シークの涙

4.


祖国に機が無事に着陸し、機内のサインが全て消され、乗客は降りる準備を始める。通路側にいたモーセは隣に見向きもせずに、さっと席をたつ。後ろでけたたましいマダムの声がした気もするが、無視をして前を進む。熱い視線を送っているのは、アブデルワヒ エアーラインのクルー達だ。

「「「シーク、またのご利用をお待ち申し上げます。」」」

乗務員全員、極上の笑みを浮かべ、シークが通るたびに頭をさげる。いつもの風景。ボーディングブリッジを通って通路に出れば、すでにラビがモーセを待ち受けていた。ラビはどこにいようとも、必ず、モーセよりも先に降りて待っている。いつだってエコノミーの座席に座っているはずなのに、いったいどんな手を使って、エグゼクティブよりも先に降りているのか、凡人には一生理解できない世の裏のしくみ。
「何かご不都合はございませんでしたか?」

おそらくラビは、あのマダム ヤンスが機中でモーセの邪魔をしなかったか否かを懸念して聞いているのであろう。

「ああ。良好だった。」

モーセは例の少女の事には特別触れず、またラビも頷いたまま何もしゃべらず、2人は無言で入国審査チェックへと歩き出した。審査チェックを終えたところで、ラビは口を開いた。

「ミスター ワースリントンが、是非ともお会いしたいと。」

ワースリントンというのは、もとは産業革命時代、アメリカ一の鉄鋼会社だった。現在ではドイツの投資家との合弁会社となっているが、それでも、名門ワースリントン家が息子代々に受け継がれてきた資産家の企業なのだ。

実は今回のNY行きで、この氏との会合も予定に入っていたのだが、ワースリントン氏から急に会合延期を告げてきた。というのもペルーシア王国への急遽出張が決定したらしく、行き違いとなってしまったというわけだ。ラビが申し出たのは、今現在、氏もこの空港にいるらしく、NY行きフライトで帰途する前に、モーセと会いたいという連絡が入ったというのだ。

「断る理由もなかろう。」

疲れも見せずにモーセはそう言った。現在王国の国営鉄道へのワースリントンスティールカンパニーの参入話が進んでいる。これが締結すれば、双方の多大な利益は約束されたものとなる。そこにモーセも投資家として話にのって損はない。勿論、ワースリントン氏は、モーセに仲介人になってもらい、王国との橋渡しをしてもらいたいとも考えている。

「わかりました。」

ラビは携帯を取り、会合の算段をつける。

そのとき、例の少女がやっと入国審査を終え、2人の前を通り過ぎる。少女は、モーセに気がついて、通り過ぎるときに、頭をペコリとさげた。キレイな黒髪がさらさらと音をたてたように流れた。その美しい流れに、ほんの一瞬だけ、モーセの瞳にその少女の姿が映し出された。だが、すぐに、モーセは何事もなかったかのように歩き始めた。ラビは少女の姿を追っていたので、一歩だけ、モーセに出遅れた。珍しい事だ。だが、ラビもすぐに歩を早め、やがてモーセを案内するように通路を急いだ。


*****

会談というか、話し合いは概ね順調だった。お互いの利益が一致する。こうなると回りくどいことの嫌いなシークが主導権を握る。ワースリントン氏も概ね合意し、思ったよりも早くに切り上げた。勿論、モーセ自体、旅の疲れもあるので、『time is money』と言わんばかりに、短く終わらせようとしていたのは事実だった。



アブデルワヒ航空会社のVIPラウンジを出て開口一番ラビが頭を下げた。

「今回の日程中、色々不手際があり申し訳ありませんでした。お疲れのところ誠にすみませんでした。」

ラビの詫びはいつだって心の底からでるもので、ウワベだけではない。そんなことはシークはちゃんとお見通しだ。その上、今回の度重なる不運は、ラビのせいではない。

「お前のせいではない。」

一言だけ告げた。ラビはモーセに道案内をするように先に歩きながら携帯で運転手を呼びつける。シークが空港出口に着いたらすぐに、乗車出来る様にと、いつものようにぬかりはない。足早に歩く二人が、空港の出入り口にさしかかったとき、同時に目に飛び込んできた、あの少女の姿。先ほどの少女とはうってかわって、所在をなくし心配そうで顔色も悪い。シークは無視して、すぐに車に乗り込んだ。ラビは、一瞬躊躇して、少女に声をかけた。その少女には何故かラビはほっとけないようで、ラビの普段とは違う態度が実に珍しいことだと、シークは興味深い。

「お迎えがこないのですか?」

ラビが英語でゆっくりと告げた。少女は口に事情をかかえていたが、耳は聞こえるはずだ。だが、彼女は、口を真一文字に閉ざして警戒色を顔に浮き彫りにさせた。ラビはこの上もなく優しい笑顔を浮かべる。十中八九、今までの女性ならみんなラビが大好きになる笑顔。それなのに、相変わらず、少女は何も言わずつっ立ったままだ。ラビは時計を気にする。シークを待たせていることに変わりはない。そのとき、ツーーっとシークの高級車の窓が開いた。窓から、長い指先が3,4本出ていて、こちらに来いと手招きをしている。少女はその指先をじっと見つめていた。ラビがシークの乗っている側の窓に歩き始めると、少女も何かにとりつかれたように、一緒についてくる。

「どこに行くのだ。」

太くて力強い、けれどどことなく艶のある声が聞こえた。少女の顔が、ぱあっと明るくなった。飛行機の隣人だと認識したに違いない。少女はポケットから小さくたたんである紙片を、シークに渡した。そこにはシークがよく見慣れた文字で書かれてある。

【ペルーシア国立病院 神経科、ドクター サビーン・エリアス】

モーセは渡された紙片に目を通して、おやおや、と顔をして、それをラビに渡した。

「これは、これは、」

ラビも思わず声をあげた。

「乗りなさい。わたしはもうクタクタで家に早く帰りたい。」

有無を言わせない口調だ。先ほどまでラビに向けていた少女の疑心暗鬼な空気はすでに一掃されている。彼女の顔には安堵と恥じらいが浮かんでいた。やせ細った手を、頑丈な高級車のドア取っ手にかけた。重すぎるドアは、彼女の力では無理のようで、ラビがあわてて、ドアを開けてやる。少女は驚いた顔をモーセに向けた。それもそのはず、高級車とはいえ、シークの乗るラグジュアリーカーはそんじょそこらの高級車とはケタが違う。ウィンドーは黒い色つきの防弾ガラスで覆われているので 中は薄暗い。革張りのシートのために、少しばかり革臭い匂いがハナを突く。何人座れるのだろうか、そんな風に少女がおもっているくらいに、中は広い。そこに、モーセがどっしりと座っていた。本当は、モーセ側に座ろうとしたのだが、モーセは自分の座った位置から動かなかった。しかたなく、少女はモーセの真向かいに腰をすえた。ラビは少女が座ったのを確認して、助手席に乗り込んだ。モーセお抱えの運転手は、スッと滑らかに車をスタートさせた。心配だったので、ラビは後部座席との間仕切りの防弾ガラスを半分ばかりおろしておいた。万が一にも少女がシークに面倒をかけたりしないように。直後、低い笑い声がした。ラビも驚いたのだが、少女は、もっとびっくりした顔を向けた。シークの瞳が細められ、彼は面白そうにくっくっと笑っていた。

「フフフ、愉快だ。いつも人あたりのよい、お前が、アブナイ人だと思われて、この子に見向きもされない。逆にいつも人から恐れられている、このわたしの一言で、この子の警戒がとけるなんぞ、愉快じゃないか?はははははははっ。」

確かに不思議な少女だ。ラビは見た目も美形だ。モーセの言う通り人当たりもいい。ラビご自慢の笑顔を振りまけば女性達の心はイチコロだった。反対に、モーセは確かにこの上もなく美しい容姿をしているが、そのカリスマ性から、人に恐れられる事が多い。初対面の人間など、今にもちびりそうになるのだから。

モーセの顔の前に、いきなり華奢な人差し指が出された。少女は、それは違いますよ、というように、人差し指を左右に振った。

「む。」

少女のカバンからスケッチブックが出されて、サラサラと文字が書かれていく。

【あなたの瞳は優しくて温かい。】

続いて、【ありがとうございました。わたしの名前は、ハナです。】と紙に文字が増えていく。名前を書き終わった後でコクリと小首を傾けて、じっとシークを見つめた。つまりは、あなたは? とでも聞いているのかもしれない。ラビが息を吸ったより早く、低い声がその場を威圧した。

「モーセだ。」

少女はコクリと頭をさげた。今度はどうぞよろしくお願いいたしますとでも言っているようだった。車内の会話はそれだけだった。ハナと名乗った少女は、後ろ側に駆け抜けていく初めて見る景色に心を奪われている。大きな黒い瞳が一段と大きくなっているようで、アメリカのアニメでもでてくるような小動物キャラのようで、可愛らしい。確かに、飛び交っていく景色は、ハナには珍しいのだろう。ここ首都、ナイヤリは、西洋諸国顔まけの高層ビルが立ち並ぶ。だが、その高層ビルのひとつひとつの形、デザインが実にユニークだ。四角いマッチ箱がひしめく冷たい喧騒街ではない。まるでおとぎの国に迷い込んだように、らせん状や三角やら、ジグザグとした形やら、昔、ハナが絵本で見た記憶の街並みだ。そして黄色ピンク青と言った色彩が青い空に向かって一斉に登っていく。黙って静かに飛んでいく色鮮やかな景色を、黒い瞳に焼き付けていく。ラビは、気になってチラリチラリと後ろを見たりする。だが、モーセは目を瞑り目的地まで開けるつもりはないらしい。勿論、一度だけ、あまりに静かな少女の動向が気になって、そっと瞳をあけてハナを見た。それからは、瞳はずっと閉じられたままだった。

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system