シークの涙

29.

よかった、と言うべきなのか、秘書からの呼び出し通話だった。モーセはまるで催眠術から解かれたように、はっとして通話ボタンを押した。

「なんだ?」
<す、すみません、あの、、緊急なご用件で、、そのご来客が、、>

秘書の声がか細くなっている。アポなしの来客など言語道断であり、そんなことで呼び出してくるとは、通常だったらモーセから解雇通知を秘書に渡してもおかしくないことだろう。秘書もそれをわかっているからこそ、本当に自信なさげで怖気づいた声でモーセに必死に訴える。

<ジーナ シャダウーさまがお越しで、再三お断り申し上げたのですが、火急の用件ということで、、>

普段なら、モーセはきっとこう言うだろう。


『わたしには用がない。それから秘書としての資質を疑われても仕方あるまい。人事に言って退職金をもらってきなさい。』


秘書は何度もそういう言葉を聞いてきて、何人もの同僚を見送った。今日は自分の番だと思いながら、何故ジーナを断る事ができなかった己を悔やんだ。


「わかった。通せ。」

ところが秘書の想像とは違う言葉が返ってきた。

「え?」

自分で用件を伝えておきながらモーセの言葉に彼女は耳を疑った。だが、そこはモーセに雇用された秘書だけのことはあった。すぐに立ち直り、ジーナを社長室に案内する。


「シーク、お久しぶりね。もうひどいのよ、皆さん、わたしのこと厄介払いしようとなさるの。少しばかり教育のたりない社員さん方が多いんじゃなくて?」

案内した秘書が扉を閉める寸前にそんなことを言いながらジーナは部屋に入ってきた。イヤミな言葉はおそらく秘書の耳にも届いた事だろう。ハナは急にジーナが入ってきて驚いていた。今日のジーナは、紫の薄いジョーゼットの上下で、柔らかな曲線のシンプルなブラウスと腰にふわっとまとわりついている長いスカートで体全体を包み込んでいる。前回見たときとは比べ物にならないほど肌の露出は陰を潜めているのだが、豊かな胸がぷるんぷるんと揺れながら、腰を振りながら歩く姿や、長いスカートからかすかに見えるよく締まった足首は、例え肌などだしていなくても十分にエロチックだった。ハナがいることは視界に入っているだろうに、彼女はそれに気がつかない態度で、モーセが立っている大きなデスクへと向かってきた。

「あらあ? お取り込み中じゃなければいいんですけど、、」

ジーナは少しばかり上機嫌になる。あのパーティ以来モーセの足はまったくジーナには向けられない。あのとき会場で倒れたハナを、=今ここにいる女= 抱きかかえそのまま消えて行った男。けれど、今こうしてハナと会っているにもかかわらず、ジーナのために時間を割いてくれるモーセは、まだ十分にジーナへの未練を感じさせる。ジーナは自分がハナよりも優先されたようで胸が高鳴った。

「いや構わん。」

机越しにジーナを見やり、彼のその美しいカーブに形どられた唇の端をあげた。

「フフフ、よかったですわ。お仕事のお邪魔したくなかったんですけれど、、でもわたし、もう寂しくて、寂しくて、、」

ジーナは上目使いにモーセを見上げ、甘えた声を出した。

「わかった。今夜は行こう。きっとだ。」

モーセの声はどことなく甘い響きを帯びていた。ハナは目の前で繰り広げられるペルーシア語が、魅惑の呪文のように思える。モーセの声は低く、けれどこの上もなく甘い魅力的な音を作り上げる。だがその魔法の呪文は今、目の前にいる美しい大人の女だけに語りかけていた。ハナの胸は次第にしぼんでいきそうで、何故だか、鳩尾みぞおちのあたりが急に苦しくなった。モーセはジーナを見つめながら、その奥で睫毛を伏せているハナを視界におさめる。

「本当ですわよ?シークは嘘はつかないってことでよろしいんですわよね?会えなかった分のご奉仕は今夜、、、きっと大変なことになるかもしれませんわ?ウフフフ。」

こんなことを舞姫に言われた男たちは、下半身がムズムズと動きだし、今にも獣になって、ジーナの体中を舐めまわし、喘がせ啼かせたくなるに違いないだろう。そしてジーナはそれをよくわかっている。モーセは必ず来る。男のさがというやつだ。部屋に入ってきたときに、モーセの瞳には欲望の火が宿っていたような気がしたからだ。

「それでは今夜、、ふふ」

男を誘うような唇から漏れた掠れた声が妙に色艶を出す。長居は無用とばかりに、彼女は暇乞いを告げた。

「ジーナ。」

低い優しい声で呼ばれた。モーセが大股で机を横切り、ジーナの腕を引っ張った。

「あ」

ジーナの体はモーセにがっしりと引き寄せられ、彼の唇がジーナを覆う。

「シーク、、、、」

赤く塗られたねっとりとした唇は濡れていた。何も感情のこもらないその口づけ、、だがジーナにもハナにも、それはわからない。モーセの衝動がハナの胸を押しつぶそうとする。ジーナは、”夜のソレ” は得意でも、こんな明るい時間での、ましてや人の目があるところで、こんな風に口づけされることに慣れていない。顔がみるみるうちに紅潮し、胸が震えた。モーセはわたしを愛し始めている。求められている。だが、ジーナがやっとモーセのキスに答えたいと思ったときには、すでにジーナの腕はモーセから解き放たれ自由の身となっていた。だが彼女の鼓動と下腹のうずきは高まるばかり。

「ああん、シーク、、、我慢なさいませね。ふふふ。そちらのお嬢さんには刺激が強いですわよ、ねえ?」

ジーナは勝ち誇ったようにハナに笑いながら部屋を出て行った。

/バタン/

残されたハナとモーセ。扉の閉まる音の余韻だけが残酷に二人の耳に響いた。モーセの瞳は冷たい。先ほど温かい女の温もりに触れたとは思えないくらい、静かで何の色も帯びていない。反対に、ハナの瞳には動揺が色濃く出ていた。

「さあ、見世物はもう終わりだ。」

モーセはいつのまにか自分の椅子に座り、ハナを厄介払いするように、書類を読み始めた。

だが、ハナの動く気配はない。

モーセは顔をあげた。まっすぐにモーセを見つめていたハナと視線がからむ。

「なんだ?まだ何か言い足りないのか?」

ハナはきっと唇を結び、気丈にもモーセの座るデスクの前にやってきた。

「む?」

身構えたモーセに、ハナは自分の唇を人差し指でさして、ハンカチを差し出した。 モーセの唇に、今しがたの口づけの余韻がくっきりとついていた。ジーナの真っ赤な紅の色、、、モーセは思わず唇を大きな手で隠し、指で何度もこすりあげた。ハナはモーセの手を押さえた。

「む、、」

ハンカチをモーセの唇にあて、べにを落とす。それからゆっくりとハンカチを自分の手におさめ、彼に向かって丸を作った。つまり紅の跡はもうついてないということだ。ハナは無言で頭を下げ、部屋を出て行く。一度もモーセと目を合わせなかった。大きな黒い瞳がモーセの顔を見ることは一度もなかった。モーセにとって、それがますますイラ立ちと怒りを募らせていく。勝手なものだ。自ら、ハナの手を離したくせに、ハナが手を離せば、それが許せないなど、、、目の前の山のように積まれた書類も、今が正念場の投資プロジェクトのことも、これから始まる大事な会合も、、一瞬で頭から吹き飛んでいく、、、

悲しげにゆらぐ黒い瞳、、うちひしがれる細い肩、、、頼りなげで、優しい指先、、可愛らしい唇をぎゅっと噛みしめ、震えていたハナ、、、

胸が痛んだ。部屋を飛び出して、あの細い腕を引き戻して、、ジーナにしたように思いっきり、、、

(な、なんなんだ、、、)

何を思い浮かべたというのか、、




『ねえ、モーセって好きになった女の子っていないの?』
『好き?みんな好きだ。守らなくてはいけないのだから。』

9歳になったばかりのモーセは答えた。まだ少年のあどけなさが残っているのに、その横柄な言葉使いや堂々とした物言いに未来のシークとしての素養は十分。

『違うよ、その好きじゃなくて、、』
『は?サビーンの言う事変だ。その好きってどの好きだ?』

5歳のサビーンはいつも不思議だった。従兄弟のモーセはどのヒトにも平等だ。かわいい子も汚い子も、あまり綺麗じゃない子も、お金があろうとなかろうが、関係ない。けれど、誰もが一緒でつまらない。勿論自分だけには、他の子とは絶対的に違う。自分だけにしか見せない顔や仕草、、自負はあったけれど、それは、家族だからなのだ。けれど、それ以外にはみんな一緒。優しくて厳しい、そして厳しくて優しいモーセ。彼は一生、大きくなっても変わらない、サビーンはそんな風に思う。5歳のサビーンの予感は外れずに、それはきっと永遠に続くと思われていたのに、、、、



*****

その夜の食卓に、モーセは姿を見せなかった。ハナは黙々と口を動かし食べ物を飲み込んだ。せっかく切ってくれたラクレットのチーズの皿も、ひとつだけをやっと取ってみる。ミニフライパンに入れて鉄板で暖める。


/ジーボコボコッ/

チーズが溶けすぎてミニ鉄パンの中で煮立ち始めていた。

「あ、ああ、ハナさんっ、、」

夫人に言われてあわててハナは我に返った。チーズよりも何よりも、作ってくれた人たちに申し訳なく頭を何度も下げた。

<ごめんなさい、、>

「いいんですよ。ハナさん、ほら、火傷をしないように」

心配そうな夫人の声。まわりにいる給仕係も、メイドも、そして奥から心配そうに様子を見に来た料理人も、みんな夫人と同じ気持ちだ。元気のないハナに手を差し伸ばしてあげたい衝動を各々がしまい込む。タマール夫人もいてもたってもいられない気持ちを隠すように、穏やかな瞳でハナに笑った。ハナの弱々しい笑顔がたまらなく愛しかった。

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