の実力を過信しているかもしれないから、実際にやらせてみた方が話が早い。翻訳は難しいのだ。たかだか語学が出来るからといって、翻訳が出来るとは限らない。モーセは、ハナといるといつもの自分のペースが、わずかではあるのだが、崩されると、肌で感じている。こんな小娘にペースを乱される事自体、モーセにとっては実に腹立たしい。だから今回のこの翻訳テストで、ハナに実力がないとわかれば、散々皮肉を言ってやるのだ、と思いながら、二口目のラクレットを頬張った。

ハナがクスリと笑った。

「む、何だ?」

ハナもラクレットをのせたパンを頬張りながら、美味しいね、と言わんばかりに片目を瞑り指でOKのサインを作る。何故かそんな無邪気さにモーセは胸が詰まった。彼女はこんなものにも幸せそうな顔をする。ある日、山ほどあるラクレットを食卓で飾ったらどんな顔をするだろうか?もっと幸せそうな顔をするだろうか?それとも食べきれないからと困った顔をするのだろうか? まただ、思考がずれる、そう思いながらモーセは心の中で舌打ちをした。

「フン、食事中はペラペラとしゃべらず、さっさと食べろ。」

これには、夫人が笑い出した。

「ハナさん、よかったですねえ。モシート様とおしゃべりが出来て。ほほほ。」
「夫人、その呼称はやめてくれ。」
「はいはい。」

夫人はちっとも悪びれた様子もなく、だがいつものようにモーセに逆らわない。ハナと目を合わせタマール夫人は笑みを浮かべた。ハナも笑っていた。声の出ないハナの心の言葉はモーセにちゃんと伝わる。それが嬉しかった。

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