シークの涙

40.

朝焼けの中、サビーンが勤める大学病院の表玄関は、まだ固く閉ざされていた。朝早かったため、ダリオの友人、ヨースのミニバスはハナの貸切状態となっていて、思ったより早く着いてしまった。

『乗客がいねえから、裏門にまわってやるよ。』

ヨースはハンドルの手を休め、大きく身振りてぶりで説明してくれていて、何となくハナは理解する。親切にハナを裏門で下してくれ、彼はものすごい排気ガスの臭いと煙をたてながら去って行った。ハナは門に近づいて、守衛小屋の小さな窓ガラスをたたいた。中で居眠りしていたのか、老人がゆっくりと顔を出した。

<あ>

ハナは思わずにっこりと笑った。数回訪れた時に、顔見知りになった守衛だ。向こうもハナのことを覚えてくれていたらしい。

『サビーンxx◎?』

サビーンという名前が聞き取れて、ハナは嬉しそうに首を縦にふる。

『genuen eueevv ekcukv ○◎ vv(今日は普通通りにいらっしゃる予定だから、10時過ぎるよ?)』

言っていることは少しもわからなかったが、おそらくサビーンはいないことが、守衛の身振り手振りからでわかった。失望に、ハナの顔が悲しげになった。こうなれば、なぜメールでも打っておかなかったのだろうと、後悔がたった。老人は同情するように優しく言う。

『turi,turi,genou,eenk tori ◎◎vv(ただ、早番の秘書がもうすぐ来るはずだから、そしたら、先生の部屋で待ってるがいいやな?)』

中に入れと言ったようで、彼は狭い部屋に置いてあった空いている椅子を指差した。よかった、、とでもいうように、ハナは胸をなで下ろした。守衛の爺さんは、自分のいる小屋をもう一度示した。確かに小さいけれど、余っている椅子もあり、もう一人分のスペースはありそうだ。ハナは深々と頭をさげ、その申し出に甘えることにした。





*****

ぽかぽか日差しが出てきたのか、ハナは硬い座り心地の悪い椅子に小さくなって、こっくりこっくりしていた。

/キイイイイイイイッツーー!!!!/

夢の中で、何かが爆発したような擦れたような音と、そして怒ってるような怒鳴り声が聞こえていた。がなっているような、雷のような、言葉なんてわかりはしない。音楽のような柔らかいペルーシア語も、こんな風な怖いゴツゴツした言語になってしまうのだ、などと夢見心地で、そんなことも思っていた。


『masariie!!kurop ierk ek!!!!』
『genow gennow,,,』


やがて、それは夢でないことがわかった。

「ハナ、ハナッ!ハナッ!」

何度も自分の名前を呼ばれた。その声は耳慣れているのに、何だか今日は緊張した声音のように思える。ハナは寝ぼけまなこで、ひょこっと守衛小屋の窓ガラスから顔を出した。守衛の老人はすでに、短気の来客の相手に小屋から出て、駐車場バーの側で男に詰め寄られていた。

<あ、、>

「ハナ、、」

目があった。いつものモーセではなかった。肩で優雅に揺れる髪も、整った顔も、ポーカーフェースの表情も、今はすっかり影を潜めていて、余裕の欠片すらもなかった。動揺したその顔つきも、肩で荒い息をしている様子も、あせってシャツの裾がズボンからはみ出ている格好も、まるで何もかも投げ出して、ただハナだけを探しに来たようで、、

「ハナ、無事だったのか?何かされたのか?どうして、、なぜ、、」

モーセは駐車場のバーを越え大股でハナのいる守衛小屋に近づいてくる。矢継ぎ早の言葉はハナの不安を駆りたてた。言葉をちゃんと聞こうと思っていたのに、何かに腕を強く引っ張られ、、、、抱きしめられた。彼の鼓動の音がドキンドキンと耳を痛いくらいに刺激した。

「なぜ、、ああ、ハナ、、」

モーセのつぶやきは、掠れ、安堵の息さえも感じる。たくましい腕が、華奢で小さなハナをしっかりと抱きしめていた。モーセの匂いがいっぱいにハナを包み込んでいる。何て居心地のいい場所なんだろう、、ずっと眠れなくてモンモンとして夜明けを過ごし、、日本に帰ろうとまで思ったハナの気持ちなんて、この胸の中では一瞬にして吹き飛んでいく。もうどうでもいい、、モーセの大切な人になれなくても、宝になれなくても、そんなことはどうでもいい、、、この安心できる胸が、今は、ハナのもので、ハナだけが独り占めしている、、それだけで十分だった。

熱い息が耳元にかかった。少しだけくすぐったくなって、ハナはそこから逃げようともがく。だがモーセの強い力が、それを許さなかった。鋼のようにたくましい胸が、先ほどよりぐっと迫りハナを圧迫する。息苦しくなってハナは顔をあげた。

<あ>

モーセの優しく安堵した瞳。初めてかもしれない、、いや、、知っていた、、きっと彼はこんな表情も出来るのだと、、、知っていた。

「ハナ、俺の心臓を止める気か?」

モーセは声を固くした。そして彼の唇が下りてくる。だが、、、

「む、、、」

モーセの唇に柔らかいハナの手のひらがあたった。

<モーセ>

ハナは拘束されている体から力を込めて必死に言葉を伝えようとする。モーセの胸をトントンと叩いた。

「俺か?俺がどうした?」

指をさす。彼女の指先を追えば、乗り捨てられたモーセの黒い車があった。ハナは、それから、ぎくしゃくしながらモーセの腕の中で、両手でハンドルを握る仕草をした。

<あなたが、運転してきたの? 一人で?>
「そうだ、お前に、、何かあっては困る。」

尊大にむっとして答えた。いつものモーセがそこにいた。ハナはびっくりしたまま、目を見開いた。いつも運転手を従えて、後部座席でゆったりと座っているモーセしか知らないハナにとって、その事実は信じられない驚愕する光景に思えた。

「なんだ、悪いのか?俺が運転しては?」

まったくその通りだと言わんばかりにぶんと下げたハナの頭が、思いっきりモーセの鳩尾にあたった。

「う、、」

さすがのモーセも、不意のことで痛みを隠せず、眉間にしわをよせた。ハナはそのまま固まったまま動けない。

流れた気まずい沈黙、、、だが、、


「ハ、ハハハハ、アハハハハっ、」

突然のモーセの大笑いは、駐車場番小屋の外で二人を見守っていた守衛の耳にも届く。彼は老いていく己の耳を疑ってしまった。

「アッハハハハ」

まだ笑い続けているモーセにやっとハナが我に返った。目の前で笑い続けている男の瞳が珍しいことに、まったくなくなるくらい目を細め、真っ白な歯を見せながら本当に嬉しそうな顔をしている。ハナの鼓動がトクリと跳ねる。何だか知らないけれど、胸が熱くさえなる。目から零れ落ちていくもの、、、

「、、、、、」

モーセの笑い声が止んだ。急に静寂が蘇り、ハナの耳が心細くなった。涙で潤んだ瞳をモーセに向ければ、モーセの真剣な瞳とぶつかった。

「何故、泣くのだ?ハナ、、」

モーセの大きな手のひらが、ハナの顔を優しく包む。ハナはびっくりした顔で大きな瞳を見開いている。おそらく自分が涙を流していることさえ気がついていないのだろう。潤んだ黒い瞳がモーセに向けられ、彼の鼓動も、ドクンと不協和な音をたてた。

思わず我慢ができなかった。モーセはもう我慢するつもりもなかった。本能のまま、欲するままに、ハナの頬を両手で包んだまま、そのかわいらしい唇に自分の顔をおろしていく。

ハナのぼやけた視界に、それでもうっすらとモーセの顔が映りこみ、すぐに黒い影が下りて一瞬でモーセの顔が視界から消えた。

<あ、、>

モーセの唇がハナをとらえる。

そこにはモーセを満足させる感触、甘さが、あった。あれ以来、ハナの唇を奪って以来、もう一度欲しかったもの。枯れた土壌が水で潤っていくように、モーセの飢えかけていた心が、ハナの温もりで満たされていく。これがほしかった。心が叫ぶ。モーセがずっと求めていたものが、ずっと欲していたものは、これだったのだ。二度目のキスで確信に変わる。

互いにふれ合った唇が燃えるように熱かった。

ドキンドキンドキン、息もするのが苦しくて、のどから心臓が飛び出しそうなほど、ハナの鼓動が激しくなった。けれど、苦しくても、どんなに息苦しくても、モーセの熱を感じていたい、、そんな思いが伝わったのか、モーセの唇はハナを解放することなどなかった。それどころか、熱がますます帯ぎ、激しくなっていく。それに必死についていくように、ハナの唇もまた情熱的に彼の唇に押し付けていく。

だが、、

「ハナ、、口を開けなさい、、」

見かねたように、モーセがささやいた。ハナは息をすることすら忘れ、執拗にモーセの口づけに応えようと必死だった。

「息をしないと、、窒息するぞ?」

からかうような、それでいて優しい声音。思わずうっとりしながらハナは顔をあげた。ハナの瞳は、涙の跡はもうなかったけれど、熱を帯びているせいかその瞳は深い色をたたえ潤んでいる。ハナのぼおっとした頭は、いつものような働きを見せない。

「どうしたのだ?」

モーセの低い声が遠くで聞こえたような気がした。モーセの腕をしっかりとつかんでいるハナの手がゆるりと力が抜ける。

/ずるっ、、/

「ハナ?」

ハナの体から力が抜け、ズルリとその場に崩れ落ちる寸前、モーセの腕の中にしっかりと抱きあげられた。たくましい体にすっぽりと小さく納められたハナの体は、世界中で一番安全な場所にいるように見える。

守衛小屋はただでさえも狭いのに、モーセの存在だけで圧迫感と息苦しさで、ますます身の置き場がなかった。年老いた守衛は、ずっと小屋の外で二人の様子を一部始終を見守っていた。ハナを大事に抱えたモーセが小屋を出る。ジロリと守衛に一瞥をくれる。

『gorik Mohsen Moini berik ! ni moui kuvvii!!(わたしはモーセ モイーニ。このことは他言無用だ。)』

低く凛とする声は、威圧するには十分だ。守衛はゾクリと背中を震わせる。モーセは、長居は無用とばかりにすぐに車へと乗りこんだ。

あっという間にエンジン音がたち排気ガスを少しだけ吐き出したかと思うと、黒塗りの車はあっという間に朝の陽ざしへと消えていく。年老いた守衛は、あれが、かの有名なトリパティ部族のシークであることを確信する。彼がお付きの人間を一人も連れず、自ら運転してきたことに興味を覚えたが、すぐさま頭を振った。詮索は無用。老人はモーセの言葉をもう一度心に刻み、やっと自分の居場所に戻れる嬉しさにひたることにした。守衛は小屋に入り、何事もなかったように椅子にゆったりと座った。

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