シークの涙

34.

「そこに座りなさい。」

きっかり一時間後、ハナは書斎に現れた。モーセの思った通り、しっかりスケッチブックを小脇に抱えている。いったいモーセの口からどんな言葉が出てくるのかを図りかねているのか、幾分緊張して心配そうな面持ちだ。

「お前は今夜から勝手に屋敷をでてはいけない。」

ハナの瞳が驚いている。彼女にとっては予想を遥かに超えたモーセの言葉だった。『なぜ?』というハナの疑問がわく前に、モーセは先に答えてやる。

「みんなの安全のためだ。」

今度は不安気にハナの顔色が変わる。モーセはじっとハナの様子に気を使いながら先を続けた。

「勿論、まだ何もわからない。ただ、ここのところ変な電話が社の方にかかってきているということだ。余計な杞憂かもしれない。だが用心に越したことはないだろう。」

【モーセが狙われてるかもしれないってこと?】

ハナは焦りながらペンを走らせる。文字に不安が表れているようで、少しばかり文字が震えていた。

「かもしれん。」

モーセはハナの不安をできるだけ煽らないように、話をすり替えていく。

「そのほうがありうることだ。わたしに敵は多い。」

その瞬間、ハナの唇がわなわなと震えた。顔色も青くなって今にも崩れおちそうだ。

(うう〜うわあ、うう)

体を震わせながら唇がわなないた。発作かと思いモーセが人を呼ぼうとコールボタンに手を伸ばしたその腕をとられた。

「な、なにをする。」

(うう、ううううう)

ハナは必死にモーセの腕を掴み、何かを訴える。黒い瞳がキラキラと濡れているようで、、今にもその大きな瞳から涙があふれんばかりで、、だが、ハナは健気にも必死に泣かないように頭を振った。

「落ち着きなさい。」

モーセの腕はハナにとられ、だが、彼は抗うことをしなかった。その代わりに、彼女を落ち着かせるような穏やかな口調でハナ自身を安心させる。ハナは我に返ったように、すぐにスケッチブックを開き、書き始めた。その文字は先を急いでいるせいか、先ほどよりも荒く、書きなぐっていく。

【誰かに狙われてる、モーセ死ぬ、、モーセ死ぬ、、】

同じことを何度も繰り返し書いた。そして、興奮した面持ちで両手を前に出し、手のひらを交互に裏表の動作を繰り返す。右手が甲なら、左手は手の平、左手が甲を見せれば右手が手の平を見せる。何度も何度も必死になってその動作を繰り返していた。

<死ぬ、、死ぬ、、、>

ハナにとって死とは、己の命がこの世からなくなるという怖さではない。彼女にとって、それは大切な人と、もう二度と会うことのできない今生の別れを意味する。

(ああ、ううう)

唇を震わせながら、何かを必死にしゃべろうとするように、、だがその試みはただ唸り声となって部屋に響くだけ。そのもどかしさか、ハナは何度も両手を交互に返していく。死ぬ、死ぬ、ハナの手はそう言っていた。

「もう、わかった。ハナ。わかったから。」

モーセはいたたまれなくなってハナの頭を撫でた。ハナは頭を振って、またしても両手を交互に動かしていく。

「俺は、死なない。大丈夫だ。」

凜とした口調で、モーセはそう言いきった。それでもハナはまだ細い体を震わせている。思わず、先に、腕が伸びた。

「ハナ、大丈夫だ、俺は。」

ハナを胸に抱きしめた。はっとする。忘れていた。ハナのか細い華奢な体、、抱きしめるとぐにゃりとなってしまいそうな脆さがあって、、壊れやしないかと、そっと力を緩めた。ハナは我慢できなくなったように、モーセの体にすがりつき、すすり泣き始めた。

「大丈夫だ、ハナ。大丈夫だ。」
<うう、うううう、あ、>

唸るような、嗚咽のような、そんな言葉にならない擬音がくぐもって聞こえている。モーセの逞しく大きな体にすっぽり包まれてしまったハナは、そのあまりの温かさに我慢出来ずに泣きはじめた。モーセの胸の少し下あたりで押し付けたハナの頭が震えている。声が出ないから、嗚咽のような声でしか悲しみを表せない。それが余計切なく、ハナの悲しみはモーセの体に伝わっていく。ハナの頭上で、低い、けれどとても優しい声が響く。

「俺は死なない。安心しろ。」

モーセはハナを抱きしめながら、小さなハナのために、体を少し曲げて顔を彼女の頭に近づけた。そしてもう一度言う。

「俺は死なない。」

ヒトの命ほど不確かなものはない。明日だってどうなるのかなんてことは誰にもわからない。けれど、俺は死なないというそのモーセの言葉は、まるで確かなことだとでもいうように、ハナの心に安心感という種を蒔いていく。彼の唇からもれる言葉はまるで魔法の呪文のようだ。ハナはおそるおそる顔をあげた。モーセの顔があまりに近くにあってハナの濡れた瞳が大きくなった。けれど、すぐにモーセの瞳を見つめる。茶色の薄いクリスタルのような彼の瞳を凝視する。なんと綺麗な瞳なのだろう。

「ハ、ナ、、」

気がつけばモーセはハナの顔に自分を近づけていく。

<あ>

優しくゆっくりと降りてきた厚い唇がハナの可愛らしい唇を覆った。

「う、」

モーセがうめいた。体が、体内が、心臓が、震えている。自分を作り上げている血が、肉が、魂が、勝手に叫び始めた。

ハナはわけもわからず大きな黒い瞳を見開いたまま、小動物のように固まった。モーセの胸のシャツをギュッと握ったその手は、赤ん坊のようにこぶしを握ったまま硬直している。ハナの華奢な体は緊張と驚きで、音にすれば、カチカチとなりそうなのに、その唇はなんと柔らかく甘美なのだろう。酔いしれてしまいそうだ。社長室でジーナの唇を奪った時、期待は見事に裏切られた。ただ、ねっとりしたいやらしい淫靡な唇で、そこにふれてみても何の化学反応も起こらなかった。けれど、今、彼が欲したその唇は、彼の思っていた通りの、、いや、それ以上のもの。体に何かが走り抜けていく衝撃と、だがそのすぐ後に訪れた甘く優しい温もり、そして柔らかな弾力のある愛らしい唇、、、もう少しだけ、、モーセは己と抗いながらハナの唇を強く吸い始めた。

(あっ、、うん、)

ハナは抵抗もせず、モーセの唇を受けいれている。だがその体は少し震えているようだ。放さなくてはいけない。そう理性がモーセに言い聞かせる。だが、彼の体は理性とは反対に、もっとハナを追い求めようとする。こんなに細くて手折ってしまいそうになるハナの肢体を片手で余裕で抱きしめながら、余った片方の手でサラサラとした黒髪をすいていく。前に華奢だと思って抱いた女も、実は妖艶な女の体で、頑強にモーセにからみついてきた。けれど、今、モーセの腕の中にいるハナは全然違う生き物だ。か細くて小さくて、それでいて温かくて心地のよい、彼の思い描いていた通りの抱き心地で。だが、、、モーセは己の意思とは反対に、唇を離した。指先でハナが逃げないように、彼女の顎を掴み、自分の顔に向けさせた。

「よいか?わたしは死なない。これがわたしの温もり、生きている証だ。」

キラキラと輝く光を放ちながら、ハナの黒い瞳がじっとモーセの顔をみつめた。

(生きている証。)

何度も何度もハナは頭でその言葉を反芻する。

「さあ、話はこれで終わりだ。安心して眠るがよい。」

ハナを抱いていた大きな体がさっと離れていく。モーセは何事もなかったように、書斎机の椅子に座った。何だか急に寒くなったようで、ハナは両腕で自分の体を包んだ。

(生きている証、、)

ハナはもう一度だけ彼の言葉を心の中で繰り返し、そっと書斎を出た。

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