シークの涙

41.

ハナはどうやらすっかり体力を使い果たしてしまい、疲労から高熱が出てしまった。3日3晩、ほとんど眠り続けていた。サビーンの見立てでは、精神的からくるものだから心配することはないということだったが、それでも念には念をということで、サビーン自ら、友人の内科医師を呼びハナの診断を依頼した。勿論、彼もまた、『要安静・養生』だが心配なしという太鼓判を押してくれ、一同、ほっと胸をなで下ろした。

その後、順調に回復したものの、モーセのから外出禁止令を正式に言い渡された。


【で、でも、わたし、ちゃんと書置きしました。サビーンの病院に行くって、、】
『伝言とは、人の目にふれて初めて役目を果たすのだ。』

容赦なくモーセにピシャリと言われた。



あのときは唐突にサビーンに会いに出かけることを思いついた。ハナ自身、どうすればいいかわからなかったわけで、、朝が待てず、そのまま屋敷を飛び出したものの、唯一残された理性が、『書置きすること』をハナに思い起こさせた。だから、屋敷のものが心配しないようにと、走り書きでメモの端キレを残しておいたのだ。ハナにしてみれば、先ほどのモーセの言葉は言いがかりに過ぎないと思わず文句が出そうになる。だが運の悪い事に、置いた場所が悪かったのか、タマール夫人が部屋に入ってきたときの扉の風圧なのか、あるいは、夫人の目に飛び込んできた空のベッドに慌てふためいたせいなのか、メモはひらりとどこかに落ちてしまったらしい。勿論、確かにメモの走り書きは見つかったが、それはすべて事後のことだ。

『あんな夜明けに屋敷を抜け出すなど、常識で考えたら、どんな騒ぎになるかわかるというものであろう。』

モーセの言葉は正論だ。ハナがモーセに抱えられ、屋敷に戻った時のみんなの顔を彼女は思い出した。サビーンも、ラビも、タマール夫人も、執事もシェフもメイドたちも、みんなみんな疲労の色を抱え、やつれ果て、でもハナの顔を見て一様にほっとし安堵の色をたたえ、人々は優しく微笑みかけてくれたのだ。だから、今、モーセに言われた言葉に、ハナは何も言えなかった。書置き云々の前に、配慮が足りなかったのだとハナは猛省した。

シュンとしたハナに、これ以上言葉は無用だと、ただ一言、モーセが放った言葉に、熱に浮かされながら寝台に横たわったまま、ハナは耳を傾けていた。

『悪さをしたら罰を受けることだ。』

『罰』という言葉にハナは固まった。だがいつもの口調のモーセの声を聞きながら、ハナは固まったまま眠りの底へと潜り込んでいった。




*****

/カチカチカチ/
/パラ、、パラパラ、、/

書斎内に響くのは無機質な音だけ。キーボードをひっきりなしに叩く音と、時折、書類に目を通すため、紙をめくる音。ハナは気が付くと、PC画面から顔をあげ、そっと書斎デスクの方をうかがう。相変わらず整った顔が、表情も変えずに、書類の字を追っている。アーモンド形の目の周りには、長く濃いまつ毛で守られている。瞬きをするたびに、バサリと音をたてそうで、思わずハナは聞き耳を立てる。今またモーセを見つめ、ハナはそっと息をついた。こんな美しい男と年がら年じゅう顔をあわせることができるなんて、幸せすぎる。これが、いわゆるモーセの下した罰、、、らしい。



ハナの熱が下がり、すっかり元気になった頃、モーセに言い渡された。


『これから10日間、わたしは書斎で仕事をする。お前も一緒だ。』



つまり、モーセはすべての予定をキャンセルし、社には顔を出さず屋敷の書斎にこもって仕事をするのだと言った。ひいてはハナに仕事を手伝えと、そう命令が下ったのかとハナは思った。だが、実際は、ハナに何も手伝うことはない。日がな1日中モーセが書斎にいるときはハナも傍にいなくてはならない。トイレですら部屋からでることは許されず、書斎についているトイレで用をたすことになった。朝は一緒に朝食をとり、そのまま書斎に入る。昼になれば、食卓ではたっぷりと豪華な皿に舌つづみをする。勿論モーセも一緒だ。しばらく休憩を取り、また書斎へ向かう。午後のお茶の時間は、テラスで飲むこともあったし、また、書斎で嗜むこともあった。とにかく、いつもどんなときも、片時も離れずハナの側にはモーセがいるのだ。

ハナにとってこんな安心できる場所はない。すごく居心地がよくて、、、でもあの口づけを思い出すと、火が出そうなくらい顔が真っ赤になって心臓がバクバクとする。それなのに、モーセは普通にハナと接する。前と何も変わらない、いつものモーセだ。言葉は少ないし、精力的に仕事を続ける。ハナの存在など忘れているかのようだ。だが、、時折視線を感じることがある。ハナが視線をとらえれば、彼は、目を逸らさずじっと見つめ返す。いつもはうっすらとした綺麗な茶色の瞳が、ときどき熱を帯びたように深い色に変わり、ハナの心の中まで入りこむような強い眼差しを向けてくる気がして、そんなときはハナはあわてて目を逸らす。息ができないくらい心臓が速くなり、大きく深く息を吸わなくてはならない。

/ドンドン/『ちょっとおおっ!んもおお!』

ノックと同時にドアが開けられる。いつものようにサビーンが悪びれない様子で入ってきた。彼女はハナの容態が安定したのを見届けてから、あわただしく学会へと出かけて行った。今回はルクセンブルクまでの出張で、先ほど帰ってきたらしい。

「きゃああ、ハナ、元気になった?」

こんな広々とした書斎でも存在感をたっぷりと見せ付けるモーセを無視することが出来るとは、世の中広しといえどもサビーンくらいしかいないだろう。真っ先にハナを見つけ飛ぶように、チョコンと座っている小さな体に飛びついた。

「ああん、もうハナ。よかったわあ。心配したのよう。」

ハナは笑いながら、せわしなく手を動かした。サビーンはうんうんとうなづきながら、ハナを再び抱きしめた。

「メールだけだと本当に元気になったのかどうか、、ハナは時々心配かけないように、嘘ついたりするから、、もう顔を見るまでは心配で、、、」

本当に嬉しそうに笑いながら、ハナはまた手を動かした。どうやらサビーンの体のことを心配しているらしい。

「大丈夫、わたしはこの通り。全然疲れてないから。ね、ピンピンしてるでしょう?」

ハナが高熱に倒れてから、いや、明け方屋敷を留守にしてから、サビーンには、どんなに心配をかけてしまっただろうか。そんなことを心配して、ハナの小さな手は何度も謝っているらしい。

「いいのよ。無事だったし。わたしのところに来るつもりだったんでしょう?」

そう言ってまたサビーンは、ハナの柔らかなすべすべした頬をすりすりと、自分の頬に寄せた。

「おい、いい加減、、、勝手に入ってきて、お前な?俺は仕事中だぞ。」

すっかりサビーンからもハナからも無視された形に面白くなさそうに、モーセが不機嫌な声をたてた。

「あら、モーセ、元気だった?」

苦々しそうにモーセは息を吸う。

「フン、人の仕事場にいきなり押しかけてきて、また、随分なご挨拶だな?」

ギロリと睨む鋭い視線も、昔からモーセを知り尽くしたサビーンには通じない。

「あらまあ、ご機嫌麗しく、シークさま。ところでハナを借りるわよ。わたし、これからまたすぐに研究所に戻らなきゃならないから。」

なんとまあ、あわただしいことだ。モーセの返事もハナの是非も問わず、サビーンは一応断りらしきもをのいれてハナをさらっていった。それは、まるで一陣の風のような出来事で、残されたモーセは意味もなく、髪をすくい上げた。

ここ数日、社に顔を出さなかったモーセだが、これほど仕事がすんなりはかどったことはなかった。心は満ち足りている。先ほどまで小さなハナがチョコンと座っていた椅子を見つめる。まだそこにハナの柔らかな温もりがあるような、そんな錯覚を覚える。頭を振って、モーセは再び書類に目を通していく。いつもの冷静なモーセがそこにいた。

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