シークの涙

22.

結局ハナが誘惑に勝てるわけもなかった。単純なゲームだったが、ラビの話術の面白さに拍車がかかり、実に楽しい時間が過ぎていく。

例えば、ラビが負ければ、こんな風に話をしてくれた。

「シークは黒が好きだと思われていますが、実は黄色が好きなんですよ。」

とか、

「彼は子供の時にヤギを飼っていたことがあるんですが、そのヤギをある日、新人のシェフが料理に使ってしまい、幼きシークの悲しみは深かったと、、それ以来彼は絶対にヤギは口にされません。」

そこに、さまざまなエピソードが添えられ、話が広がっていく。ほんの些細なことだけれど、モーセの隠れていた部分が見えてきて、とても興味深かった。それに、中にはモーセの子供時代の話もあって、おそらくラビがサビーンから仕入れた受け売りらしいのだ。いずれにしても子供時代のモーセを知ることができるのも、ハナには嬉しい事だった。

片や、ハナは自分が負けると、サラサラと実に早く文字をスケッチブックに書き始める。時には身振りを交え、ラビと会話が続けられていった。

【ラクレット好き。初めて食べたけど、びっくりした。21年生きてきて、まだまだ知らない食べ物があるなんて、、、】

ラビからすれば、まだまだたった21年間の人生だと思ってしまい、ついからかいの言葉が出てしまう。

「おやおや、ペルーシアにはもっともっと独自な食べ物がありますよ?もしあなたが1年ここにいれば、それだけであなたの21年間かけても知らなかったたくさんの食べ物が口にできるかもしれませんね?」

などとラビに言われ、ハナの瞳がマスマス光り輝く。本当に好奇心旺盛な塊だ。

【サビーンに初めて会ったとき、まるで絵本から出てきたような美しい人で、恥ずかしくてずっとしゃべれなかった。】

ハナとラビは色々な話をする。ラビは良い兆候だと思った。少しずつ少しずつ、ハナは無意識のうちに、話が過去とリンクしていたり、心の闇にアクセスしたりしていっているのだ。

【犬が好き。大きな犬が飼いたい。だけど飼ったことはないの。猫より犬の方が飼いたい。】

おそらくハナのことだ。大きな犬ならばきっと犬種などにはこだわらないだろう。ラビは考えた。ちょっとばかりイジワルな質問をしてみようか。どうもハナには嗜虐心がくすぐられる。

「飼ったことがないのに、なぜ猫より犬の方が好きだなんて思うんですか?」

ラビの思惑とは別に、すぐにハナは迷うことなく文字にする。

【犬は言葉が通じるから、、、猫もきっと言葉がわかるんだろうけど、、あの子たち、わたしと会話してくれるほどヒマじゃない。犬のほうが辛抱強い。】

そんなバカな、犬や猫と会話できるわけがない、笑って一掃してしまえるほど、ラビは鈍感ではなかった。ハナの心の言葉が動物たちには理解できるかもしれない。ハナにはなぜかそんな風に思わせる何かがある。

「ならば、シークに頼んでみましょう。彼がいいと言えば、ここで飼ってみてはいかがですか?」

モーセなら首を縦に振るだろう。これだけの広大な庭だ、犬の一匹、いやあるいは数匹、今の所帯に増えたところで、何も変わりはしないだろう。その上、犬を飼う事は、ハナの精神面でもいい方に転ぶのではないか。突発的にわいた犬の話だったが、ラビは案外いいアイデアだと思った。だが、、

ハナは険しい顔で頭をブンブンと横に振った。その顔には悲しみが広がっているように見える。彼女は悲しげな顔をして、まるで一人言のように、両手の人差し指をチョンチョンとつけながらツイストさせる。

ラビはその仕草を見て、あることがフラッシュバックしてくる。



『いい?ラビも、モーセも、これだけは覚えておいて。こうやって、両方の人差し指をチョンとつけて、二つの指を逆方向にハナがツイストさせたら、具合が悪かったり、痛いってことなの。書くものがなかったりしたときに緊急用語として、この手話だけは覚えておいて!』

サビーンが真剣な顔で言っていたのが蘇った。


どこか痛むのだろうか、ラビは心配になって声をあげようとした。ハナはただ己に言い聞かせるように、同じ仕草でそれぞれの指をツイストさせている。胸の前で指が動く、手が動く、同じことを繰り返し、人指し指の先端をつけながら、くいくいとツイストさせていた。

ラビは、はっとする。

『シークに言って、飼ってもらいましょうか?』

それを聞いたハナの反応なのだとラビは思った。ちょっと、待てよ、心臓のあたりで指を動かしているということは、、、なんてことだ、、、ハナは胸が痛いのだと叫んでいるのだ。

<犬を飼うのは胸が痛い、、、辛い、、、>

<いつも自分が愛するモノは自分より先に行ってしまう。だから、犬は好きだけど、飼いたくない、、ほしくない、、、死んでしまったら心が痛いから、、、>

そうハナは叫んでいるのではないだろうか。ラビの胸がキリリと締め付けられた。ハナが哀れで仕方がなかった。

「ハナさん、、、」

ラビは優しい声で優しい笑顔で、ハナを見た。

「大丈夫ですよ。ハナさん。」

ハナの表情はまだ辛そうだった。

「ゲームとは別に、飛び切りの秘密、教えて差し上げましょう。このお屋敷、つまりシークが住んでるこの場所は、不思議な力が宿っているんです。ここで飼われた動物たちは、なぜか、みな長生きをします。いや、長寿なのです。世界各国からシークを尋ねてくるお客様達の中にはとても高価で珍しい動物を贈り物に持ってきてくださることもある。今まで、この屋敷で飼われていた動物たち、ワオキツネザル 19年、ウマ28年 ロバ20年 インドクジャク25年などなど、ね、長いでしょう?みんな長寿でした。アメリカミンク9年 ボタンインコ13年 それから、、ええと、、、あれは、、、確か、そうそう、トビウサギ、これは、18年も生きました。」

さすがにラビで、飼育されていた動物と生きた年数が口からスラスラと出てくる。次から次へ珍しい動物名の羅列に、ハナの顔つきが段々と柔らかくなっていった。

「サビーンさまのお話によれば 後にも先にも、短い生涯だったのは、客人に出されたヤギだけだそうです。ただ、そのヤギを食べられたお客様は皆さんその後、、お腹を壊されて、、幼いシークはヤギの怨念だと言い放ったそうです。」

<プーッ>

両手で口を隠しハナはおかしそうに笑った。そして何かを思ったのか、スケッチブックに書き始めた。

【動物たちにとっては幸せの場所なのに、何故今一匹も動物がいないの?】
「それはですね、、コホン。」

ラビは咳払いをした。

「動物たちが長生きをする、確かにいいことなんですが、みんなヨボヨボ、目が見えなくて物に良くぶつかったり、歩けなくなったり、、まあ、人間でいうところの老人ホームのようでして、、、そこである日シークがおっしゃったのです。

『我が屋敷は、動物最期の郷ではない!こんな老動物ばかり集めてどうするんだ?!』

そう、おっしゃったんですよ。」

<プーっ>

ハナは上半身をグラグラと前に揺らしながら、涙を流して笑っていた。

「それで最後の動物、最後はロバでしたけど、それが死んだあとはもうコリゴリだとおっしゃって、例え客人から動物を贈り物でいただいても、丁重にお断りするか、ナイヤリ動物園の方に寄付することにしたんです。」

ラビはチラリとハナを見て安心する。すっかり楽しそうな顔だ。ラビの胸にぽっと温かな灯りがともった。


テラスは、屋敷の中からでも見渡せた。南側の廊下にガラス張りの窓がズラリとあって、そこから庭の一望が眺められる。丁度モーセが帰宅したらしく、バタバタと使用人があわただしく動き始めている。元々モーセの仕事は社に出向かなくても携帯とインターネットさえあれば、どこでも仕事が出来る。あれ以来彼は夕食はハナと一緒に取る様に心がけているのか、夜8時までには帰宅する。ただ、今日は少しばかりいつもより早いようだ。モーセはテラスに何気なく目を走らせた。ラビが座って何やら楽しそうに笑っている。あんなラビは久しぶりだと思いながら、隣にいるハナを見る。

ハナはとても嬉しそうで、手を叩いて、笑っていた。声こそ聞こえてこないけれど、防音ガラスの向こうで繰り広げられている光景は、優しい柔らかで寛いだ雰囲気が手に取るようにわかる。モーセはもう一度だけハナを見る。

大きな目をくしゃりとさせて、無邪気に笑顔を向けていた。その笑顔は今ラビに向けられているのだ。

キシリ、、と何かモーセの中で音がした。だが、彼は聞こえない振りをして、そのままその場を去って書斎へと向かった。

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