シークの涙

26.

ハナはサビーンと屋敷の玄関で別れた。サビーンは今夜は遅いからモーセには会わずに帰ると、ハナを玄関に入ったのを見届けてそのまま車を走らせていった。ハナは、屋敷の様子がおかしいことを敏感に察知する。あわただしい雰囲気と重苦しい空気が交錯している。いつもなら、真っ先にタマール夫人の顔が見えるのに、今夜は、あまり親しくないメイドに出迎えられた。彼女の心に不安な陰が落ちた。ハナはその正体を知るべくして、居間に足を進めていく。居間の中からは数人の人影が見えるのに、話し声ひとつなく、恐ろしいくらいの静寂がハナの耳をついてくる。


モーセは尊大に大きな革のソファに一人どさりと座っていた。長い足を組んで、美しいカーブを描いた曲線の唇を結んだままだ。時折、話を聞きながら、アーモンド型の目を細める。そこから彼の感情は何一つ読み取れない。

保安係の大柄の男たちと、もう一人、タマール夫人がモーセの事情聴取に応じていた。責任を人一倍感じているタマール夫人の表情は辛そうだった。

「では、夫人が全てを一任した結果、こうなったと?」

モーセは、ジロリと大柄の男たちを見つめ静かな声でそう告げた。保安係でありながら、一切の責任をタマール夫人に押し付けたような響きがあり、モーセは不快な顔をした。

「は、、はい。夫人がご自分で身元をお調べになるからと、、」
「それでも怠慢だな?仕事放棄とみなされても仕方あるまい。」

淡々とした口調で言われたセキュリティガードの男たちは、それでも、反論すべく口を開きかけた。だが、それより早く凜とした口調でタマール夫人が話し始めた。

「シーク、あのメイドを雇ったのはわたしの一存です。ご迷惑おかけした責任はきっちり、とらさせていただきます。」

凜とした声だった。そしてタマール夫人は背筋を伸ばしモーセを見る。その瞳にはいつものような慈愛の色は姿を消し、強い意志がそこにしっかりと表れていた。モーセの瞳が一瞬動いた。

「ただ、わたしがこの屋敷を辞す前に、どうかあの者と話をさせて下さい。なぜこのようなことに及び、誰の差し金なのか。今後このようなことを防止するための、屋敷の安全を守る使用人の戒めとなりましょう。」

モーセは苦々しい顔で夫人を見つめていた。

「あの女を呼べ。」

一言、保安係に合図を送った。数秒と置かず、女が男たちに抱えられ、ひきずられるように居間へ入ってきた。髪は振り乱れ、暴れたのか、メイドの制服はだらしなくシワが寄っている。夫人は嫌悪するように女に一瞥を送った。女も疲れきった顔に悔しさを漂わせ、タマール夫人を睨む。

「わたしの質問にだけ答えなさい。」

夫人の声は穏やかで、けれど、凜とした声だった。だが女は狂ったように罵声を浴びせた。

「うるせえ、黙れ、黙れ、ばばあ!アンタはすっこんでろっ!あたしは、ただシークにっ!」
/バチン/

女の頬が赤く腫れていく。タマール夫人の手が震えていた。夫人自身も手がジンジン痛むのか、指を力いっぱい丸め拳を握った。

「質問に答えないのならば、話は終わりです。」

タマール夫人と女がにらみ合っていた。長い沈黙が流れ、やがて女はうなだれた。それを機に再び夫人が問いただした。

「ここまでの経緯を話しなさい。あなたがどうやって肉屋のアウマッドにとりいったのか?それとも彼も一味なのかどうか、、」

夫人が解せないのは、ドン・アウマッドの店とは、先代、先々代のシークからの馴染みであり、彼が到底モーセを裏切るとは思えなかった。だからこそ、ドン・アウマッドが、この女の身元を保証し夫人に頭を下げたからこそ、タマール夫人は軽い身辺調査だけで、女を雇い入れたのだ。

「フン!あのじじぃ、色ボケさ。ちょっとあたしが色目使ったら、、イチコロさ。泣きながらあたしの身の上話を聞いてくれたさ。」
「書類に記載されていた、子供達の話は嘘だったのですか?」

この言葉に女が初めて反応した。キッとまなじりをあげた。

「嘘なんかじゃない。あたしは、アノ子達のために、、嘘なんかじゃない!」
「じゃ、あなたのこの屋敷に入った目的は何ですか?」

女は今度こそ恐れを知らないようにモーセの顔を見た。

「シークの愛人にしてもらうためさ!」

「な、、」

夫人は驚いた顔をした。モーセはといえば、全く意に介さない表情だ。彼にとってそんな話は日常茶飯事なのかもしれない。

「あたしのバカ夫は、カシュールだよ。バカでどうしようもない役立たずだから死刑にでも何でもなるがいいさ。」

この言葉で初めてモーセの顔に驚きの色が映った。

「カサムにいた、カシュールか?」

低い声の唸りに、女は震えが走ったのかブルリとして、頷いた。

「あ、あれはあたしの夫です。」
「なるほど。」

モーセは腕組みをしながら目を細めた。

「フン、夫の命乞いにでもしに来たか?」

タマール夫人や保安係の男たちには、いったい何のことやらわからない。だが、モーセは女の意図の裏に黒幕がいるのではなく、どうやら個人的な企みなのだろうと考えていた。カシュールとは、先ほど会社でラビに報告された案件の男だった。このところ、少女を拉致し監禁、集団レイプ事件やまた富豪などに売り飛ばす事件が王国の地方で多発しており、社会問題となっている。このままでいけば先進国から非難を浴び、やがては観光収入にも莫大な被害が出てくる。懸念した中でモーセたちが入手した情報には、レイプを繰り返し行う組織の手引き者に、トリパティ部族の者がいるということだった。部族を守ることはモーセの役目であるが、部族の掟を守れない者に制裁を加えることも大切な役割だ。モーセは、いかなる事情があるにせよ、トリパティ 一族 いちぞく の血を継いだ者たちが掟を破ることを、絶対に許さない。カシュールには絞首刑が待っている。裁判をすることも許さなかった。彼の罪は明白だからだ。ただ、カシュールの持っている情報を吐き出させること、また、念には念をいれるため、シュリという司法機関で取調べを受けさせ、あとは安らかな眠りのための懺悔を卿に説いてもらうだけだ。今、目の前にいる女は、そのカシュールの妻だという。

「いいえ、あんなバカな夫の命乞いなんて誰がっ?!でもどうか、残された家族には、シークのご慈悲を、、、そうでなければ、里においてきた子供ともどもあたしたちに死ねと言われてるのと一緒っ!」

「ならば、自分で家族を守る道を考えるのだな。母親なのだから。」

モーセの声音は冷たく感情ひとつこもらない。

「お願い致します。ご慈悲を、、シークのためにならこの身を捧げ一生ご奉公いたします。あなたさまのお寝床をこの身を持って暖めさせていただきます。」

女は懇願しながらも、瞳には、己が女であるという妖艶な光りを放つ。肉屋のドン・アウマードはそんな安っぽい色気で落とすことが出来たとしても、モーセには通じるはずもない。

「ヘドが出る。連れて行け。」

男たちに命令を下すモーセは顔色ひとつ変えなかった。再び拘束された体に女が取り乱す。

「後生ですからシーク、、、後生です。」

わめきたてる女の視界に、呆然と一部始終を見ていたハナが目に入ってきた。ハナは誰にも気づかれず事の次第を居間の後ろ側でそっと見ていた。全てはペルーシア語で話されていたとしても、緊迫した空気はハナにもヒシヒシと伝わっている。そして今まで見たことのないような冷たいモーセの顔にショックを受けた。言葉がわからないハナにも女が何かを必死に訴え懇願していることはわかった。なのに、モーセは、まるで何事もないような顔で、女を見ていた。彼の瞳には蔑みの色が浮かんでいる。ハナがもし彼にそんな目で見られたら、、ワケもなく体がブルリと震えた。

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