シークの涙

3.

「アブデルワヒ エアーライン ペルーシア王国 ナイヤリ行き900便のご搭乗のご案内を申し上げます。」

搭乗案内を告げるアナウンスにより、エグゼクティブクラス、あるいは優先されるべき人々から搭乗が開始される。

シークは決してケチではない。いや、信頼する人間に対しては非常に寛容にふるまう。乗り物などでも、ラビがシークと同じクラスに乗る事など気にもかけないのだが、ラビがそれを承知しない。彼はいつでも分相応と自分の立ち位置をきちんとわきまえている男なのである。

「シーク。実は隣の席なのですが、、」
「うむ。」
「マダム ヤンスを避けるため、ある少女が座りますが、お気になさりませんように。」

お気になさりませんようにといわれても、モーセはマダム ヤンスも苦手だが、子供はもっと苦手なのだ。それを知らないラビではあるまいが。

ラビは無駄なことは一切言わず、モーセを先に見送った。ラビの座席案内はまだ搭乗の番ではないからだ。

モーセは不遜な態度を隠そうともせず、ゆったりと歩を進めながら座席に腰をかける。窓際はA列。エコノミーならばその隣はB列のはずだが、ゆったりとしているクラスでは、Cの座席となっている。両窓際が2列ずつ、中央2列というかなりゆとりのある座席配置で、後部にはラウンジも設けられていた。モーセは通路側C−1の座席にゆったりと座った。本来ならば、隣のA-1もモーセのものだ。だが、ここにマダムヤンスが勝手に座られるのを危惧したのだが、その代わりに子供が来るという。

(ついてない。)

めずらしく愚痴が口から漏れた。気がつくと、モーセの通路側に、小さな華奢な黒髪の少女がチョコンと立っていた。

「む?」

モーセは思わず顔をあげ、少女をまじまじと見つめた。先ほどマダム ヤンスのカートにぶつかって転んだ少女のようだ。彼女は、きれいな澄んだ瞳を細めて、片手を自分の顔の前に出して、拝む仕草をしながら、窓際に座ることをアピールしていた。モーセは大きな体を再び起こして通路側に出て少女を通してやる。少女がモーセの前をスッと通り抜けたときに、かすかに優しい花の香りがした。とても華奢で、モーセが抱きしめたらポキリと骨が折れそうだ。彼女はストンと窓際に座り、もう一度モーセに軽く頭を下げた。モーセは尊大な態度で、それには答えず、自分の座席に腰を落とす。そのときけたたましい声が、反対側の窓から聞こえた。

「あらあら、モーセ、また同じ飛行機ね。ほほほ。ご縁がありますこと?」

モーセはわからないように舌打をした。マダム ヤンスは、何度も何度も繰り返し、整形を行ったらしく、50歳には、いっているにしては、不自然なくらいシワがまったくない、そのつっぱった顔を少し前に出して、モーセの隣人を確認する。どうやら、今回もモーセの隣を狙っているようだ。彼女はおもむろにモーセの席に近づき、先ほどの少女に声をかけた。

「ちょっと、あなた?」

少女は、びくりとしてマダムを見やる。

「あちらの窓際とお席を交換していただけるかしら?」

同じ窓際なんだから文句ないでしょう、といわんばかりだ。少女はキョトンとしているものの、あちら側の窓とマダム ヤンスの顔を見比べ、やがて、腰をあげようとする。あわてたのがモーセだった。いきなり少女の体を力強く押し返し、座席に座らせる。

「マダム、申し訳ないが、、こちらのお嬢さんは、大事な預かりものなんですよ。」
「あら? お珍しい。」

「、、、、、」

少女は意味がわからず、モーセを見つめる。これ以上の質問には答える必要なしと言わんばかりに、モーセは満面の笑みを浮かべてマダムに微笑んだ。普段、笑顔など見せないモーセの最終手段。さすがのマダムも、豪華な笑顔にあてられて言葉を失った。

「まあ、それは、残念ですこと。」

珍しく引き下がり自分の座席に戻った。びっくりしているのは少女のようだ。意味もわからない上に、この世のものとは思えないほどの美しい微笑みを見せられ、体が固まっている。

「すまなかった。」

ただそう言い捨てて、モーセは雑誌を取り上げて何事もなかったかのように読み始めた。これ以上無駄な会話はしたくないという空気がありありとうかがわれた。少女は黙って視線を窓に移す。なるほど、さすがにラビだ。シークの隣に座っていても全くの違和感を感じさせないほど、この少女は邪魔にはならなかった。

やがて全ての乗客が乗り込み、安全点検を確認後、機体は雲の上に飛び立った。 ビジネスなどのエグゼクティブクラスとなれば、機体が飛び立つ前から美しいFAが、かいがいしく乗客のアテンドに余念がない。どっかの航空会社と違って、このアブデルワヒエアーラインなど、選りすぐりの美女達と美男たちで乗組員が構成されている。見ているだけでも心が晴れる。少女の瞳はとても愛くるしかった。美しいFAが次から次へサービスと称して飲み物やスナックなどを聞いてくる。そのたびに首をふるものの、この美しい人たちから目が離せず、びっくりしたマナコで見ている様子は、はたから見ても愛くるしい。一番の美形は何といっても隣の男だ。気がつかれないようにそろりと目を走らせては、贅沢な目の保養で、暇な飛行時間を楽しんだ。

昼食の準備が整い、FAがそれぞれの乗客にアルコールやらドリンク注文をとっていく。このアブデルワヒ エアーラインでは、事前にエグゼクティブクラスの乗客の要望に答えられるように、希望のドリンクを搭載していた。勿論、少女は、急にビジネスクラスへの変更となったため、航空会社側は、その好みを未だ知らない。

「マアム、お食事前のお飲み物は何をお飲みになりますか?」

FAが通路にたって少女にむかって注文を尋ねた。プウンと香水の甘い香りが漂う。エコノミーならばワゴンにある飲みたいドリンクを指で示せばいいのだが、ここでは、自分の言葉で伝えなくてはならない。

少女は困った顔をしたが、やがて前座席のポケットに入れておいたスケッチブックを取り出した。サラサラとマジックで書いた。

【WATER PLEASE】

事前に情報が混乱していたようだ。この少女のことについて、乗務員は何も知らされていなかった。そして同時に隣に座ったモーセも眉をあげた。なるほど、だからラビが、彼女を選んだというわけだ。

「オー。」

そう言ってニッコリ笑ったFAは、甘い香りをその場に残し、ギャレーへと姿を消した。今度はモーセが珍しく、ちらりと隣をうかがった。別段悲劇のヒロインを気取るでもない少女は、先ほど書いたスケッチブックをもう座席ポケットにしまっているところだった。

(いくつぐらいだろうか? 14,5歳くらいか?いや、もっと幼いか?)

モーセが、何よりも興味を少しばかりひいたのは、通常の飛行機会社のほうがよほど経済的であろうに、よりにもよって料金の高いこの航空会社を選んだこと。外見で判断するのは失礼な話だが、資産家の娘とはとうてい思えない。その上、どこにも両親や大人の姿が見当たらず、異国ペルーシアに少女の身ひとつで訪れるという事実。モーセは、どこぞの富豪のペルーシア人に見初められ、嫁ぎ先へと王国に足を踏み入れるつもりなのだと、結論付けた。その上、今は、ビジネスクラスにグレードアップとなっているのだから、さぞやこの少女も嬉しいに違いない。

ペルーシア王国は、西洋の文化と古き伝統を重んじるアラビア文化が融合している不思議な国だ。珍しく、多種多様な宗教が認可されている。イスラム教、キリスト教、大仏教、小仏教などが、争うことなく、それぞれがそれぞれを認め、承認し合っていた。それもこれも、大きな勢力を持ち精力的に活動している、トリパティ部族の長、モーセ・シャリマールの功績が大きい。争いごとは国を劣化させ経済的にも打撃を被ることを熟知しており、徹底的に治安を維持することに注意を払っている。そのためには、影の部下達も、モーセの傘下として地下組織を牛耳っているのだが。

ペルーシア王国の都心では、西洋の考え方などに共感している現代的な女性が多く活躍している一方、田舎は未だ保守的で、古き良きそして悪しき習慣などが根付いている。地方では、花嫁の平均年齢は15歳で、現代においても花婿の富の象徴として買われることも珍しくなかった。

そんなことから、モーセは、隣の少女も、結局はどこぞの下らない富豪に目をつけられ、これから、嫁いでいくのだろうと、そう単純に考えていた。

先ほどのFAが戻って来て、美しい優雅な所作でペットボトルを少女に差し出した。彼女は、満面に笑みを浮かべて頭を下げた。黒い髪がサラサラと顔にかかった。そのあと、ペットボトルの蓋を開けようと必死に力を入れている様子だが、ナカナカ開かない。背中を丸めて全身全霊で力をいれても、蓋はピクリとしなかった。もう一度力をいれるも、少女の顔がゆがむ。

「かしなさい。」

隣で重厚な声音が聞こえた。少女の目の前には大きな手のひらが差し出されていた。少女は右腕をさすりながら、小首をかしげてその手をじっと見つめる。

「、、、、」

やがて、はにかみながら、そっとその手のひらにボトルをのせた。モーセが軽くまわせば、蓋はカチッと音を立て何事もなかったようにボトルから離れる。モーセは、水がこぼれないように、再び軽く蓋を閉め、少女に手渡した。

少女の大きな瞳が輝いて、顔にも体にも手にも表情豊かに、どうやらお礼を表しているようだ。モーセは片手をあげて、礼には及ばんとでもいうように、前を向き、白ワインを口にした。

ラビが見ていたら、恐らく驚愕しているかもしれない。そのくらい珍しい、いや、シークを知るものならば天地がひっくり返るような出来事と言っても過言ではなかった。隣に座っている少女は、誰が見ても庇護欲をそそる。声がでないことをマイナスと考えず、健気に必死に生きているその様子は、清々しくさえ人々の目にうつる。だが、隣にいるのは、シークなのだ。この男に普通の常識や、普通の感情など通用するわけがない。モーセ自身も、考えるより早く手が先にでてしまった先ほどの行動は、驚きに値する。まあ、たまには、凡人と同じレベルまで下りてきたところで悪いことではない、そう自分にも言い聞かせた。


*****

長旅の終わりを告げるアナウンス。

「当機は、まもなくペルーシア、ナイヤリ国際空港に到着いたします。お座席の前のテーブル、座席の位置を、、、、」

やれやれ、とモーセは長い足をおりたたみながら座席を元の位置に戻した。ビジネスとはいえ、14時間の長旅はガタイの良い185は有にあろう男には大層窮屈だ。隣の少女は14時間もの間、座席を一度も後ろに下げなかった。眠るときでさえ、体を少しばかり丸めていたものの、この豪華な座席は彼女にはかなりの余裕の空間を与えていた。

確かにラビの判断を褒めずにはいられない。隣にずっといた少女は、本当に静かでモーセが苛立たせられることは、全くなかった。食事のときも、静かで、とても好ましかった。存在感がないわけではない。彼女の持つ独特の空気は、甘く優しさに包まれ、周囲の空気を癒してくれていた。

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