シークの涙

23.

「ちょ、、ちょっと、こ、怖いんですけど、、これっていつものことですか?」
「こ、ここまで、、すごいのは、15年も働いているわたしも初めて、、」

新人教育を任されたベテランメイドのノウルは、声を潜め驚きを隠しつつささやいた。4歩離れたところで全体をチェックしているタマール夫人の眉が上がり険しい顔で睨みをきかせた。

「「、、、!!」」

メイドたちは肩を竦めて黙り込み、夕食の給仕に今夜だけは特に不手際がありませんように と、心の底から祈った。

暑い国にはありがちで、食事はだいたい1日4回くらい。朝が早いため、昼までの時間稼ぎとして、軽食を11時くらいにとったりする。昼は大概14時前後、それから、16時頃一息いれるためにお茶を楽しむ者もいれば、一気に仕事を片付けて帰宅する者などさまざまだ。だが、夕食は、大概、どの家庭も夜の8時前後で、特に客がいなければ、パンとスープ、サンドイッチなど、質素な軽食で済ませる家が多い。勿論、モーセの屋敷も例外ではない。初日、ハナを迎えた晩餐は豪華な皿で食卓が飾られたが、最近では、ハナも屋敷にとっての常人とみなされ、夕食は通常メニューに戻っている。但し、代々続くシークの食卓を任されるシェフだ。そこは凡人の家と同じというわけにはいかない。

フワフワのパンは焼き立てで、あったかく柔らかい感触がハナの口の中を刺激する。食卓にのぼるパンはいつも2種類以上あるが、定番は、カチカチ風の黒パンかフランスパン、もう一方は、ロールパンのような中の白い部分のフワフワしたもの。勿論どれも焼きたてが出される。ハナは、このフワフワパンが大好きで、一口ちぎって口の中に入れて咀嚼すれば、甘い香りがふああっと広がる。このときにたまらなく幸せな気持ちになるからだ。

今夜も大好きなフワフワパンを口にいれたものの、何だかいつもと違うモーセの様子に、不安げな顔を見せた。じっと、モーセを見つめる。だが、彼は一度たりともハナのほうを見ようとせず、目もあわせない。

食事中にハナがスケッチブックに書くことをモーセは嫌ったので、食事のときは、身振り手振り、それからタマール夫人の手を借りながら、モーセとの会話をハナは楽しむのだが、今夜は、その夫人も少し遠く離れたところから二人を見ている。空気を読んで決して近づいてはこなかった。

モーセといえば、終始だんまりを決め込んで、茶色の透明色のグラスばかりを口につける。おかわりのピッチも早く、酒の給仕係りだけが今夜特別な忙しさを見せていた。モーセは普段から口数は少ないのだが、それにしても今夜は特別といえるくらい、重苦しい空気が漂う。眉間にシワをよせ難しい顔をしている。その食卓の雰囲気が緊張に張り詰めていて、新人教育を任されたメイドでさえも、先ほどの言葉を吐くことになった。

ハナは昔から空気を読むのがうまい。特に声を置いてきてからは、観察力も研ぎ澄まされ、人の言葉に惑わされない状況判断が出来る。

モーセの不機嫌さの原因が自分にあるのではないかと、ハナはさまざまなことを頭に思い浮かべる。前に、モーセから怒られた事、やってはいけないと言われたことなどを思い出す。 翻訳の仕事で、今のところミスはしていない。ひとつ抱えている翻訳の期日は、来月早々だから大丈夫。

ほっと胸を撫で下ろす。となれば、、、何だろう。じっと考え込み始めた。翻訳の時もそうだが、ハナの集中力はすさまじいものがある。ひとつのことをやり始めたら、周りの音も、人も、モノも、何もかもが存在しないかのように、異次元の世界へ行ってしまうこともしばしばだった。今は必死で自分がやってしまった取り返しのつかないことを思い出そうと懸命だ。食べている手も止まり、目を伏せたまま、ハナは記憶を手繰り寄せていた。

「ラクレットを、、」

低い声に、驚いた。ハナは思わず顔をあげた。

「食べないのか?」

ハナの伏せられていた目がしっかりモーセの顔をとらえた。大きな瞳がころげ落ちそうなくらいマスマス目が見開いている。だがその黒い瞳は潤み始めていた。泣きたいわけではない。モーセがどうやら自分に怒っていなかったことに安堵して緊張の糸が切れたのだ。だがモーセは不機嫌さを募らせた。

「固くなるぞ。さっさと食べろ。」

ハナは、あわてて先ほど皿にのせたドロリとしたチーズをフォークですくった。自分の食べかけのフワフワのパンにそれをのせて、そのままガブリと食べる。やっぱり笑みがこぼれた。本当にラクレットが大好きだ、ハナは嬉しそうに咀嚼した。そして今度こそ満面の笑顔をモーセに向けた。

「うっ、、」

突然の攻撃にモーセは言葉を失った。ハナの笑顔は実に不意打ちだった。

「俺にも回せ。」

モーセは大きな手を差し出して、ハナがラクレットチーズ皿を回すのをじっと待っている。いつも冷静なはずなのに、何故かモーセは少しだけ落ち着かないように見えた。その上、身内の前でしか絶対に使わない『俺』という呼称が、今はハナの前でつい口から零れ落ちる、だが言ったことすら気づいてもいないようだ。

「今日はラビと何をしたのだ?」

ハナから皿を受け取り、優雅にチーズを自分の皿に盛りながら、モーセは彼女に尋ねた。ハナは、モーセを指して、そのあと自分の胸をポンポンとたたき、両手でマルを作り望遠鏡のように両目を包んだ。それは何となく『覗く』というニュアンスのようだ。

「俺の心、、を覗く?」

そこで、今夜初めて夫人が二人の座っているテーブルの傍に近寄り、少しだけハナの言葉を補足する。

「サイコロゲームをなさっていたようです。サイの目が小さければ、ご自分のことを何かお話になる。ただ、ラビが負けたときは、シークのお話をされていたようですよ?」
「何だ?ラビは自分のことをしゃべらず、俺のことをペラペラとしゃべっていたのか?」

不機嫌そうな声に、ハナはあわててラビのせいではないと言いたくて、自分を指差し、片手を片方の耳に添えた。

<わたしが聞きたかったのです。>
「ならば俺に直接聞けばいい。」
<え?!>
「何が聞きたいのだ?」

ハナは考え込んだあと、両腕で頭の上から円を描くようにぐるりと大きく回した。

<全部。>

クスリと笑った夫人が言う。

「ならば、お食事のあとで、シーク、あなたもサイコロゲームをなさいませ?ちょっとした気分転換におなりでしょう。」



******

眠るにはまだまだ早い。こんな座興もいいかもしれないとばかりに、モーセは知らずうちに楽しんでいた。酒のせいかもしれない。こんなに気持ちのいい酔いが訪れるのも久しぶりのことだ。

「ほら、またお前の負けだ。」

立て続けにずっと負け続けるハナに、モーセがニヤリと笑った。先ほどから、負け知らずのモーセで、ハナの顔が少し膨れているように見える。ハナはおもむろに、サイコロをとってじっと見つめている。

「わたしが、サイコロに細工でもしたと? 全く失礼千万なヤツだ。」

そんなことを言ってのけたモーセだが、ちっとも怒る気配が見えない。それどころか何だか楽しそうにも見えた。そこにいるのは、すでに、”俺”と”わたし”を使い分けるいつものモーセがいる。だが、良くみればわかることなのだが、その長い睫毛に覆われた茶色の瞳に、今夜は、面白がっているような色が見え隠れしていた。

【つまらない。モーセの話を聞くのが目的なのに、わたしばっかり負けている。】

不平をサラサラとしたためた。

「ハッハハハ、仕方あるまい、これがゲームというものだろう?」
【つまらない。もう辞めます!】
「む?」
【新しいゲームをしましょう。】

ハナはそう書いたあと、自分のスケッチブックを10枚の紙片になるように、器用に手で紙を破っていく。5枚の紙片をモーセに残りの5枚を自分の前に置いた。

<5枚のうち2枚だけに印をつけて残りの3枚は白紙です。それらを伏せて、相手に選ばせる。早く2つ印を探り当てた方が勝ち。負けた人は、相手から出される2つの質問に正直に答えること。>

何とゲームの主導権を握っているのはハナだった。こんな光景をラビや、部下達が見たら、いったい何と言うだろう。だがモーセは余裕を見せてハナの言う通りにしてやる。

「見るなよ?」

からかいながらハナをじっと睨みつけている。ハナはプンと唇をとがらせて、そっちこそと言わんばかりに、モーセに指を向けた。

/さらさらさら/

ハナはモーセに見られないように、紙を腕で覆いながら低い姿勢をとっている。頭が下を向いて、サラサラと黒い髪が流れ落ちる。モーセはしばらくそれに見とれたかのようにじっと柔らかな髪を見つめていた。

二人はどうやら印をつけおわり、5枚の紙片は自分たちの目の前に裏返しで伏せられた。ハナは往生際悪く、裏返しの紙をシャカシャカと混ぜて、何度も何度も紙の順番を変えている。

「さて、取るぞ。」

モーセの長い指先がツッとハナの前にある紙へ近づいてくる。人差し指を出して、右から2番目の紙の上にツンと置く。とても長くてしなやかな指だ。選んだ紙をスイッと脇に寄せた。同じように、もう1枚紙を選び、先ほど取った紙の横に置いた。そして、まだめくらずに、ハナの番だと促す。

「お前の番だ。」

ハナはむっとしながら、自分を指して、花の形を両手で作った。つまり、名前で呼べとそう指図している。

「フン、このゲームにお前が勝ったら、呼んでやろう。」

カラカイ半分にそんなことを言った。ハナの態度は21歳にしてはあどけなく、どうやらモーセの嗜虐心をくすぐる。ハナはキッと瞳を紙に向け、気持ちを集中させた。真ん中の紙をポンと押さえ、すっと、一枚、自分の側に引き寄せた。

「小さな手だ、、、」

モーセがつぶやいた。ハナは小首をかしげる。モーセは何事もなかったかのように先ほど自分が取ったカードを表に返そうとしたそのとき、ハナが自分の手をモーセの手の前に出した。小さいと言われた自分の手がどれほどのものか、比べたかったのかもしれない。白い可愛らしい手だった。何の苦労もしていない手のように思えるのに、、、モーセは思わず彼女の指先に軽くふれた。

/ピリッ/

電流が走った。

ハナの瞳が驚いて目を見張る。モーセも動かなかった。二人の指先が触れたまま、、、だがソレは一瞬のこと。

「ほら、邪魔だ。どかしなさい。」

ハナがあわてて手を引っ込めた。その空いた場所に、彼は、先ほど取った2枚の紙をツッと動かし、ゆっくりと表にしようとした。ハナはあわてた。彼女はまだ1枚しか紙を抜き取っていないからだ。

「余興には盛り上がりが必要だ。もし、わたしの取った、2枚が白紙なら、わたしの負けか、あるいは、引き分けの可能性がある。全てはお前の取ったカード次第になってくる。そして、もしわたしの選んだ2枚とも印付きならば、わたしの勝利は限りなく近くなるというもの、、、」

/パサリ/

2枚の紙を表に向けた。

<あっ。>

ハナの眉が上がって、すぐに悔しそうに眉根を寄せた。

「これは、これは、アッハハハハ」

大人気ないモーセの笑い声に余計ハナは悔しそうだ。モーセはその強運からか、2枚の紙両方に、ハナの書いた『花のマーク』がついていたからだ。

「さて、残りは、お前の取った紙。それが白紙ならば、2枚目を取らなくてもおのずとお前の負けは決まってくる。」

ハナは頬を膨らませながらキッとモーセを睨んだ。怒っているというよりも何ともひょうきんな顔つきになった。モーセは笑いをこらえ、彼女の最初の紙の行方を見守る。

<エイッ!>

<あっ、、、>

表に返された紙は、、、白紙だった。彼女は情けない顔で、モーセを見つめた。何とも哀れではないか。

「フン、負けだな。さて、わたしの質問に答えてもらおうか?」

モーセは無言で考える。どこまで踏み込んでいいものか、、ハナの両親のことを尋ねてもいいのだろうかと一瞬思案に暮れた。だが結局、ハナの過去に踏み込むことはできなかった。当たり障りのない質問2つを答えさせる。負けのこんだハナはずっと意気消沈だった。あまりにも素直な態度に、モーセの心が少しだけ譲歩する。

「じゃ、一つだけ答えてやろう。わたしに何が聞きたいのだ?」

ハナの瞳がパッと輝いた。スケッチブックにサラサラとしたためた文字に、モーセはじっと考え込んだ。

【心が痛いとき、モーセならどうするの?】

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