シークの涙
25.
モーセはここのところ、夕方には帰宅するようになっている。勿論、会社で仕事をする代わり、屋敷で仕事をしているわけで、モーセの仕事量は変わらない。ただし、なるべくハナとの夕食をとるように心がけていた。モーセが屋敷に着けば、ハナはいつもどこからともなく現れ、とても嬉しそうな顔で迎えてくれる。それがいつのまにか日課になっていた。ところが、今日は、タマール夫人の出迎えと、行きかう使用人に挨拶をされるものの、ハナの姿がどこにも見えなかった。モーセは屋敷に着いて、はたと思い出した。そうだ、今夜はハナはいないのだ。サビーンと映画に行っているはずなのだ。そう思い出して、一瞬、心に風が吹いたような気がしたが、あわてて彼はその隙間風を追い出して、何事もなく書斎へと消えていく。その後姿に、メイドたちの声が聞こえた。15年勤務しているベテランのノウルの声だ。
「いい?ここは、何度も拭く事。それから最近シークのお帰りが早いから、それまでに済ませておくこと。わかった?」
ノウルは少しばかりイライラを募らせた。本日付けで、メイドとして雇いいれたばかりの教育係を仰せつかった彼女は、先ほどから、あまり人の話を熱心に聞いていないこの新人に、怒鳴ってやりたい気持ちを抑えていた。最近何かと新人の面倒を見ることが多いのだが、この新人あまりにもひどい。新人とはいっても、当に30は超えている女を目の前に、今日何度目かのため息をノウルはついた。
「あなた、本当にやる気あるんですか?」
皮肉交じりにそうつぶやけば、新人の反抗的な目とぶつかった。
「シークは、いつも書斎にいるんですか?」
ノウルの叱咤などものともせず、新人はマイペースに自分の聞きたいことだけを問いただす。呆れてものがいえない。早々に、首にするべきだと、後でタマール夫人に、そう進言しようとノウルは考えていた。
「ええ、ハナ様が今日はいらっしゃいませんから、、シークは、多分お夕食までは書斎においででしょう。」
「ハナ様?」
ノウルは30を超えていると推察したが、顔に刻まれる皺の数や、肌の艶のなさから、この女はもっと年を取っているようにも見えた。
「ハナ様は、こちらに滞在なさっているシークのお客様です。くれぐれも無礼のないように。」
先輩らしくノウルは留意を促した。だが、この新人は、鼻で笑った。
「客人?フン。」
「ちょっと、あなた!」
ノウルは我慢が出来なくなり、この女に説教をしようと息を吸ったが、タマール夫人が傍を通りかかったのをいいことに、軽く会釈をして新人は逃げるようにその場を離れた。
「はああ。」
ノウルの果てしなく続くため息に、夫人の眉があがった。
「ノウル、ベテランのあなたがそんな気の抜けたことでどうするんですか?!」
夫人は、ノウルをかなり頼りにしている。先だっても、若い新人メイド教育に彼女を抜擢し、ノウルの手腕にはかなり満足していたのだが、、、
「タマール夫人、、、あの女、どなたかの紹介ですか?」
「え? な、何故?」
「いえ。少しばかり問題があるように思えますの。」
ノウルは正直に意見を述べた。夫人は少しばかり言いにくそうに口を開いた。
「実は、、肉屋のドン・アウマッドから使ってやってくれって、頭を下げられてしまって、、一応身辺を調べて、問題がないように思えたのだけれど、、、何かあった?」
「少しばかり反抗的のようで、、、」
「彼女ね、苦労人なのよ。里に、子供5人、置いてきているらしいわ。そのうちの一人はまだ乳飲み子で、とにかく子供たちのために働かないとって、、ご主人がいなくてどうやら一人で育てていかなくてはならないらしいの。だから何でもしますって必死に頭を下げていたんだけど、、」
「そうですか、、、」
ノウルは考え込んだ。ノウルは未亡人ではあったが、子供はいない。けれど、この国で女が一人でだって生きていくのは大変なことで、ましてや子供がいるとなれば、その苦労も偲ばれる。ノウルは幸いにして、このモーセの屋敷で雇用されてからずっとここが彼女の生きる場所となっていて、心から幸せだと思える。だが、、あの反抗的な新人を思い出した、、、そんな境遇だったのか、、ノウルは思わず同情を覚える。ならば、もう少し根気よく教えていこう、彼女は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「わかりました。夫人。彼女を何とか一人前のメイドに育ててみせましょう。」
そう胸を張って言ったノウルを タマール夫人は頼もしそうに頷いた。
*****
案の定モーセは書斎で軽食を済ませた。午後10時を先ほど回ったが、モーセはずっと書斎にこもりっきりだった。勿論ハナはまだ帰ってきていない。ハナにしてみれば、王国に来てから、あのパーティの夜を除いて、初めて屋敷以外で夕食を取っていることになる。楽しんでくればいい、誰もがそう思っていた。モーセは何となくいつもと違う屋敷の空気に違和感を感じているのだが。いても別段邪魔にはならないし、居たことにすら気がつかないことも多い。けれど、姿が見えないだけで、何とも物足りない空気が屋敷に流れ込む。不思議なものだ、、モーセは書類に目を落とし、疲れた目頭を長い指先で摘んだ。
/トントン/
時計を見れば、針は10時半近くを指している。一瞬ハナの顔が頭を掠めた。
「入れ。」
いつものような低い声で返事をする。だが、、、扉がすぐに開く音すらもしない。奇妙な事だと、モーセは顔をあげた。すると、恐々と扉が弱々しく開けられた。彼の視界に入ってきたものは、見慣れない女。いや、屋敷のメイド服をつけているのだから、おそらく使用人なのだろう。
「何だ?」
モーセは使用人を睨みつけた。彼が書斎にこもっているときに、誰かに邪魔されることなど、この屋敷では絶対にあり得ない事なのだ。勿論、最近では、ちょくちょくハナが書斎の扉を叩くことはあっても、、それは、彼の中で唯一の例外だった。
不機嫌そうな声音に、臆したのか、メイドは縮こまっていた。クリーニングから戻ってきたばかりのパリパリの制服を着ている見慣れないメイドに、モーセは雇われたばかりの新人なのかと、ジロリと睨みを利かせた。
「ヒッ」
メイドの肩がピクリとあがった。だが、彼女はそのまま、モーセに突進してきた。
「どうか、お助けくださいませ。」
メイドはモーセの足元にひれ伏した。モーセの体は微動だにともせず、椅子に腰掛けたまま、メイドのひれ伏す背中を不遜に見つめていた。
「どうか、どうかわたしどもにお救いの手をっ!」
靴を舐めているのかと思うくらい彼女の体は小さく折り曲げられモーセの足元から動かない。彼は、躊躇せず、人差し指でコールボタンを押した。
<はい、>
「セキュリティガードを。」
はっとして女は顔をあげた。泣いているのかと思えば、そういうわけではないが、顔中に皺が広がって苦しそうな表情を見せた。
「シーク、、、どうかご慈悲をっ」
女の懇願などに耳を貸すはずもない。すぐにかけつけたセキュリティーガードが女を両脇から抱えた。
「話ぐらい聞いてよおおっ」
まるで狂ったかのように叫び始めた。わめき狂う女を尻目に、モーセは何事もなかったかのように、平然と書類に目を落とす。
「ご迷惑をおかけしました。」
セキュリティガードがあわてた声でモーセに謝った。
「経緯についてすぐに知らせろ。」
短い言葉で、口調も抑揚すら感じられないが、低音の腹に響く声音には怒りが静かにこめられていた。怒鳴られるよりおそろしい、モーセの怖さを知っているセキュリティーガードの背筋にヒヤリと汗が流れた。
「はい。早急に。」
やっと言い残した男たちの手でドアがバタンと閉められた。安全であるはずの屋敷にこんな自体があっていいわけはないのだ。結果次第では、保安係のチーフの首も飛ぶだろう。
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