シークの涙

15.

「それから?」

静かな一室で、静寂が響き渡る。だが、シャッシャッと衣服の擦れる音。それはハナがサビーンの質問に手話で答えているからだ。手話というのは厄介で、世界共通ではない。サビーンは母国語と英語の手話を取得している。そしてハナもまた英語の手話が出来るので、手話は、英語で、サビーンの質問は日本語でと、二人は少し複雑な会話をしていた。

あれからハナは翻訳の仕事で正式に雇用された。すでに1ヶ月のトライアル期間を無事終えて、数週間前に3ヶ月更新の契約を交わしている。トライアルの短期間中にラビはペルーシア王国でのハナのビジネスビザを準備した。通常ならば、ここ王国では外国人用の労働ビザの認可が下りるまで3ヶ月以上はかかるという。勿論ラビの手際の良さも否めないが、さすがにシークの権力はすごい。わずか数週間でのビザ取得となった。

ハナの日常はだいたい、屋敷の図書館で始まる。朝起きて食事を取り、そのまま図書館へ行き仕事をする。調べ物をしたり、翻訳をし、清書のためにキーボードを打つ。終わっても終わっても、仕事は減らず、次から次へと翻訳にとりかかる。タマール夫人はハナの健康を気遣って、必ず食事時間のほかに、お茶の時間を強制的に作る。朝は11時、午後は17時、必ず中庭のテラスや、天気の悪いときは大きなガラス張りのグリーンハウスのテラスで最低でも1時間は夫人と共におしゃべりをしながら、休憩をとらす。お陰で、ハナの体重は減ることはなく、とてもなだらかではあったが、上昇傾向にあった。ただ、そこにはモーセの姿はいつもない。というより、すでにハナがトライアルで働き始めてから、ここ1ヶ月以上、モーセと屋敷で出くわすことがないのだ。夫人の話では時々忘れた頃、夜中に帰ってくることはあるのだが、またすぐに出て行ってしまうらしい。


「どうしたの?ハナ?」

サビーンがハナを現実に戻した。ハナは驚いたような顔をして、それからすぐに照れくさそうに笑った。

「フフ、良い笑顔ね。とにかく、ハナ、もっともっと思っていることを吐き出しなさい。もっと正直に生きていいのよ。」

ハナは小首をかしげた。

<わたし嘘は嫌い。思ったことをいつだって口にしてるよ?>

ハナが手で語りかけた。確かに、、ハナは素直で正直だ。ただし、それは、日常のとりとめもない出来事のことで、驚いたり、喜んだり、とてもクルクルと目まぐるしく自分の感情を描き出す。けれど、、一番大切なことは、貝のようにしっかり胸の蓋をパタンと閉めたままなのだ。それを吐き出さない限り、彼女の病は治らない。サビーンは、毎週2回の訪問治療セッションでそう結論づけていた。

「うん。ゆっくりね、あせらなくていいから。」

優しく笑って、ハナの頭を撫でた。ハナに必要なものは、愛されること、失う事のない大きな愛情に包まれること、心の底から悲しいことを吐き出して、子供のように泣き疲れることだ。実際ハナは、母親が亡くなったときも、まだ10歳だったにもかかわらず、大泣きはしていない。そして、父親が亡くなった時は、涙一つ流さなかったという。その代わり、心を閉ざし鍵をかけ、バタンと扉を閉めて、言葉を失くした。

<モーセに会うことある?>

前回もハナは聞いた。前々回もハナは聞く。モーセに会ったのかと。すでに何度目かのセッションで毎回同じハナの質問だった。

「ううん。会わないわ。」

そしてサビーンもいつもと同じように同じ言葉を繰り返す。実際、普段はモーセとは会うことがない。サビーンは診療所と研究室の往復で、たまの休みには家で疲れきって寝ていることが多い。ここ数年、パーティなど、公の場にも出席したこともない。かたやモーセは休日すらも返上で、いつもどこかに飛び回っていたから、モーセのようなハードスケジュールの従兄弟と会う機会など、かなり念入りに作らなければそんなチャンスなどは生まれてこない。

けれど、不思議な話だと思う。まず、ハナが何故こうもモーセに興味を抱くのだろうか。サビーンは不思議でしかたがない。ハナは肉親の情に薄く、自分の手にした大切なものはいつしかハナからいなくなってしまう。そんな風に思っているフシがある。サビーンにだって、そうだった。日本にいたときは、年の離れた姉として、ハナは心からサビーンを愛してくれて懐いてくれた。サビーンだってハナを愛し慈しんだ。けれど、サビーンの留学期間が終わりを告げたとき、ハナの悲しみは大きかった。大きかったけれど、彼女は、泣き言ひとつ言わず、ただ黙って悲しげに俯いて、サビーンの背中をギュッとギュッと抱きしめた。長い間ずっとずっと抱きしめていた。顔をあげたハナの瞳は濡れそぼり、だが、涙を流すことはなかった。おそらくサビーンの胸に顔をうずめていたときに、すすり泣いていたのかもしれない。ハナは、愛しいものとの別れをよく知っているのだ。だから、あまり追い求めない、執着することを知らない、いや、しないのだ。それなのに、、、、

そしてサビーンのもうひとつの疑問。モーセだ。確かにサビーンとモーセはいとこ同士でも、年に数えるくらいしか会うことはないのだが、それは二人が同じ屋根の下で暮していないからだ。お互い別々の場所で生きていて、別々の人やモノと生きている。だからこそ滅多に会う機会などない。けれどどんなに忙しかったとしても、モーセは屋敷を拠点に動いていたはず。それなのに、ハナがここに居ついてからは、滅多に戻ることがなくなったと、タマール夫人が、先ほど心配げにサビーンにこぼしていたのだ。

我が従兄弟殿は、客人が気に入らなければ、たたき出すことはあっても、自分から出て行くことは絶対にしない男、、

そう思うと、サビーンは、モーセの不可解な行動に何か意味を求めてしまうのだ。



*****

「ラビ、モーセはどこに行けば会える?」
<サビーンさま、おそらく、今夜はパレスの内輪のレセプションへ。王子の歓迎会でございます。>
「ああ、あの放蕩息子がアメリカから帰ってきたっていう”ウチワのお食事会” ね。そういえばわたしにも招待状が届いていたわ。」

受話器越しで、ラビが困った笑いをしているのが聞こえた。サビーンはわざと”ウチワの”と強調したが、実際には、ソコソコ盛大なものが予想される。ナイーフ王子はペルーシア王直系の血を受け継ぐ、一番末の息子で、王が一番可愛がっている子供だ。ペルーシア王には、后との間に4人の息子をもうけていたが、= 側めたちの子供は別の話となるが= ナイーフ王子にいたっては王位継承権から一番遠い場所にいるため、昔から何のプレッシャーもなく、王家では可愛がられてきた。嫡男と次男については、王としての必要な知識を詰め込むために、幼いときからその王としての資質を育てる為教育が徹底的にほどこされている。甲斐あって、嫡男が現在、王位に最も近い所にいる。3男は、現在ヨーロッパのどこかで暮しており、=安全保持のため国名は公に明かされていない= IT産業の事業を起こしている。そして、4男、俗に言う末っ子は、生まれたときから何のしがらみもなく自由気ままに育っており、ペルーシア王朝の血を受け継ぐ者としては変り種、現在27歳。アメリカで東洋史の研究に明け暮れていたのだが、王からの帰国命令により、晴れて王国への帰途についた。そのウェルカムホームパーティを開催するため、ごく親しいモノ達が集まる内輪だけのパーティが開催される。内輪だけといってもおそらく招待客はざっと100人は下らないに違いない。

<シークでしたら、今夜はそこでお会いになれますよ?>
「パーティって、18時くらいからだったかしら?」
<ええ、レセプションパーティですから、今夕は早々にお開きになるのでは?>

サビーンはどうも王族が集まるところに顔を出すのが気乗りがしない。その上、あの狸のリドリー大臣だって来るに決まっているのだから。

「じゃ、ラビ、あなたでいいわ。質問に答えて?」
<わたしでお役にたてるなら。>
「ねえ、モーセ、何故最近屋敷に戻ってこないの?」

一瞬、受話器の向こうで固唾を飲む音がする。

<お戻りにならないのは、いつものことではありませんか?>

ラビの声音はさりげなさを装っていた。

「そうね、でも、こんなに長い間屋敷を不在にするなんて、、、女でも出来た?」

モーセに限って絶対にそれはないのだが、サビーンはあまりに電話では読めないラビの心理に揺さぶりをかけた。ところが予想に反してラビは答える。

<出来たのかどうか、存じませんが、おっしゃるとおり、シークは女性とご一緒でいらっしゃいます。>
[えっ?」
<恐らく、ハナさんの手前、その女性を屋敷にお連れするのが憚られているのかもしれませんが、、、>

今度はサビーンが絶句する番だった。好きな女が出来たのだろうか、、、色々な思考が頭を巡る。だいたい、モーセは女が出来ても大概長続きはしない。どんなにベッドで相性がいいとしても、せいぜい1ヶ月だ。発展性のない肉体関係だけなら1ヶ月のサイクルで女を変えていく。でないと女たちがバカらしい勘違いをして少しばかり厄介になるからだ。なので無駄な時間は使わない。何故なら彼はシークであり、己の血を残す義務がある。自分の息子を産む女は、シークが遊び半分でつき合う女ではなく、由緒正しいシークに相応しい妻でなくてはならない。

「どこの部族の娘?」

単刀直入にサビーンは尋ねる。それは、部族同士の和平のための政略結婚だ。

<いえ、、、そういう方ではありません。>

とすると、未来のシークの母としての女ではないわけだ。つまり、結婚相手ではない。

「じゃ、、また、、遊び?」

心の声がそのまま漏れた。とても不可解なように思えた。だいたいモーセがずっと女と部屋に入り浸りになるなんて、、今までにはなかった話だ。それとも、そろそろ別れる頃なのだろうか?

<サビーンさま、わたしの口からは何とも申し上げられません。それを確かめるためにも、今夜ご出席されたらいかがですか?>

確かにラビの言う事は一理ある。興味をそそられた。ならば、こちらもモーセの度肝を抜いてやろう、ある考えが浮かび、サビーンは笑顔を浮かべて受話器を置いた。

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