シークの涙

28.

翌朝、屋敷の中はいつもどおりで、全くいつもと変わらない風景。タマール夫人も、メイドたちも、料理人も、保安係も、まったく変わらない、いつもと同じ朝。その中で、ハナは一人朝食を取りながら、モーセがすでに出社してしまったことを感じていた。本当は昨夜のことを聞きたかった。どうしても聞きたいことがある。彼女はどうなったのだろう、、保安係に連れ去られて行った女の顔を思い出した。ハナのことを憎んでいるような風さえあって、ハナは何故自分がツバをかけられたりしたのかわからない。ただ、モーセが心底怒っていたのだけはわかった。モーセの怒りは女を殺すくらいの迫力で、本当にそれをしやしないか、ハナは心配だったけれど、だからといって、モーセが怒りを漲らせていることは不思議と怖くはなかった。あれから、みんな何も言わず、部屋へ引き上げて行ったし、モーセにいたっては、いつものような不遜な態度で、『もう遅い、寝ろ。』と、だけハナに言い残し部屋を出て行った。

今ハナは翻訳中の資料を抱えている。モーセに命じられている翻訳の期限にはあと3日ある。だが無理をすれば午前中には終わるだろうと算段をつける。ならば、仕上げてしまい、会社に持っていこう、そう心に決めた。

あの女はどうなったのだろう、、、それが聞きたいから、だから会社に行く口実を作るのか。いや違う、、、本当は、、、ただ、モーセに無性に会いたいだけなのかもしれない。信念を貫く強さを持ち、威光を放ち、人々を圧倒する、生まれながらのシーク。だが、彼の羽を休める場所はいったいどこにあるのだろうか。彼はいつだって孤高を保つ孤独な男なのだ。



******

ラビがあわてたようにロビーに姿を現した。

「ハナさん、おっしゃっていただければ取りに伺いましたのに、、、」

どうやら、急いで降りてきたようで、ラビは珍しく息をはずませていた。彼の髪が少しだけ乱れていた。いつもはきちんと分けてある前髪がハラリと額に張り付いている。ハナは彼の前髪を指差したのだが、ラビにはハナの意図するところがわからなかったようだ。彼女はおそるおそる手を差し出して、ラビの数本だけ長い前髪を後ろに押しやった。

「えっ?」

ハナの頼りなげな指先がラビの額を掠める。ラビにしては珍しく驚いた顔が表情にでる。

「ああ、これは失礼。」

落ち着きを取り戻すようにラビは自分でも前髪をかきあげて、ハナに、にこりと微笑んだ。

「これでオメガネに叶いますか?」

柔らかなラビの笑みに、ハナもほっこりと笑顔を返した。ラビの胸がキュンと締め付けられる。こんなところまで妹にそっくりなのだ。まだあどけなさの残る妹の人生は、すでに幕を閉じてしまったけれど、、、

ハナはサラサラと紙に文字を書いて、今日来た用件を伝える。

【モーセに会えますか?】
「と、言いますと?」

ラビは忠実なモーセの秘書だ。もしハナが正直に用件を伝えたとしても、きっとやんわりと話を逸らされ、モーセに会わせてもらえないだろう。だからハナは頭をめぐらす。実際、朝、タマール夫人に嘘をつくのは、ハナにとってはとても辛かった。



【出来上がった翻訳をモーセに届けたいの。】
『あらあら、では、社の人間に取りにきてもらいましょう?』

案の上夫人に言われ、あらかじめ考えてたことを文字にしたためる。

【実は、直接モーセに翻訳のことで至急聞きたいことと、、それから、モーセの社長室を見たいのです。東洋の文化で、風水というのがあります。これは災いを避けるために、部屋に魔よけを置いたりします。でもそのためには、モーセの部屋の様子を知りたいのです。】

タマール夫人は何も言わなかったが、おそらく昨夜のことで、ハナがモーセを案じているのだろうと思った。つまり、あんな女が屋敷に入り込んで事件を起したのも、そもそもモーセの仕事部屋が、その風水とやらの観点から見て何か問題があると、そうハナは思ったに違いない。夫人はハナの懸念をそう理解した。タマール夫人は、別段占いのたぐいの信望者ではなかったけれど、心優しい純粋なハナの気持ちを無碍にはできなかった。やっぱりどうしてもハナには甘くなってしまう夫人である。そんな夫人の厚意により、ハナは何の問題もなく、運転手のサファール付きで、モーセの会社を訪れているわけなのである。そして今度は、ラビという、夫人よりも一段と難航する山が聳え立つ。




「申し訳ありませんが、、例えハナさんでも、シークはお会いにならないと思います。アポがないと、基本彼は誰ともお会いになりません。」

この答えは想定内であった。ハナは、ニッコリ笑って、ロビーにおいてあるソファーにしては、あまりに贅沢な高価そうな大きな革張りのソファーにふかっと座った。

【それでは、ここでずっと待っています。】
「えっ?」

<ご迷惑はおかけしません。>

そんな風に言うようにハナは頭をペコリと下げた。ラビの顔に動揺が表れた。このやり取りを見ていた、受付嬢などは、驚いた顔を隠しはしない。ラビの見てくれの良さや、人当たりのソツのなさから、社のOLたちからはかなりの人気を独占している。彼は女と噂されることはあっても、今まで本気になったことはなかったし、上手に距離を置いてつきあっている。会社でも笑顔を浮かべ、その甘く優しい態度で人と接しても、実際のところ彼が何を考えているのかわからずとらえどころがない。何故なら、笑顔以外の表情は見せないからだ。ピンチのとき、トラブルのとき、怒りを募らせるような場面でさえ、彼は表情を変えることがなく、淡々と問題ごとを処理をしてきた。それなのに、、、今、、、あの少女の前で、ラビの顔に明らかに困惑の表情が浮かんでいる。

「ハナさん、、今日はひとまずお帰りになってはいかがでしょうか? わたしからあとでシークに面談を申し込んでおきましょう。もう少し遅い時間、夕方とかに又おいでいただくというのでは、だめでしょうか?あるいは、お屋敷でお会いになるのは?」

ラビの得意技で、やんわりと言葉を包み、けれど、そうせざる終えないように相手を攻めていこうとする。つまりは時間稼ぎだ。どうせモーセは頑なに面会を拒絶するに違いないのだから、だったら、ここで待つというハナの時間の無駄を省いてやりたかった。だが、ハナには通じない。ハナは頭をブンブン振った。振りすぎて、サラサラと黒髪が顔にまとわりつく。細い首からその小さな頭がもげそうで、ラビは益々心配そうな顔をした。

「お願い致します、ハナさん、、でないとわたしがシークに叱られてしまうでしょう。」

ラビは少しばかり卑怯な手に出た。ハナの心情に訴える作戦に切り替えたのだ。思った通り、ハナの瞳がくゆっていく。大きな黒い瞳がラビを見つめる。彼女の眉が八の字になって、困った顔になった。やがてハナは下を向いた。それは子犬が主人に叱られて、シュンとうなだれた姿を想像させる。ラビの奥に隠れていた慈愛がきゅんと胸をしめつけた。亡くなった妹の姿と重なった。

「わかりました。シークにお話してきますね?ここでしばらく待っていただけますか?」

/クイッ/

立ち去ろうとしたラビの背広の袖が引っ張られた。

「えっ?」

ぎゅっと袖を握りながら、ハナの黒目が心配そうにじっとラビを見つめていた。

<わたしのことであなたに迷惑をかけませんか?モーセに怒られたりしませんか?>

瞳はそんなことを心配しているように思えた。ラビは飛び切り優しい笑顔を浮かべ、美しい瞳をくしゃりと細めた。

「ハナさん、ご安心ください。わたしはシークに長年勤めてきておりますから、、フフ、彼に怒られない抜け穴は存じているつもりですから。}

ラビは、オマケにハナにウインクまでしてその場を去っていった。受付嬢たちの悲鳴があがった。

「ちょっと見た?嘘でしょう?ラビさま、何、あの甘い笑顔。あんな笑顔見たことなあいわ。」
「本当よね、いつもはお人形さんのような美しい笑顔なんだけど、、あんな顔されたらもうだめ、、はあ、下腹がああああっキュンってなっちゃう。きゃあ。」

受付が少しばかり騒がしくなったようだが、ハナは黙ってソファーでラビが戻ってくるのを待っていた。



*****

ラビがどんな手を使ったのかわからない。今、ハナは、先ほどよりももっと大きいふかふかの豪華なレザーソファーに埋もれている。彼女の体重などものともしない革の大きな塊は、背もたれもグウンと盛り上がり、その肘掛すらも堂々とした大きさで、その中でチョコンと座ったハナの姿は完全に革の怪物に飲み込まれているようだ。ただ、さすがのシロモノで、座り心地は断然に素晴らしい。そんな立派なソファーセットでさえもものともしない広々とした社長室には、まだモーセの姿はなかった。部屋中央のソファーセットを通りこし、窓際に置いてある大きくて尊大な社長椅子が、その主を待っていた。

/バタン/

「ラビ、お前がいながら、なぜ、、」

乱暴に扉が開けられ、怒気を帯びながらモーセが入ってきた。すぐにハナの姿が目に飛び込んで、彼は、怒りの言葉を飲み込んだ。

「さっさと話せ。」

諦めたらしくモーセは前髪をかき上げて、窓際にある社長椅子にどっかり座った。豪華な革張りの椅子は、モーセの大きな体を支え、ぐるりと椅子がまわる。彼の長い足がゆっくりと組まれ、両腕を組んでハナを見据えた。ラビは、モーセがどうやらハナに時間を割いてやるつもりがあるのがわかり、社長室のドアをそっと閉め、自分の持ち場に戻っていく。

ハナがあわててスケッチブックを開いた。前みたいに、しゃべることを事前に書いてきているらしい。

【大丈夫ですか?】

ハナの言葉に、わけのわからない苛立ちがわきあがった。昨夜、助けてくれ、と、しがみついてきた罪人の妻を突き放した。今朝、その夫の処刑は実行された。それは、シークとしてはあたり前の決断だった。祖父も、父も、代々、トリパティ部族を守る為、怜悧で残酷な決断もやむ終えず下してきた。それがやがては部族存続の英断となっているのだから。だが、昨夜から、じっと、ハナの黒い瞳がモーセを追い詰める。彼女の無言の圧に、まるで咎められているような、そんな気持ちにさえさせられた。

「罪を犯したものは死をもって償い、残された家族は己で生きる道を模索するのだ。」

それが部族の掟であり、誰になんと言われようと正しいことなのだ。自分は決して間違ってなどいない。何度も何度もそんな言葉が頭を駆け巡り、モーセはまるで己に言い訳しているようで、実に忌々しい。ハナは、わざわざ会社まで追いかけて非難する気なのだ。思わずかっとした。

「お前が何と非難しようと、、」

モーセの激しい気性が瞳に表れ、怒りで燃え上がる瞳をハナに向けた。だがハナの瞳を見た瞬間、彼は言葉を失う。ハナの漆黒の瞳は深い色を漂わせ、ゆらゆらと悲しみに揺れている。ハナは、次のページをめくった。

【わたしが心配なのは、モーセ、あなた。】
「な、なにが、、?」

予期せぬハナの言葉にモーセの唇が歪んだ。

ハナの指先が、モーセを指した。そして両手を重ねて胸を押さえた。それから、右と左のひとさし指をツンとあわせ、ねじりながら動かした。

<イタイ、、、>

<モーセ、、、ココロ、、、イタイ、、、>

ハナはもう一度同じ動作を繰り返す。

<モーセ、ココロ、、イタイ、、、>

心配そうな瞳がモーセを見上げる。

モーセの胸に何かが突き刺さる。何だかわからないものが、、組んでいた腕を解いて、片手で口元を覆った。

「俺の心が痛いだと?」

それは、昨夜の決断を意味するのか。それともシークとしての孤独な宿命に対する彼女の情けなのか、、、

ただ、はっきり言えるのは、今まで誰もそんなことをモーセに言う人間はいなかった。シークは誰でもなれるわけではない。生まれながらの星の元、シークとして望まれ育つ。シークとしての重責は当たり前のことで、部族や家族を守るために彼は今日も生きるのだ。だが、その彼を、かわいそうだと、、ハナは言った。声に出して言われていないのに、ハナの言葉を何度も何度も頭で反復する。モーセはゆっくりと椅子から立ち上がった。モーセの動きにハナの視線が同じように動く。ハナはじっとモーセだけを見つめていた。モーセは、自分が意識とは別のところで体だけが勝手に動いていってしまいそうな衝動にかられる。何か、気をまぎらわせなければ、、本能がそうささやいた。でないと、何故だかとんでもないことをしてしまいそうな予感がする。彼女を引き寄せて思いっきり抱きしめてしまいそうで、、、一歩また足が動いてしまう。

/ブーブー/

卓上の電話が鳴った。

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