シークの涙
31.
ラビはモーセの微妙な変化を見逃さない。モーセの仕事ぶり、その豪腕、凡人とは比べ物にならない思考回路は、全くぶれることはなかった。少女レイプ拉致組織の末端とはいえ、それに加担していたカシュールやその家族への処置も相変わらず淡々とした裁きであり、トリパティ部族を何も揺るがす事のないシークの健在と言えるのだが、、、だが、何となく、このところ、なにかが違う気がする。ラビは、具体的には見出せない、その “何か” に、不安が過ぎる。自分たちにハナの存在が何らかの影響が及ぼしているのではないか、、おぼろげながら心の片隅でそう感じている。勿論、それはハナが悪いわけではないのだろうが、、
例えば、、、道で目にするモノ、ただの通りすがりだというのに、、以前とどうしても見方が違ってしまう。ペルーシア一旨いと評判のケーキ屋、や、あるいは、色とりどりの伝統菓子が売っている店先、、ふと目を留める、足を止めてしまう。ハナのくしゃりとした笑顔を思い浮かべてしまう。これをハナに買って行ってあげようか、、そんなことを思ってしまう。また老人が、立ち止まり、立ち止まりながら、辛そうに歩いていたり、別の日には、白い杖をつきながら立ち往生している人を見かけると、、どうもそんなとき、いつもハナがフラッシュバックしてくる。結局つい、ラビは見過ごせず手を貸してしまうのだ。
ハナの影響はラビだけではなさそうだ。屋敷の者らも、影響を受けているに違いない。先のタマール夫人の失態も、きっとハナがあの屋敷に来なければ、起きなかったことかもしれない。ハナがいるから、皆の心が緩むのではない。皆の心に忘れかけていた慈愛や、人を信じようとする心、無垢な計算のない行動、、、そんなものが生まれているのだ。それはハナがあまりに純粋で人を疑うことを知らないからだ。
だが、ラビは不安でたまらない。ハナの影響力はもはや凡人だけに留まらず、モーセにまで浸透している、、ように思える。ラビの顔が険しくなる。己が自ら推薦しておきながら、今さらながら、ハナを雇い入れたこと、、、モーセとの接点が生まれてしまったこと、、、ラビは少しばかり後悔の念に駆られていた。彼は人一倍モーセのために生きているが、それ以上にシークとトリパティ部族の繁栄のために心血を注いでいるのだ。このままでいいのだろうか、、、ラビは自問自答する。だが、、、答えは、、出ない。
/ドンドン/ 「ちょっとおお、ラビい、聞いてよ。」
ドアが叩かれた音と同時に、かなりの迫力で入ってきたのはサビーンだ。社内ではサビーンは特別視されているので、別段秘書からの取次ぎがなくとも勝手知ったる何とやらで、サビーンは自由自在に社内を行き来する。
「どうしましたか?」
お馴染みのビジネスライクの笑みをたたえ、ラビはサビーンを見た。
「モーセ、最近おかしくない?」
ラビの胸がドキリとした。サビーンほどはっきりと言葉にだせるほど、まだ、ラビの中のもやっとしたものが未だ何かわからないが、それは、ラビが最近ずっと考え続けていたことだ。
「と、申しますと?」
銀のフレームをサッと上げながら、ソファーを指し示し、サビーンに座るように促す。
「決まってるじゃない。ハナとのことよ。」
「、、、、、」
「あの男、なんで、ジーナにキスしたのかしら?」
「はい?」
「しかもハナの目の前でよ?ありえないでしょう?」
ラビにとっては初耳だった。ただ、それがいつの出来事なのかは想像に容易い。あの日、ラビが,会社を訪れたハナを社長室へ連れて行った日だろう。そのあと、ひとしきりしたのち、ハナはラビに挨拶もそこそこに逃げるように帰って行った。また、事後報告ではあったが、モーセの秘書の一人が、あの日、ジーナが無理やり社長室を訪問したと言う話をしていた。驚いたことに、ジーナを阻止できなかったことは秘書の落ち度でありながら、モーセから、その秘書へのお咎めがまったくなかったということだ。
「驚いた? わざわざ、ハナの目の前で、すごおおおおい、あっつい口付けをしたっていう話?」
結局ハナは一人で抱えきれず、サビーンにあのときのことを話してしまった。だが、このサビーン、ハナから聞いた以上の形容詞やら何やらを飾り立て話を膨らます。
「あのモーセがよ?鼻の下をでれえええんとして、わざわさハナに見せびらかすようによ?ジーナなんて舞い上がっちゃって大変だったんだから!」
見てきたようにモノを言う。
「ジーナ シャダウーとの関係はシークのプライベートのことですから、、だが、、しかし、」、
「だが、しかし?ふふ、会社でそんなことをするなんてシークらしくない? ね、そうでしょう?」
サビーンが、ラビの飲み込んだ言葉を代弁する。
「ね、ジーナとは本当のところどうなっているの?」
ラビはこの間のモーセとの会話を思い出す。
『シーク、、ジーナ嬢より再三の連絡があるようで、秘書連中から苦情を受け付けておりますが、、、』
ラビの報告にモーセは物憂げな表情をした。
『ふん、、おまえはどうすればよいと思うのだ?』
面倒臭い相手に、それでもその先を決めかねてい入る様子で、ラビの意見を求めた。勿論、ラビの意見を聞いたからと言ってモーセがその通りにするとは限らない。だが、一応ラビは自分の率直な意見を述べた。
『勿論、ジーナ嬢はまだ使える駒だと存じます。』
『わかった。』
「まあ、大人同士のことですから、、、」
とはいえ、ハナの前でモーセがキスしたということが、どうもラビには解せない。確かにジーナはまだ利用価値があると進言したが、それならばジーナと二人っきりのときにせいぜい相手を喜ぶことをしてやればいい。何もハナの目の前で、、これではまるで、、ラビは一瞬、頭に過ぎったありえないことをすぐに否定した。それは先ほどから得体の知れないモヤモヤとしたものが、一気に形になってラビの前に現れた気がして、驚愕した。幸いなことに、サビーンは、それどころではなく、まだ言い足りない様子で口を閉じることをしなかった。
「あら、でもそろそろ結婚しなければ、さすがのモーセも子ダネがなくなるわよ?」
サビーンは揶揄したが、それは、未来のシークを残すという意味では避けられない話題だった。
「最近になって、シーク・アショカ・ツール から縁談の話が持ち込まれました。」
サビーンは、あの、人のよさそうな恰幅の良いアショカを思い出した。彼には確か娘が二人いたはずだ。
「娘ね、どっち?上?下?」
「いや、まだ詳しい事はシークもお考えになってないようですが、、」
サビーンは、癖なのか、親指の爪を噛みながら、じっと何かを考え込んでいる。
「ねえ、トリパティ部族のシークの正妻に外国人がなったらどうなるのかしら?」
ラビのめがねの奥の瞳がキラリと光った。サビーンの真意を理解したからだ。
「もし、サビーンさまがおっしゃっている外国人とやらが、仮にハナさんだとして、彼女ならトリパティ部族にプラスにもマイナスにもならない存在となりましょうから、基本、問題はないと思われますが、、、」
言葉を断定しなかったのは、この問題はそれほど単純なものではなく、その裏に色々と複雑な事情がはいってくるからだ。表面上は問題なくとも、昔ながらの長老らがトリパティ一族の血が薄まると反対するに違いない。
「あら、相変わらず鋭いのね。わたしの言う意味がハナってわかっちゃった?ふふふ、ってことは、モーセが無意識か意識的か、とにかく、ハナを気にかけているって、ラビも思ってた?」
唇の端をあげてサビーンはラビを攻めてくる。
「ハナさんに対するシークの態度は、確かにわたしも、正直驚いております。ただ、だからといって、それが二人の結婚話に発展するとは、いささか短絡的ではないでしょうか?」
「何言ってんのよ、もう、ラビったら、恋は盲目、突然湧いて振るんだから、そんなしかめっつらな顔してたって、恋するときはいきなり突然でしょ?あなただってそんな経験あるでしょう?」
ラビの眉が少しだけ寄ったが、口調はいたって感情がこもってないようだ。
「いえ。わたしは、、そんな風な経験をしたことは一度も。」
ラビの口調があまりにも抑揚をもたなかったので、サビーンはラビをじっとみつめていたが、敢えてそこを問いたださなかった。
「まあいいわ。勿論わたしだって、よもやモーセがハナに恋しちゃってるとは思わいなけど、、まあ、内心そうなったら面白いなあ、とは思うけれど、、ただ、モーセの中で、ハナが何らかの意味合いを持ってきてるのは確かよ。ハナのあの絶大な信頼を裏切りたくないっていう気持ちと、けれど、ハナに振り回されたくないって気持ちが今葛藤してるってところかも、、と、わたしは診断するわ。」
最後は、専門医らしい見解を述べた。
「サビーンさま、、シークは、、その、、、ハナさんがいることで影響を受けていると、、」
最後は言葉を濁した。口に出してから思う。そんなことはあるわけはない。ラビはモーセの下で働き始めてから15年の歳月が経っており、今まで一度たりともモーセは揺るぎのない決断を下してきたし、誰かの影響でその決断が鈍る事はなかったのだから。
「そりゃ、あるでしょう。」
ラビが必死になって否定しようとしていることを、いともあっさりとサビーンに肯定されてしまった。
「ラビだって実はわかっているんじゃない?わたしたちみたいな人間、つまり野望や夢や、何らかの欲望にまみれているものが、ハナの前に出ると、いてもたってもいられない気持ちなる、、ハナと話しているだけで、心が洗われて、自分もまるでハナのような純粋な気持ちになっていくような、そんな錯覚にとらわれる、、」
「、、、、、」
「今後のモーセに、よくも悪くも影響していくっていう可能性なら、わたしはあると思うわよ?モーセがそのことに抗らおうとすればするほどね、、ハナを見て平常心を保てる人間なんて早々おめにかかれないわ。万が一いたとしても、きっと、その人は無感動で空虚で、そして自分の殻に閉じこもって、小さな世界の中で何も変わらずに生き続けていくのだわ。けれど、そんな人間、魅力のカケラもなくて、おもしろくもなんともないわよ!」
サビーンの物言いは相変わらずはっきりしている。彼女は精神科の医師として意見を述べているのか、それとも個人的な意見なのか計り知れず、ヒトは、それでなんだかごまかされてしまうのだ。ラビはただ黙るしかなかった。モーセにとってハナが影響を及ぼすようであれば、ラビはラビの仕事をするまでだ。それがハナにとってどんなに恨まれることになろうとも、モーセとトリパティ部族のためならば、、、それがラビにとって辛かろうと、そのときがきたらやるしかないのだ。
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