シークの涙
38.
屋敷の警備はかなり増員されていた。勿論外からの侵入者に対しては警戒はこの上もなく厳しくぬかりはない。だが、多くの目は外からの人間を監視することに集中していた。こんな日の光すらも未だ出てこず、薄白い時間から、中からよもや屋敷のものが出てくるなど思いもしなかっただろう。その上、この朝まだきの中、ハナのような小さな体がうっすらとした闇に溶け込むことなどわけもないことだった。警備の者たちに、任務怠慢と、その責を負わせるのは少しばかり酷なように思えた。
ハナは結局一睡もできなかった。心が不安で泣きたい気持ちになった。こんなことは初めてで、母や父を亡くした寂しい気持ちとは別だった。もどかしくて手に入れることのできないイライラとした気持ち、自分ではない人に愛情が注がれていく疎ましさ、、、ハナはこの汚い気持ちが自分の心から湧き出ているのが耐えられなかった。
ーーー俺の宝、、、
ハナとは似ても似つかない大人の女に愛情を注ぎ、彼の全身全霊の愛情を惜しみもなく与え、、ハナは一生彼から愛されることはないだろう。
(なのに、、、、)
ハナにキスをした男。
思い出してまた顔を赤くした。唇に指先をあてれば、モーセのぬくもりが蘇った。心臓がこの上もなく早鐘を打ち、いてもたってもいられなくなった。モーセは本当は優しい男だから、サビーンに頼みこまれたハナを露頭に迷わせることはしないのだ。本当はモーセ自身が命を狙われているかもしれない、そして彼の大切な人を守らなければいけない、そんな深刻な局面でさえ、オマケのハナの心配もしなくてはならないのだ。
彼の宝になれないのならば、せめて、迷惑だけはかけたくない。
ハナの心は決まった。日本に帰ろう。その前にサビーンに少しだけ心のうちを明かして楽になりたい。サビーンならきっとわかってくれるだろう。これからのこともサビーンに相談すればいい。日が昇るまでもう待てなかった。サビーンは研究や論文で病院で寝泊まりすることも頻繁にあると言っていた。うまくいけばきっと会えるだろう。往来で、人に聞けば、有名な大学病院だ、きっと難なくたどり着けるだろう。そう思い、スケッチブックとペンだけを手にして、屋敷をそっと後にした。夜がもうすぐ明けるのだろう。うっすらと暁が空を染めていく中で、屋敷の外にはたくさんの警備員がうごめていていた。ハナの小さな体は簡単に夜明けの闇に溶け込んでいく。彼女は音もたてずに歩きながら、屋敷の外へと出ることに成功した。
*****
トボトボと丘をずっと降りていき、30分ほど歩くと繁華街にでた。繁華街までの道は、ハナもよく知っている。運転手のサファールに、何度も連れてきてもらったからだ。まだ夜明けだというのに、多くの人たちが忙しげに働いている。
<あの、、、>
一人の人を捕まえて道を聞く。忙しそうにしているのに、ハナが言葉がしゃべれないとわかると親切に足を止めてくれた。
ペルーシア国立病院 というペルーシア語で書かれた紙を見せた。
『~iv ◎ ●~coel^^^』
何やらわからない言葉で笑顔で答えてくれる。ハナにとって誤算だったのは、相手に自分の意思をわかってもらえても、その人が話してくれることが、まったく理解できなかったこと。困った顔をしたハナに、人は、また通りすがりの人を呼び、気が付けば、たくさんの人がハナの周りに集まってきていた。
『0△△00niovvge nau●』
『『△00△xx! ivavvze』』
ハナは焦る。勘がいいと自負していたのに、彼らが話すことが全く理解できないのだ。けれど人々のハナを助けたいという気持ちだけは伝わってきた。そして、その優しさはますます人を呼び、膨れ上がり、ハナの周囲には親切な人々で、ぎっしりと埋め尽くされていた。
<まだバスが走ってないんだよ。病院行きのバスはまだなんだ。>
いきなりハナの目に飛び込んできた、手話の動き。
<あ。>
少年が優しい顔でハナに信号を送る。
<本当はバスを乗り継いで病院へ行くことはできるけど、、アンタは言葉がわからないから無理だよ。大学病院の直行バスの始発はまだなんだ。朝早いから、、みんな心配して、バスが走るまで、自分の家で待てばいいと、口々に言ってるよ?>
<え?>
何て心優しき人ばかりなんだろう。ハナの胸が熱くなった。
<どうする?>
<タクシーは?>
<もったいないよ。もう少し待てば病院行のバスの始発がでるぜ?』
身なりからするとあまり裕福とはいえない少年だ。だが、彼の奏でる手話は、英語の手話であり、どこでそんな手話を覚えたのだろう。ハナはふとそう思う。
<どこで手話を覚えたの?>
<俺の妹もしゃべれないんだ。>
<え?>
<でも、手術すれば、、、きっと。前にアメリカ人の医者に言われたんだ。だから、俺、その日のために、英語で手話を覚えた。きっと手術のときに役にたつから。>
少年は嬉しそうに笑った。妹を思う優しい兄の気持ちが、今のハナには羨ましく思えた。今のハナには誰もいない、そう思うとみぞおちが又チクリと痛くなった。
<で、病院に行きてえのはわかった。だから俺がちゃんと乗せてやる。けどバスの始発まで、まだ、1時間くらいあるんだ、、どうする、、?>
少年は心配そうにハナの顔を見た。周囲の人だかりも心配そうにハナを未だ見守っている。
<よければ、俺んちで待つ?妹と話してやってくれれば喜ぶし、、>
無理強いしないようにと、優しい手つきで、ハナに手話で聞く。ハナはすぐに大きく頷いた。
『OK!』
少年が大きな声で叫んだかと思うと、周りの人にハナをさして何事か怒鳴った。
『Vvevieivieriekwkerkr eieiie,]eieie!*(心配すんな、この娘は、俺んちでバスを待つってよおっ!)』
少年の声を聞いて、周囲の大人たちは安堵して、少しずつ人垣が崩れていく。ハナにさよならをするもの、まだ心配気に見てくれる人、振り返り振り返りながら、みんなその場を離れていく。みんな朝の忙しいひと時に、、何て優しい民族なのだろうか。
<さあ、行こう!あっ腹すいてないか?>
手話は慣れているらしく、自分の言葉のように流れるように手が動く。ハナはクスリと笑った。
<わたしは耳は聞こえるわよ?どうして手話でしゃべるの?>
<ああ?!>
丸く大きな瞳がくるくるとなって、そしてクシャリと細められた。
<俺、英語しゃべれねえし、あんたもペルーシア語、わからなさそうだし。英語の手話しかできねえから、、、>
二人はゆっくりと歩き始めた。
<わたし、ハナ。ありがとう。助けてくれて。>
<お、俺は、ダリオ。喜ぶぞおお、エティのヤツ!>
<妹さん?>
<うん。エティは小さいとき、、喉を傷つけちまって、、それ以来、、、>
少年は悲しそうにゆっくりと手を動かした。ハナにはそれだけでダリオが妹の声が出ないことで、どれだけ心を痛めているのかを感じていた。
二人はトボトボと歩きながらいろいろな話をしていく。やがて景色がバラック小屋や廃墟などがある密集地帯に変わっていた。ハナの見ていたペルーシア王国は、とても豊かで美し街並みばかりだったのに、、、そこはゴミのようなツンとする臭いが鼻をつき、その臭気にハナはくらりとなった。痩せ細ったネズミがバタバタと動き回るのが見えた。やがて細い路地に入った。角を曲がるとき、ダリオはチラリと後方を見た。ダリオが先ほどからずっと気になっていた黒塗りの車は、まだ二人の後ろについていた。窓ガラスまでも黒づくめのSUV車がゆっくりとした走行で、ずっとハナたちをつけているように思えた。だがハナたちが曲がった路地は、あまりに細すぎて大きな車は曲がれない。黒塗りの車は、路地手前でその走りを止めた。ダリオはそれを見届けてゆっくりと安堵の息を吐いた。
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