シークの涙
39.
ダリオに案内された建物は、廃屋のビルの一角で、人の住まいと呼ぶにはあまりに荒んで見えた。けれど、どこからか拾って集めてきたような木の箱や壊れた椅子を組み合わせて、おままごとのような部屋ができていた。そこにチョコンと座っていた女の子がハナを驚いた眼差しで見上げている。年のころは、10歳くらいか、金髪を短く切られていたが、その長さは少しばかりちぐはぐだ。おそらくダリオが切ってあげたのかもしれない。顔の作りはダリオによく似た大きな瞳が印象的で、とても愛くるしい表情をしている。ハナは思わず満面に笑みをたたえて手を動かした。
<こんにちは、ハナよ。あなたは?>
ぽかあんと口をあけてびっくりしてエティは兄を見た。
<道で迷ってた。ハナも喋れないんだって。>
ハナは黙って優しく頷いた。エティの瞳がキラキラと輝き始めた。目の前にいる自分とは瞳の色も髪の色も肌の色も違う、少しだけ年上らしいハナが、エティは大好きになった。すぐにハナにまとわりついてきて、手をちまちまと動かしておしゃべりを始める。
*****
ダリオが、くたびれた蘭々茶を入れてくれた。
<わりい、、なんか出がらしみたいで、、>
頬を赤く染め、そんなことを言うダリオの差し出すカップから、湯気がたちのぼる。タマール夫人がいつも入れてくれる蘭々茶は、濃いレンガ色のような艶のある色をしている。湯気からは甘い果実の香りがほんのりと香る。だが、今目の前にあるお茶はうっすらと茶がかかった白湯のようだった。恥ずかしそうに気まずそうにダリオとエティの瞳がハナの様子をうかがっている。ハナは迷いもなく欠けたカップを手に取って、火傷をしないようにそっと口につけた。
<美味しい。>
ハナは口の前でキツネを作り、それを投げキッスするように上へと動かした。
<<オイシイ>>
二人も同じように、口のあたりで片手でキツネを作り、前のほうへ差し出して、ダリオとエティは顔を見合わせて、ワッと笑った。ダリオの入れてくれたお茶は二人の笑顔とともに、ハナの心をほっこりと温かさで包んでいく。モーセのことも、この切ない想いも、今は、この優しいお茶が癒してくれるようだ。
<おっ、ハナ、そろそろバスが出るけど、行くか?>
<あ、、そうね。>
<ハナおねえちゃん、また来てね。>
エティは、痩せ細った腕を力いっぱいに振ってハナと別れを惜しんだ。
<ちょっと、、ハナ?>
ハナが椅子から立ち上がった途端ダリオが思い出したように声を出した。
<ハナ?誰かに追われてる?>
<え?>
<心あたりないか?>
ハナは眉間にシワを寄せた。ダリオはスッと、窓際に寄った。
<あっ、やっぱいる。外に怪しいサングラスの男がうろついてる。>
割れたガラスに汚いペラペラのビニールが覆われ、その周りをダクトテープでべたべたと張り付けてある。端っこのテープをはがして、ビニールを少しだけぺろりとめくって、そっと外の様子をうかがった。
<ほら、まだ、いる。>
ハナもそこへ寄って、ダリオの指差す方を見た。
すごく大きな男だった。長い髪の毛が腰までありそうで、そんな姿なのに真面目くさった黒のスーツがよく似合う。顔には真っ黒なサングラスをかけていて、ハナが本や映像で想像するような殺し屋という風貌だった。
(殺し屋?)
自分で思い描いておきながらハナは、はっとした。
『狙われているかもしれない。』
モーセの言葉を思い出した。ハナはぶるりと体を震わせた。モーセの人生にとってハナはオマケのような存在だから、よもや自分を狙っていると思わないが、殺し屋らしき尾行者の目的がわからなかった。ダリオやエティに危険があってはならい。どうするのが一番いいだろう。ハナの頭は高速でフル回転で動いていく。
<ハナ、俺がアイツを引き寄せとくから、ハナはそのスキにバスに乗って行け!>
<で、でも、、、>
<いいか?ここからまっすぐ行った先に、ヨースの家がある。すぐわかる。まっ黄色の壁だから。そこんちが、ミニバスを運転するヨースだ。そこへ行って乗せてもらえ。>
ダリオはサラサラと、文字をしたためた。たくさんの蛇がくねくねと踊っているような美しい模様に見える。ペルーシア語だ。
<アンタがしゃべれないことと、ペルーシア国立病院まで乗せてってくれってこと、ここに書いたから。大丈夫!ヨースは俺のダチだから。>
早い動きで手を動かしたダリオは、今度はエティに向かって言った。
『っvvmaru (お前はここにいろ!)』
エティはダリオに飛びついてきた。小さな頭をぶんぶん振った。
<一緒に行く。一緒に行く!>
心配なのだ。ダリオがいなくなったら一人ぼっちになってしまう。ハナは胸が痛くなった。何だか小さな体を震わしているエティが、自分の姿と重なった。
<わかった。エティ。さ、ハナ、裏から出ろ。俺は5分後表から出る。裏から出たら、すぐ左へ曲がれ。そこからまっすぐ行けば、わかるから。>
ハナは腹を決めた。ダリオなら大丈夫、なぜかハナはそんな風に思った。小さい頃から愛しい者のため、守るため必死になって生きてきた、そんなダリオなら、きっと大丈夫。その上、もし不審な男が殺し屋だとしても、狙いはハナかモーセなのだから。ハナは自分に納得させるように無言で頷いたあと、ひらひらと手を振った。そして、両手を広げて、右手の甲を曲げてチョンと左手の平に着地した。
<バイバイ、またね。>
ダリオもエティも嬉しそうに頷いた。きっとまた会える。若い笑顔はそう言っている。ハナは後ろを振り返らず、そっと裏口へと走った。
*****
/チッチッチッ/
古ぼけた今にも止まりそうな針が、時間を告げる。
『行くぞ、エティ! 走れっ!』
廃屋のビルから、サングラスの男の前を二人は脱兎のごとく走り出した。ここは、ダリオたちの裏庭だ。あんな大きなSUVが走ることのできない、クネクネとした細い道ばかりを選んで走っていく。サングラスの男は、突然のことで、走り去っていく姿にハナがいると思い込んだようで、一瞬、遅れて走り出した。
『エティ、大丈夫かっ?』
12歳のエティは必死になって走った。走るのは平気、でも息がはあはあとなって喉がヒューヒューと鳴った。
『うわっ!』
てっきり後ろから追いかけてくると思っていたダリオの前に、男がいきなり、ぬっと姿を現した。男は素早くエティを捕まえる。
『俺を侮ってもらっちゃ困るな?俺だってこのスラムは庭だったんだぜ?坊主?』
『離せ!エティを離せっ!』
『ん?アイツはどうした?東洋の娘は?』
即座に、この少年たちがおとりだったことを理解した男、シタールは、ひょいと猫をつまむようにエティの軽い体を高々とあげた。
<ううう、シューシューうううう>
エティは声を力いっぱい叫んでも、声がヒューヒューとなるだけだった。シタールは自分の抱えている少女のパクパクとした口を見て、眉をあげた。
『ふん、お前も声がでないのか、、、』
『エティを離せっ!離せっ!!』
ダリオは自分よりも遥かに高くそびえたつシタールに飛び掛かろうとするが、シタールの敵ではなかった。片手でエティを抱っこしながら、もう片方でダリオの頭を押さえつける。
『いいか?小僧、よく聞け!お前の大切な妹は、今は声がでないだけだが、お前の答えいかんによっては、歩けなくなるかもしれないぞ?』
声のトーンは低く脅すようなのに、その口調はいたって穏やかだった。だからよけい恐怖が増す。その黒いサングラスに隠れた瞳がどんな色をたたえているのかわからず、それが不気味に思えた。どのくらい時間がたっただろうか、、、ハナは無事に病院に着いただろうか、、、ダリオは両手をゆっくりとあげて、息をついた。
『わかった。教えるよ。』
『嘘をついても無駄だぞ?俺は人の嘘を見破れるんだからな。』
ダリオは、サングラス越しからでも、じっと見つめられているような気がしてブルリと体が震えた。シタールの言うことが本当か否か、その真偽はわからなかったが、シタールの静かな口調には逆らうことが無意味であるという圧があった。
『ペルーシア、、の病院、、』
『国立大学病院のことか?』
ダリオはうなだれたように、ただ頷いた。シタールの薄い唇がニヤリとあがった。エティを抱えたまま、背広の内側のポケットをまさぐる。
殺される、、ダリオが目を瞑ったとき、機械音がピッピッと連続して聞こえた。
『え?』
シタールは携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
『俺だ。娘はどうやらペルーシア国立病院へ行ったらしい。』
朝の風景の雑踏の中とはいえ、シタールのその声は、とても大きく、まるで誰かに聞かせたいかのような声音だった。この男には似合わない大声を出し、通話を切った。そしておもむろに抱いていたエティをそっと地面におろした。その仕草はとても優しげにみえた。
/ダッ/
エティの前にダリオがたちはだかって、シタールを睨んだ。
『ふん!威勢がいいな?だが、もうお前らに用はねえよ。』
くるりと踵を返した。
『坊主、お前の妹を守りたいって気持ち、忘れんなよ?守りたいヤツがいるってえのは、いいもんだぜ?』
そんなことを背中越しにボソリと言い残し、手をひらりとあげて去っていく。カツカツカツとピカピカの靴が地面を鳴らし、やがて二人の視界から小さくなっていった。
電話でのシタールの大きな声は、ここでずっと彼を尾行していたラビの配下の耳にも難なく届いた。お蔭で苦労することなく、ハナの居所をつかめたわけだ。一人があわててラビに連絡をいれた。
<お兄ちゃん、ハナお姉ちゃん、着いたかな?>
<ああ、大丈夫だ。もうとっくに着いてるって。>
二人は無言の中、手だけをせわしなく動かしていた。ダリオの手がエティの頭をなでると、エティの温かいぬくもりが戻ってきた。
(よかった、、、)
ダリオは妹を守れたことにほっと息をはいた。あとはハナが無事に病院につくことだけを祈ろう。
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