シークの涙

37.

ジーナは文句たらたらだった。

「ちょ、ちょっ、ちょっと、サファール、、わたし、まだこんな格好で、、あ、痛い、、ちょっと、サファール!」

最後はジーナの悲鳴にも近かった。



朝、まだ夢の中にいた彼女は、けたたましい耳障りなドアベル音で現実に引き戻された。不機嫌な声で、インターフォンで受け答えすれば、相手はモーセの屋敷のお抱え運転手、サファールだった。嬉々とした。モーセが自分を呼んでいる。こんな朝早い時間で、たとえ無体な命令であっても、あのモーセが自分を欲しているのだ。そう思ったら顔が輝き始めた。

『ちょっと待って、身なりを整えるから。』

朝起きたての彼女は、鏡に映った顔を見てぞっとした。35を過ぎた女の肌はもはや艶がない。みずみずしさの欠片もなかった。ショーなどのための厚化粧も肌を荒らす原因で、ここのところあの老人の夜の相手もあって、かなり素肌がボロボロとなっている。これから愛しいアノ人に会うのだから、少しでも綺麗に美しく着飾って、、、そんな女心だ。だが、、

/ドンドンドン/

今度は、すぐ自分の玄関のドアを乱暴に叩く音がした。

『ジーナさん、時間がありません。ご用意など無用です。』

サファールは、どうやらマンションの建物の中に入ってきたらしい。そしてあろうことか、鍵をガチャガチャと回す音が聞こえ、ドアがあっさりと開いた。

『ひいっ!』

ジーナは驚いて玄関口に走った。

『ぶ、無礼者っ!運転手の分際で、家宅侵入罪で警察を呼ぶわっ!』

サファールはジーナに有無を言わせなかった。

『ご自由にどうぞ。わたしはシークの命に従うだけですから。』




逃げまどうジーナにサファールは大股で近づき、いきなりジーナの両手を後ろ手に、手錠をはめた。

「な、なにをするの?」

ジーナの悲鳴があがる。だが何事もないように淡々とサファールは自分の仕事を遂行していく。彼女の目にもアイマスクをはめた。大柄のサファールは、肉感的なジーナの体をいとも簡単にヒョイと持ち上げ、肩に担いだ。

「ちょ、サファール、おろしなさい、おろしなさいって!」

ジーナは夜衣のままで、ガウンも着ていない。その淫靡な体は、薄い布越しにいやらしく映る。だが、サファールはお構い無しだった。ジーナは暴れながら、だが、誰も助けはこない。マンションの住民も、いや、管理人でさえ、すでにモーセの手のものに懐柔されているのだ。




*****

サファールがどさりと荷物を長椅子の上に置いて、一礼したまま出て行った。

/バタン、、、/

あれからサファールの肩に担がれたままジーナは車の中にのせられた。視界を閉ざされ頼りになるのは感覚だけだった。車が動くたびに体がぐらりぐらりと右左へと揺れ、じっと座っていることができなかった。車が猛スピードで街中を飛ばしているのがわかった。やがて、車が止まり、もう一度抱えあがられ運ばれる。ザワザワと人々が蠢く音と感覚だけを頼りにジーナは耳をこらした。そして、今、どこかに、ドサリと置かれた自分の体の奥で、扉が閉まる音がした。彼女はがらにもなく恐ろしさで体が小刻みに震えていた。



いきなり目の前にまぶしさが広がった。アイマスクが外されたのだ。彼女はまぶしさで何度も目をしばたきながら、やがてぼんやりとした視界の中に、ジーナが求めていた男の姿が飛びこんできた。

「シーク、、、」

さっきまで怖かったと言うのに、モーセの姿を見た途端、体がじんわりと熱くなり、甘えた声でモーセを呼んだ。

「ご挨拶だな?」

モーセの顔は険しかった。ただ彼の瞳はギラギラと燃えていた。ジーナにはそれが欲望の火のように思えた。

「もう、朝っぱらから、どうなさったの?」

まさかこんな形で自分が朝から求められるなど思いもしなかった。英雄色を好むということわざ通り、シークも結局男なのだ。やっと自分を求め、狂おしく欲してくれている。

モーセは、長い指先をジーナの顎にかけ、くいっと上に向けさせた。

「あっ」

「ジーナ、お前の望みは何だ?」
「え?」
「世界一の踊り子か?それともハリウッドに進出して、グローバルな女優として活動したいのか?それとも金か?」

ジーナの瞳がうっとりとモーセの瞳に絡んでいく。

「そんなもの、、、わたしがほしいものに比べれば、とるにたりないもの。」
「じゃあ、何だ?」

「妻の座。モーセ、あなたがわたしの夫になること。ふっ」

息がかかるほど近くにあるモーセの顔に、ジーナは色っぽい吐息をかけた。モーセはあからさまに嫌な顔をした。拘束していたジーナの顎を、無造作に放つ。

「ならば、話は別だ。」

モーセは、ジーナの前に立ちはだかり、ぽきぽきとその長い指を鳴らし始めた。

「バカな女だ。もっと、まともな願いを言えばいいものを」
「え?」
「わたしを誰だと思っているのだ?」

モーセの瞳は燃えるように、ギラギラと輝きを放ち、残忍な笑みをその美しい顔に浮かべた。ジーナはまじかで見る冷酷な氷のような無表情の男を前に、今さらながら背筋が寒くなった。

「さて、吐いてもらおうか?」

/ポキ、/

またひとつ指の骨が鳴った。

「ひっ、、シーク、、何を、?」
「ハナの居所だっ!」

モーセの親指が、ジーナの喉仏を両側から押さえ込む。

「グッ 、いた、、い、、息が、、」

ジーナは自分の体が沈んでいくような錯覚に襲われた。息が出来ない。

「お前があいつの手下だということはわかっているのだ。ハナの居所を教えれば、無罪放免してやろう。」

モーセの親指にますます力が加わった。

「お前がレイプ集団組織と繋がっていることもすでにわかっている。」

モーセの配下にも闇組織はあったが、レイプだけを目的に少女を拉致したり売り飛ばしたりするその暴力集団とは全く異種の組織だった。ジーナはこともあろうに、その黒幕の配下に入って、そのレイプ集団組織とも繋がっていることが、先のカシュールの告白で判明していた。だが、残念ながら、その黒幕が誰なのか、そこまでの明白な証拠はあがっていない。

「ハナをどこへやった?」

ジーナは朦朧と意識が遠のいていく中で頭をめぐらせていく。おととい会ったときに、ハナを拉致してくれるように頼んだのだが、あの老人は、まだ用意周到ではないと言って、のらりくらりとはぐらかされた。全く仕えない男だと舌打ちしたばかりだというのに、それでは、いよいよ、あの憎らしい小娘をついに拉致してくれたのだろうか、、、

「知、、らな、、い、、って言った、ら、、どう、、なさる、、の?」

息もたえだえにジーナは気丈に質問を返した。

「さあな、お前の一番嫌悪することをするだけだ。」

意識が朦朧とする中でもジーナの顔が驚愕の色に変わった。

「お前の自慢の体をメタメタに切り裂いて、あちらこちらに傷口を作り、そのお前の自慢の顔にも一生消えない傷跡を残してやろう。そして、飢えたる男たちの中に放り込む。醜くなったお前でも、女としての機能さえあれば飢えた男共は喜んでお前で性欲を満たすだろう。一生お前は慰み者になって生きていく、、淫乱のお前には悪くもなかろう?」

ぞっとした。モーセの瞳には脅しの色はなかった。ただ事実を淡々と言っているだけだった。実際にハナの行方などジーナは知らない。けれど、その言葉、知らぬ存ぜぬが通用する相手ではなかった。

「わ、、わかった、、息が、、は、放して、、」

ぐったりするジーナに、少しだけモーセの指が緩んだ。

「話せ、知っていることを話せ。」

ジーナは肩で激しく息をして、苦しげな表情を浮かべた。自分が生き残るために最後の賭けにでる。息を整え、自分が今まで生きてきた中で見事に身につけた魅力的な笑顔、男たちの凍った氷が溶け出すたまらない淫靡な笑顔。ジーナの人生で何度か危ない目に会うたびに、命拾いをしてきたこの極上の笑顔を浮かべた。

「シーク、正直に申し上げます。小娘、いえ、ハナさんとおっしゃるかたの行方は神かけて存じ上げません。」

モーセの指が再びジーナの首にまとわりつく。

「ま、待ってください。シーク。でもわたしの背後にいる男、そのモノが誰だか知りたいと思いませんか?」

完全に駆け引きに出たジーナだ。モーセは食いつくに違いない。これを切り札にしなくては、、

ところが、モーセの顔は変わらない。冷たく無表情のままで言い放つ。

「よいか?わたしはお前と取引ごっこをしているヒマはない。ハナの居所を今すぐ白状しなければ、先の通りを実行するまでだ!」

「ひっ」

ジーナの顔が醜く歪んだ。

/ドンドン、ドンドン/

ものすごい勢いで扉が叩かれた。

「シーク!ハナさんの居所について新たな情報がっ!」

ラビの声は枯れんばかりに叫んでいた。

「シーク、早まりませんように、、ジーナ シャダウーは何も知りません!どうか、ドアを開けてください。シークッ!」

今まで無表情だったモーセの顔が変わった。すぐに大股で扉の傍に行く。

/ガチャリ/

目の前に、疲労困憊したラビの顔が現れた。ラビは部屋の中を見回し、モーセが未だジーナに無体な仕打ちをしていないことに安堵した。だが同時に今までの徒労が終わったことを知り、肩を落とした。もう少しで、黒幕をあぶり出し、レイプ集団組織を叩く大きな機会だったというのに、、、ジーナをオトリに使えば、、、きっと。そう思っていた。だが、、、ラビは知らぬ間に拳を力まかせに握りしめていた。握られた指が蒼白になっていた。だが、モーセが決断したのだ。どうすることもできないのだ。仕方あるまい、そう己に言い聞かせる。

「ハナは?」

上ずったモーセの声に、ラビは、何ともいえない感情が込み上げた。だが、それを心の奥底に必死に戻した。

「はい。実は朝早く、通りで言葉のしゃべれない娘を見かけたという証言がとれまして、、」
「ハナは一人だったというのか?」
「ええ。拉致されていることはなく、一人でふらふらと町をさまよっていたと、、」
「それで?」

「ただ、シタールらしき男が後をつけていたらしく、、シタールの姿が多くの人間に目撃されています。」

シタールはガタイもあり、またその身のこなしも洗練されている。いつもサングラスをかけているその姿は、普段はとても目立つ。けれど殺し屋ともいうべきリドリーの腹心が、人の目につくように容易にその姿をさらすなど、果たしてそんな間抜けなことをするだろうか。いつものモーセならそう思ったに違いない。だが、今は、ハナの安全を確保するのが先だ。

「それで、ハナは今は?」
「ハナさんの姿は確認できてませんが、、ただ、シタールの居所を部下が追っていたところ、シタールが居所を掴んだという情報です。ハナさんは、サビーンさまの勤務なさっている大学病院に向かっているらしく。」

「わかった。」

モーセはラビの言葉が終わるか終らないうちに部屋を飛び出していた。彼の背中にラビが叫ぶ。

「この女の始末は?」
「捨て置けっ!」

一言だけ聞こえたかと思うと、あっという間にモーセの姿は長い廊下から消えていた。

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