シークの涙

14.

ハナは果てしなく完璧に近く、モーセから与えられた資料を訳した。

一応あらかじめ、ハナから得意分野を聞いていたモーセだが、あまり多くを期待していなかった。医療分野が得意だというハナに、丁度来月から日本の製薬会社との契約のために、取り寄せた資料を10枚渡した。

果たして俺に泣きついてくるか、あるいは、困り果てた顔が見られるか、いずれにしても見物みものだ。

モーセは、そうほくそ笑んでいたのだったが、、、

ハナは渡された資料を英訳で作成後、モーセに渡した。資料についてはあらかじめ、翻訳会社から準備されていたので、モーセは、ハナの翻訳をプロの訳した資料と照らし合わせるだけでよかった。

「完璧ですね。いいえ、ハナさんの訳したほうがより理解し易い。」

会社の社長室で、モーセとラビはハナの英訳を読んでいるところだった。読み終わったラビは、ギンブチ眼鏡の奥で瞳を光らせた。モーセも内心舌を巻いていたが、それを認めるのは実に悔しい。結果は一目瞭然。ハナに仕事を手伝わせるべきなのだ。

「さすがですね、彼女は専門用語をきちんと理解して使っていますね。その上かなり知識がある。逆にわが社と契約している翻訳のほうが、比べてしまうと、知識が薄いと感じます。」

相変わらずラビは感心しきりだ。

「フン、たかだか10枚だ。仕事となれば、もっと過酷になるのだ。悠長なことは言っておれないだろう。」

モーセは、現実に直面する会社にとっての利益 =ハナを雇うこと= とはウラハラに否定的な含みを持たせ、唸った。ラビは驚く。これだけの実力なら、ハナに翻訳をさせること、会社の利になれど害になるはずもない。

「シーク?何かご不都合でも?」
「あれは、、健康とはいいがたい。」
「、、、、、」

かなりイチャモンに近いモーセの答えに、彼は何が不満なのだろうか? ラビはモーセの思考の意図を掴もうと必死に頭をフル回転し始めた。確かに、モーセは仕事に甘えを許さない。契約した以上、期限内に約束された枚数を正確に仕上げなくてはならない。おそらく、モーセが必要と感じれば、それは莫大なページの枚数を短期間で訳さなくてはならないときもあるだろう。だからハナには体力がないといいたいのだろうか? だが、果たしてそういうことなのだろうか。自信なさげに、ラビは一つの結論を導き出した。

「つまり、、、あまり根を詰めて翻訳をすることになると、
ハナさんの体力が懸念されると?」

「むっ。」

モーセは何も言わず、ただ少しだけ眉間にシワをよせた。あたらずとも遠からず。ハナに関しては、モーセの中では信じられないくらい複雑な思いが交錯しているらしい。

「ところで、、」

急に話を変えた。

「調べはついたか?」
「ええ。」

ラビは手際よく、持っていた分厚いアジェンダ帳をサッと開いた。

「ハナさんのお父上は、明らかに他殺の疑いがあります。」
「日本警察の見解は?」 
「はい、他殺の線で追っていたようですが、手がかりがなく、、年月を経た今となっては犯人の手がかりがあまりに少なすぎる為、難航しているようです。」
「ふむ、で、現段階でのお前の判断は?」
「現状では70%の信憑性です。」

これは確実に他殺なのだと、モーセも確信した。というのも、ラビが結論の出ていない事案について語る場合としては、かなり高い可能性をはじきだしたからだ。モーセは、思ったとおりだとでも言うように、割れた顎を長い指先で撫でた。

「お母上については、その自殺か他殺かは、半々といったところです。」

すでに日本の警察は自殺で処理をしているので、この件はすでに事件性はないものと結論付けられている。だが、モーセの指示でラビも調査を始めているのだが、古い出来事であり、こちらはかなり厳しい調査となっている。だが、そこはモーセの部下たちだ。きっともう少し時間をかければかなりの真実がわかってくるはずである。

「ハナさんは、お父上が亡くなってすぐ児童養護施設に入れられました。残念ながら、肉親の情に薄い方で、ご親戚もいらっしゃらないようです。数年お暮らしになり、18歳になられたのを機に、そこの施設の事務職員で働かれていたようです。」

現在ハナは21歳になっていたので、3年間事務員として働いていれば、とりあえずコンピューターの基本操作や、一通りの事務は一応出来ることになる。

「小杉教授、つまりハナさんのお父上が素晴らしかったのは、、
よもやこうなるとは思ってもいらっしゃらなかったのでしょうが、ハナさんの記憶が戻ってからは、英語を徹底的に勉強させたようです。厳しくご指導していたとのこと。特に医療製薬分野についての見識を母国語とあわせて叩き込まれたようです。ハナさんは、まだまだお小さかったわけですから、、、」

ハナの努力は口では言えないものがあったのではないか。少なくとも母を失った悲しみから立ち直る時間すらも与えないように、小杉教授はかなりのスパルタでハナを教育していったという。

「お父上亡き後、今度はハナさん自身が選ばれた福祉法律分野の英語を勉学。となれば、彼女の得意分野は幅が広いですね。」

なるほど、ハナの翻訳はつけ焼刃ではなかったわけだ。

「本当に不幸なことですが、、今となってはお父上の選択したご教育は、ハナさんの生きるための糧になったわけです。」
「フン。」

ですので、わが社でハナさんを翻訳家として契約しても損はない話だと、、と言う言葉をラビは飲み込んだ。損得勘定については、ラビに言われるまでもない。ハナを雇用したほうが、当然過分の利があることはモーセだって一目瞭然のはず。それなのに、彼は明らかに躊躇しているのだ。

「ラビ、、、お前は、、アレをどう思う?」

「、、、、」

珍しい事だった。人を雇うにあたり、その人間の評価をラビに求めてくる事など絶対にありえない。ならば、モーセはラビからどんなことを聞きたいのだろう。ラビはこういうときはあまり考えず、素直に答えることにしている。凡人には、=ラビだってモーセに選ばれし人材で凡人とは言い難いが、= モーセの考えていることなど読めやしない。

「わたしには公正な判断はいたしかねます。」

ジロリとモーセはラビを睨んだ。

「続けろ。」

「はい。実は、ハナさんは亡くなったわたしの妹とどこか似ていて、、それが多分、、わたしの判断を鈍らせるのでは、、と、、」

モーセはラビが18歳のとき、直感で部下にした。一瞬にして信用できる男だとモーセの本能は告げていた。男にしてはとても綺麗な端整な顔立ちで人当たりもよさそうだが、頭の回転が実に速く、またモーセの瞳を見据えて話すところも気に入った。だが、ラビの奥底にはどんよりとした薄暗い過去が潜んでいることもモーセはウスウス感じ取っている。

「つまりハナに同情的な見方になると?」
「はい。どちかといえば、今のわたしの心は、会社の利益云々よりも、シークに是非ともハナさんを雇ってもらいたい、、その一心です。」

ハナを見たときからラビは目が離せないでいたのは、それは彼の妹にどこか似ているせいだった。モーセは、ハナを見つめるラビが平常心でなくなる理由がやっとわかり心の中で頷いた。

(さて、、どうしたものか、、、)

モーセは低く唸った。

「逆にお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「シークがハナさんの契約を足踏みしていらっしゃる理由は何でしょうか?」

ラビは痛いところをついてきた。モーセ自身、自分が聞きたいくらいの話なのだ。だが彼の本能が、ハナを遠ざけた方がいいと警鐘を鳴らしているのだ。

「わからん。」

モーセも腹の底を割って話す。

「俺のもわからん。だが、俺の直感だ。」
「それは、ハナさんが信用できない、ということでしょうか?」

そうではない気がする。だが、ハナはやがて、モーセの足枷になっていくのかもしれない。それはシークを崇拝するラビですらも思いもよらないことであり、ましてやモーセ自身がハナを恐れる日がこようとは、知る由もないことだった。

考えたところで今は何もわからないのならば、答えはひとつだ。

「いや、、、わかった。」

モーセは先ほどの煮え切らない口調とは違ってキッパリと言った。

「では、まずは1ヶ月のトライアル後、お前が問題なしと判断すれば、3ヶ月更新で契約書を作ってくれ。」
「はい。」

「俺は、、アレの雇用に懐疑的だったんだからな。何かあればお前が責任をとれ。」

低い声がしたが、それはモーセなりのからかいのようで、その証拠に彼の形のよい唇の端がクイッとあがった。

「わかりました。お心使い感謝致します。」

ラビは頭を下げ社長室を後にした。残されたモーセは、部屋の明かりをいっせいに取り込む大きな防弾ガラスの向こうに移る色とりどりの斬新なビルの群れを見やった。何か鼓動がおかしい。ハナは遠ざけた方がいい。けれど、自分の人生から遮断することに、不安が過ぎる。こんなことは初めてのことだ。手元に置いておきたいのかそうでないのか、、、理不尽な思いにモーセはイライラとしながら、顎をさする。何とも不可思議な気持ちだった。

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