シークの涙

27.

女は何を思ったのか、ハナを見た瞬間に、少しだけ息を吹き返した。

「成熟女がお嫌なら、娘を、どうか今年13になる娘を可愛がってください。シークのお好みがあそこにいる東洋の幼い女なら、それよりももっと若いわたしの娘を可愛がってくださいませ。あなたのお好きなように娘を教育してくださいませ。きっとあの女よりも、もっともっとあなたさまを満足させることでしょう。」

女はハナの顔を睨んだ。言葉がわからないハナでも、どうやら自分のことを言われているのかとハナは驚いて身動きひとつ出来なかった。確かに庇護欲をそそる女だと思い、モーセの好みが少女ならば、助かる道はまだあると女は信じる。モーセは女がハナを指差した瞬間だけ、険しい顔になったが、それも一瞬で、また無表情な顔でじっと女を凝視をしていた。

「この幼い娘は確かにあなたさまには物珍しいかもしれないけれど、きっと、あたしの娘も気に入っていただけることでしょう。」

怖いほどモーセに凝視され、それでも女は最後のチャンスとばかりに必死に言葉を繋ぐ。女は生きる活路を見出したかのように、嬉々とした声で叫んだ。何としてでも、この東洋の女を蹴落として、自分の娘をシークの女に据えなければ、、、

「お前は、実の娘をわたしに差し出すと言うのか?」

モーセの低い声が響いた。冷たい声だった。

「え、ええ。あなたさまのために、娘は処女を捧げることを心から喜ぶことでしょう。」

彼女はモーセに娘の無垢さを訴えた。今の話で彼はきっと心を揺り動かされたはずだ。自分の夫が部族の制裁を受けた場合、残された家族は罪人とみなされ、皆殺しにされるかもしれない。いや、暴行され慰み者にされ、ホウボウに売られ、身も心もボロボロにされてしまうだろう。そんな惨めな人生が待っているのならば、モーセの慈悲にすがるしかない。ペルーシアの権力者は、いつだって好色家が多い。

「お前はどこの部族だ?」
「は、はい?」

突然のモーセの問いに女は面食らった。

「あ、、わたしはクライとダンマー族の混血でございます、、そ、それが何か?」

クライ族も東部地方を拠点としていたし、アショカツール率いるダンマー族も地方に点在していた。つまり、この女は、トリパティ一族(いちぞく)のしきたりをわかっていないのだ。モーセの祖父も代々、掟を破ったものには死をもって償わせることはさせるが、その家族については無罪放免としていた。だが、地方を拠点とする他部族などは、未だ昔ながらのシキタリから、罪人の家族も罪を犯した者とみなされ冷酷な仕打ちが待っていた。女たちは、男たちの慰み者になったまま、他国に売られたり、強制労働が待ち受けていたりする。だが、富豪に目をかけられれば、愛人として召し上げられ、とりあえず生活が保障されることもあった。だからこそ、この女はモーセに近づいて取り入ろうとしているのだった。

「もうよい。連れて行け。」

時間の無駄だと言わんばかりに男たちに言い放った。途中まで上手くいっていたはずなのにと、女は突然のモーセの心変わりに驚愕する。あの東洋の女が何か合図を送ったのだろうか?男たちに取り押さえられ、部屋から引きずり出されるとき、ハナのすぐ横を通る。女はすごい形相をして、ハナにツバを吐いた。

/ペッ/

ハナの柔らかな頬に、汚物が飛んだ。

<あっ>

だがハナがそれに気づくより早く、モーセが唸った。大股で女に近づき、腕をひねり上げた。

「わたしをこれ以上怒らせるなっ!」
「イッつつつ」

女の顔があまりの痛さで歪んだ。モーセは本当に激高しているらしく、力を緩めようとしなかった。みるみるうちに女の顔面が蒼白になり、息もたえだえとなっていく。

/ザッ/

モーセの腕に温かな感触が伝わる。ハナがあわててモーセの腕を掴んでいた。

「む?」

ハナは必死になって首を横に振った。

<だ、だめ。モーセ。>

瞳はそんな風に言っているようだ。黒い瞳が潤むようにモーセを真剣に見つめている。途端、彼の力が緩んだのか、女の顔に血の気が戻った。そのまま脱力したまま、もう女は何の抵抗も見せず、男たちに連行されていった。

「ハナ。」

モーセは、ハナの汚れた頬を布地で拭いてやる。子供のようにハナはいやいやをした。

「動くな。」

彼は親指で、ツッとハナの頬に触れた。弾力があるのに、とても柔らかくて温かな肌触りだった。大切なものを汚されたようで怒りが込み上げてくる。

「消毒だ。」

親指の腹でつうっと何度もそこを撫でてやる。大きな瞳にじっと見つめられ、バツが悪かったのかモーセは誤魔化すようにタマール夫人のほうを見た。

「さて、夫人、あの女との話は終わったようだが、、」

突然モーセが英語で話しかけた。

「はい。早々に荷物をまとめます。ただ、仕事の支障が出ないように、ノウルとアブルにだけは引継ぎをさせてくだ、、、」

/ダッ/

「えっ?」

ハナが夫人の腰に抱きついた。ギュッと抱きしめたまま、動かなかった。

「は、ハナさん、、」

ハナはそのままイヤイヤをしながら夫人から離れようともしない。夫人の胸に熱いものが込み上げた。たかだか何ヶ月かの付き合いだというのに、二人の間に流れている絆は、時間の短さなんかに邪魔されない。夫人もまた、ギュッとハナを抱きしめ返す。

「ハナさん、、ありがとう。」

タマール夫人の声は穏やかで、優しかった。ハナの体がピクリと動いた。執着をしないハナが、もう絶対に失いたくないという気持ちがあふれ出ているようで、その愛情は今一身に夫人に注がれていた。モーセの胸がグシャリと握り潰される。先ほどの頬の温かくて柔らかい感覚が蘇った。

「離れなさい。」

腹に響く声に、ハナは顔もあげずにイヤイヤとする。モーセは自分が拒否されたようで、ワケのわからない怒りが込み上げた。深く息を吸って自分を落ち着かせる。

「タマール夫人、、あなたが祖父の時代からずっとこの屋敷に仕えてくれて、その間、どんな失敗やあやまちをしたのか、俺は知らない。けれど、俺がシークになってから今日までの間、一度たりとも過ちを犯したことはないと記憶する。」

モーセは何が言いたいのだろうか?そんな風にタマール夫人はモーセを見つめた。

「次はないと思ってください。」
「え?」

もう一度、繰り返した。

「次はないと。」
「それは、、、許していただけるという?」

タマール夫人も流暢な英語で繰り返す。ハナはそろりと顔をあげた。モーセの瞳とぶつかった。だが彼の瞳はすぐに逃げて行く。

「下らん失敗や愚かな間違いをするやつは、この先もずっと繰り返す。だが、一つの過ちで多くのことを学ぶ者は、その過ちによって遥かに進化する。きっと今以上の力で、俺を助けてくれるだろう。あなたはそんな人だ。タマール夫人。」

「あっ、、、」

夫人の肩が震える。瞳がクシャリとなってきらきらと零れ落ちる涙、、、

/ドン/
「うっ、、」

モーセに衝撃が走った。温かくて柔らかいもの、、見ると、ハナがモーセの体を思いっきり抱きしめていた。モーセの腰にまわされた彼女の腕や、手や、指の温もりを感じた。

「な、、なんだ?」

ハナはモーセを抱きしめたまま、彼の顔を見上げた。黒い瞳が濡れている。キラキラと輝いている。それは悲しみの色ではない。嬉しさと喜びと、、、何のくもりもなくまっすぐにじっと見つめている。モーセの視線とからまった。

/ドキリ/

二人の体がぴったりとくっついて、果たしてどちらの鼓動の音だっただろうか。だが、鼓動に惑わされないようにモーセは言葉を継いだ。

「フン、お前が何を言おうとわたしには関係ない。たかだか数ヶ月しかいないお前の感情と、長い間夫人を見てきたわたしでは、、」

ハナはクスリと笑った。

「な、なんだ、、?」

そして手をそっと伸ばし、タマール夫人の腕を握り引っ張った。突然のことで夫人の体がバランスを崩し、モーセのたくましい体によろける。モーセはあわてて手を出して夫人の肩を抱く。すると、どうだろう。まるで3人が抱き合っているようになった。ぬくもりが優しく3人を覆っていく。

ハナは自分の唇に人差し指をつけて、モーセにしゃべるな、と意見する。むっとする。こんな小娘に命令されて、、、だが、あまりの温かさと柔らかな心地よさに、珍しくモーセはどうでも良くなった気がした。長い睫毛を伏せて、仕方なく二人を抱きしめている。


「あなたは昔から俺の宝ですよ。」


夫人にささやいたモーセの言葉。

「モシート坊ちゃま、、」

夫人は堪えきれず嗚咽をもらす。モーセは夫人の背中を優しくさすった。英語でそっとささやかれた言葉をハナは噛みしめる。誰かの宝になれる存在、、なんて素敵な響きなのだろう。


「俺の宝、、」


モーセはもう一度繰り返して、二人を抱きしめる腕にさらに力を込めた。

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