シークの涙
18.
サビーンの揺ぎない =養女にする= その言葉。 彼女の顔は迷いがなく、強い決意が表れていた。モーセはすぐにサビーンの意図を理解した。サビーンとハナは17つ年が離れている。どちらかといえば姉と妹という感じだが、ハナがこのペルーシアで何も心配なく生きていけば、きっとハナの声は戻る、そう彼女は、医師として、また、ハナを愛する一人として信じているのだ。
「そうなれば、モーセ、あなたがそれを好むと好まざると、ハナは、わがモイーニ一族の一人になるわ。そしたら、あなただって、もう、知らぬ存ぜぬの問題じゃなくなるでしょう?」
サビーンがハナを思う気持ちに嘘はない。ハナの声を取り戻したいということだって、彼女の心の叫びだ。だが、養女にするというのは、いわば、モーセへの牽制であり、挑戦なのだ。彼は部族や一族のことになれば、どんなことをしても守ろうとする男。ハナをこちら側の人間にしてしまえば、モーセだって手を差し伸べざる終えない。この辺のことを計算しているあたりは、確かにサビーンはモーセの従姉妹だった
「なぜ、そこまで面倒を見る?」
サビーンの瞳がくゆる。
「それしか方法がないから。わたしはあなたに全力を注いでハナを守ってほしいから。」
沈黙があった。
「何故俺なんだ?会ったばかりの、、俺なんだ?」
ため息をつきながら、モーセの瞼が疲れたように瞑られた。
「それは、、わたしにもわからないの。けれど、ハナはあなたを信用してる。それは理屈でもなく、論理的でないかもしれないけど、、あの娘、何故か知らないけど、あなたに絶大な信頼を置いているのよ。」
サビーンにだって理由などわからない。ただ、ハナの体からひしひしとモーセへの強い信頼が伝わってくる。元々ハナは人見知りで、サビーンが初めて小杉家を訪れたとき、彼女は恥ずかしがって、なかなか近寄ろうとしなかった。それは大人になっても変わらないようで、ラビに対しての態度ひとつでもわかることだ。なのに、モーセには最初から彼女の心の扉は開かれていた。ありえないことだと、初めサビーンは思っていた。ラビならいざしらず、あのモーセに? モーセが立ちはだかれば、みんなが恐れ慄いて後ずさりをしようとする、あの男に?
「この1ヶ月のセッションで、わかったことは、ハナには愛情が必要だと言うことなの。彼女は、すみれさんが亡くなったときも、教授が亡くなったときも、悲しい、辛い感情を表に出していないわ。ハナの心の中で、どんどん、どんどん、泥水のようにそれがたまって、もう出口がないの。その泥水を全部吐き出させるしか方法がないの。」
それは、あの忌まわしい記憶と対峙するしかない。ハナの見た場面をひとつひとつ吐き出させ、辛かった、悲しかったと心の底から泣かせるしかない。それは辛い仕事だ。
「それから、、、たとえ、そのお腹の中の悲しいものをぶちまけるとしても、あるいは、泥水を飲み込んだまま抱え込んだまま生きるとしても、絶対にハナが愛情を感じて信頼を寄せれる人が手を差し伸べて待っていてあげなくては、、あの娘、、きっと、、壊れてしまうかもしれない、、、」
「な、、」
モーセは何か言おうとしたが、唇を固く結んだ。そのまま目を細めて、先ほどから黙りこくっているハナを見る。目があった。ハナは、ん?という顔をしてモーセにふわりと微笑んだ。今夜のハナは、男らしいカンフースーツと童顔のハナとのギャップで、益々たまらない愛らしさを漂わせていた。モーセはすぐに目をそらした。
「わかった。」
モーセは一言だけ。サビーンの顔いっぱいに満面の笑みが浮かんだ。
「えっ?本当?」
「約束は出来ない。だが、できる限り屋敷から通うことにする。」
結局、従姉妹に甘いモーセが最後は折れた。
「そうしてもらうとありがたい、恩に着るわ。出来れば、1日1回、ハナと話すようにしてくれると助かる。」
「フン、ヤブ医者の見立てでアテになるか、俺がコレと話したところで病状に変化などおきないであろう。たとえ悪化しても俺のせいにするな。」
この話はこれで打ち切りと言わんばかりに、モーセは、唇をぐっと結んだ。そして目を細めてチラリとハナを見た。
「おやおや、これはサビーン久しぶりだねえ?」
少ししゃがれた声がした。声の主は、小柄だが、眼光の鋭い70歳代くらいの老人だ。
「本当だね、こんな美人さんはもっと華やかな場所に顔をだして、わたしたち年よりの目の保養をさせてくれないとねえ?」
今度は別の声がする。もう一人の方は、先ほどの老人と同じ年代か、あるいはいくらか年若いか、けれどそれほどの年齢の差はないように思えた。こちらは、しゃがれた声の主とは対照的で、顔がのっぺりとして目が点のように小さく、何ともおっとりとした顔つきだった。
「ご無沙汰しております。リドリー財務大臣、そして”シーク”。」
サビーンは心の内を隠しながらにこやかに近づいてきた年配男二人に会釈した。しゃがれた声の主は、昔小杉教授の手術のお陰で命拾いした、あのリドリーで、当然、モーセとサビーンの祖父の永遠のライバル。もう片方の”シーク”と呼ばれたヒトの良さそうな男は、ダンマー部族の長で、アショカ・ツールだ。彼が束ねるダンマー族は王国では少数部族であるが、今まで大きな争いごとにも巻き込まれず平和な時を過ごしていた。それもリーダーのアショカが穏健派であり、モーセにもリドリーにも適度な距離を置いているからだ。
モーセはこのリドリーとアショカとは、レセプションの王族席で嫌というほど顔をあわせていたので、彼はさほど関心も見せず、挨拶もそこそこに輪から抜け出した。
<あ、、>
踵を返して離れていこうとするモーセに、ハナの顔に明らかに失望の色が浮かんだ。モーセとまだ一度だって言葉を交わしていない。いや、サビーンによる意訳を介しての先ほどのほんのわずかな会話だけ、、あれだけしかない。
「大丈夫よ、ハナ、今夜はモーセ戻ってくるし、これからずっと屋敷から会社に通うって。」
ハナの感情は手に取るようにわかり易い。サビーンが優しくささやけば、ぱあっとハナの顔が上気した。サビーンはじっとハナを観察しながら、こんなにも表情が豊かなのに、、、両親の死に関してだけは、ハナは扉を閉めてしまった。滅多に話題にすることはなくとも、彼女はこの件に関しては、あまり感情を表すことはなかった。
「おや、こちらのかわいらしいお嬢さんは?」
アショカ・ツールが顎を手でこすり首をかしげて、優しく覗き込んだ。隣にたっていたリドリーは別段興味があるわけでもなさそうだ。老眼鏡をくいっと上にあげ、ただその場の礼儀としてハナがしゃべるのをじっと待っていた。ハナは、目を大きくして、二人のシワのある顔を見つめていた。だが、急に、顔色を変えたと思った瞬間、口をあけて、、肩で息をし始めた。
<はあっ、はあっ、はあっ、>
サビーンがハナの異常にすぐさま気がついた。
「ハナ、ハナ、大丈夫、ほら、息を、して」
サビーンもよほどあせっているらしく、声がひときわ大きくなった。ハナの背中をさすりながら、呼吸させようと、『息を吸って、はいて』 と何度も繰り返し言う。それでもハナは目を見開いたまま、意識を崩しそうになる。先ほどの老人たちも驚いたように立ちつくす。
「ハナァァァァッ!」
サビーンの呼ぶ声に、まだ、近くにいたモーセが振り向いた。彼の目には、蠢く人々の間から、華奢な体がずるりと床に崩れ落ちる瞬間をしっかりととらえていた。考えるより早く体が動く。駆け出した。
「ハ、ハナ、、」
サビーンの悲痛な声が聞こえた。リドリーたちの間を割ってモーセが飛び込んでくる。床にハナが倒れていた。
「動かしてもいいのか?」
すでにハナの傍で脈を取っていたサビーンは頷いた。すぐさまモーセがハナを抱き上げ、一刻の猶予もないと言わんばかりに、出口へと急ぐ。その場にいた人々は、野次馬根性も手伝って固唾を飲んで見守る。モーセが先陣を切って、少女を抱き上げ助け出す場面など、早々お目にかかれるものではない。
ハナを確かに抱き上げているのに、モーセには何の重さも感じられなかった。ハナはまるで実体がないように思えた。ただ、ハナを抱いているというまぎれもない証は、モーセが抱いて歩くたびに彼女の黒髪がサラサラとゆれ、甘い香りが鼻を掠める。ズキン、と胸が痛んだ。
「車を回せ。」
サビーンに命令をしながら、モーセは大股で出口へ向かった。人々たちはザワザワとし始め、その群集にまぎれて、じっと瞳をこらしモーセの背中を凝視する女がいた。まぎれもない、今夜の舞姫、ジーナだった。
*****
/トントン/
書斎のドアが叩かれた。モーセは顔をあげた。時計が目に入る。夜中の12時を回ったところだ。返事を待たずにドアが開かれた。
「モーセ。」
従姉妹の尚早しきった顔を見て、モーセは静かにたずねた。
「どうした?ハナの様子は?」
倒れたハナを屋敷に連れ帰り、キビキビと召使に指示を出したのはモーセだった。医師でありながら、突然のことに動揺を隠せなかったサビーンは、少し呆然としていたからだ。
『お前がしっかりせず、どうする?』
モーセの叱咤にようやく、サビーンの頭が動き出した。すぐに処方箋を書いて、召使に薬を買いに行かせた。
<う、、ううううう>
ハナは意識を失ったまま、苦しげな声を出している。
『どういうことだ?』
『わからない、、突然、倒れたから、、、ただ、今、かなり精神的にダメージを受けている可能性があるから、、脈が早いようだし、、このまま安定剤を飲ませるわ。』
やっと落ち着きを取り戻したサビーンに安心したモーセは、何かあれば言え と声をかけて部屋を出て行った。
「大丈夫。今眠っているわ。」
サビーンは医師の顔を取り戻しモーセにお礼を言う。
「さっきはありがとう、、本当にだめね、、医者のくせに、、」
珍しく従姉妹の肩がしょんぼりしているようで、モーセは驚きながらも軽口を叩いた。
「俺はお前の患者にだけは絶対になりなくないな。サビーン。」
「あら、失礼ね!」
少しだけ元気を取り戻したサビーンにモーセの唇の端が少しだけ上がった。
「それで、何かアイツに関して心配ごとでもあるのか?」
「、、、、」
モーセはサビーンの様子を敏感に察し目を細めた。
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