シークの涙

42.

「信じられないことに、ハナの精神は、すごく安定しているわ。」

セッションを終えたサビーンは、キッチンにいるタマール夫人の下へハナを残し、一人モーセの書斎に向かった。

「それは、過去と対峙できる準備ができているということか?」
「何か、ご両親のこと、、わかったの?」

モーセは何も言わなかったが、サビーンは、モーセたちがハナの過去の真相の核心に、かなり迫ってきいるのだと肌で感じていた。

「ハナね、感情がよく出るようになった。さっきも話していてコロコロ表情が変わったわ。」

モーセの紙面を追う動きが一瞬止まった。アーモンド形の美しい瞳がゆっくりとサビーンの顔を視界にいれる。

「アイツは、もともと表情が出やすい。何を考えているかなんて、一目瞭然ではないか。」
「それはね、他人の事に対してよ。モーセの声が怒ってる。タマール夫人が元気がない。ラビの顔が浮かない。わたしが疲れてるみたい、、そんなこと、人の顔をしっかり見て、相手の気持ちを慮る。相手の気持ちとリンクして、自分の心に反映させるの。だから、ハナは、相手が嬉しいと嬉しそうだし、相手が幸せそうだと幸せなのよ。彼女の気持ちがどうであれ、、ね?」
「む、、、」

確かにそうだったのだろうか、、モーセの頭に、ハナの一挙一動がフラッシュバックされる。笑うハナ、ションボリするハナ、ふくれっ面のハナ、、あれは全部モーセとの気持ちにリンクしたハナの表情なのか。

「でもね、、、最近ちょっとばかし兆候は出ていたんだけど、、、モーセ、あなたが絡んでくるとハナ自身の感情が出やすくなってきていたの。」

サビーンはモーセに説明しながら、今までのハナとのセッションを思い出していた。モーセがジーナに突然キスをした、と話すハナは、明らかに寂しげだった。孤高を保つシークは寂しそうだと、ハナは明らかに己の境遇とモーセを重ねながら悲しそうな瞳を見せた。

「今日ね、わたしのこと、、まるですみれさんみたい、、そう言ったのよ。」

サビーンの声は震えていた。あまりにもハナのことを心配するサビーンに、ハナはふっと笑いながら、サビーンに母親の面影を重ねたのだという。

「それから、、屋敷をちょっと抜け出しただけなのに、みんなに心配をかけてしまってすごく悪かったけど、、でも一人じゃないって、、、」

サビーンは堪えきれず、目頭を押さえた。



『あのね、みんなに悪かったけど、、だけど、みんながわたしのことを本当に心配してくれて、、ああ、わたしは一人じゃないんだなあ、、って思ったの。嬉しかったの、わたし。手を伸ばすのは怖いけど、、でもみんなの手をぎゅっと握っていたいの、、、』

それは、失うことを考えて、ナニモノにも執着しないようにと生きていたハナにとって、初めて手を伸ばして手に入れたいという思いだった。




「わたし、、嬉しくて、嬉しくて、、、ハナが、、ハナが、、、」

サビーンの瞳から涙があふれ出ていた。美しい女の顔が涙でくしゃくしゃだ。

「サビーン。お前、好きな男の前では絶対に泣くな。100年の恋も興ざめだ。」

モーセらしい冗談に、サビーンは泣いていることも忘れ今度は抗議の声をあげた。モーセはサビーンの扱い方は心得ている。強気なくせに本当は情に深い女だ。普段人前では泣かないけれど、いったん泣き始めたら最後、モーセの前では血のつながりに甘えるためか、めそめそと泣き続ける。そうならないようにと、モーセはきちんと先手を打ったわけだ。

「んもう、な、なによ、んもお!」

案の定、サビーンは泣くのを忘れ、モーセに怒る。

「ならば、、声が出るようになるのか?」

モーセはサビーンが横道にそれないようにと核を突いてきた。だがサビーンはそれには答えずに話をそらした。

「それよりも何よりも、トイレまで行かせないで、ハナを書斎にとじこめてあなたの側にずっといさせるなんてちょっとパワハラもいいとこじゃないのっ?!」

さっきのカラカワレタことに対して、ちょっとした復讐でもするように、サビーンの鼻息が荒くなった。心外だとでもいうようにモーセは眉をあげた。

「人聞きの悪い。トイレはこの奥に、、」
「それがパワハラ、セクハラ、っていうのよ。ハナだってお年頃なんですからね!」

モーセの指し示した先には、書斎奥の扉があった。壁と同じ材質の扉は壁に溶け込んでいてまるで隠し扉のようにも見える。そのドアをあければ、奥行きのあるゆったりとした洗面所があった。ずっと書斎に閉じこもっていても、わざわざ廊下に出てトイレに行く必要はないのだ。だがハナは恥ずかしかったのだろう。憩いの場であるトイレも、扉を隔てた奥にモーセがいると思っただけで、緊張の場になってしまうからだ。

「まあ、でも、、それ以外は評価してあげてもいいわ。」

ふふんとばかりにサビーンは鼻を鳴らした。

「今回のモーセの処置は、悪くはないわ。10日間もずっとハナの傍にいたこと。」

サビーンはハナに下したモーセの罰を、なかなかに評価した。

「わたし、ほら、あれからすぐ学会に行っちゃったけど、ハナの体調がよくなってからはメールでやり取りしていたんだけど、、、何か言ってあげたの?ハナに?」
「、、、、」
「ハナが一番安心できるところを見つけたような、そんな安心感がハナから感じられるの。」

「、、、、、」

先ほどから無言のモーセに埒があかなくなったのか、サビーンは切り口を変えてみた。

「ねえ、あなたハナを追い出す気なの?」

まったくいくらなんでも話に脈絡がなさすぎる、そう言わんばかりにモーセは苦々しいため息をついた。

「は?置いてくれと言ったのはお前だろうが。」
「そうだけど、ハナは、ずっとこのまま、ここにいていいの?」

「、、、アイツが望めば、、好きにすればいい。」
「それって、あなたが結婚したあとも、、ってこと?」
「む?」
「そろそろ部族のためにも婚姻の話が出ているって聞いたわ。アショカツールの娘と結婚するの?それとも、トリパティ部族の金持ち令嬢?」

部族の繁栄のためにも、シークの結婚はどの部族にとっても政治的要素を含む。力のある家柄や、王族と血縁関係を結ぶことができれば、安泰だと言われている。ただし、トリパティ部族にとっては、モーセの結婚は、他部族とは違う意味をもたらす。なぜなら、モーセ率いるトリパティ部族はペルーシア王国にとって最も勢力ある部族である。それ故、現時点での婚姻は、部族の勢力を伸ばすことよりも、トリパティ族の強い血筋を残すことが求められているだろう。

「何を唐突に?」
「つまり、あなたが結婚して妻を娶っても、ハナは、ここに置いてくれるの?ハナを嫁に出す親のつもりで彼女をずっと見守ってくれるわけ?」

サビーンはモーセの様子を寸部たりとも見逃さないようにじっと観察を続ける。自分の血のつながったもっとも信頼する男、そして心の底を人に読ませず、すぐに仮面をかぶり心の扉を閉めてしまう男、この男はハナをどう思っているのだろうか、、サビーンはそんなことを思いながらモーセの言葉を待った。

「フン。嫁に出す?」

それは嘲りのようにもとれたがサビーンはそうは思わなかった。おそらくモーセの意にそぐわなかったのだろう。

「だったらハナを嫁にしてくれる?」

今度はモーセがじっとサビーンを見つめる番だった。

「お前の思考回路はどうなっているのだ?仮にも診療内科医のくせに、、」

いや仮ではない、サビーンは王国の5本の指にはいる名医であり、その研究も世界ではかなり知られている。勿論モーセだってそんなことは承知しているのだが、このいとこは昔から突拍子もないことを言い始めるきらいがある。

「わたしはね、モーセ、ハナを養女にしてもいいっていうくらいの覚悟と本気を持って、彼女を王国へ呼んだのよ。絶対に、ハナの声をもう一度、、あのかわいらしい声をもう一度蘇らせたいの。」
「、、、、」
「だから、あなたの対応もきちんと聞いておきたいのよ。だって、ハナにとってモーセの側にいることが心のカンフル剤になっている、とってもいい兆候なの。彼女があなたに何を求めているのか、、わたしにはわからないわ、、恋人?友達?ボディーガード?それとも父親役なのか、、いずれにしても、あなたといることで、ハナは安心して、昔のような無邪気さを取り戻しつつあるの。」

モーセは話を聞きながら、長い指先でトントンと書斎デスクの上を叩いていたが、父親役、という言葉に、叩く指が空で止まった。

「けれどあなたが妻を持つことになれば、彼女はきっと自分をまた、あなたのお荷物だと思い込むでしょう。」

ハナが屋敷を飛び出したきっかけは、、、ハナが弾き出した結論は、ハナ自身がモーセの厄介者だと判断したからだった。それは後日ポツリポツリと説明したハナの様子で、モーセにもサビーンにも、ハナがそんな風に思っていたことを知ったのだ。

「俺が正妻を持とうと、ハナには関係あるまい。俺は追い出したりしないし、彼女が望めばいつまでもこの屋敷にいればいいのだ。」

サビーンは大きな瞳で天井を見上げ、お手上げだと言わんばかりにため息を大きくついた。まるで宇宙人と話しているような気持ちになり、どっと疲れがでたようだ。

「もういいわ。わたし、帰る。あなたと話してると言葉が通じないから疲れるわ。ハナのことについては、もう少し落ち着いたら、何とかするわ。あなたが結婚してまでも、彼女の食い扶持まで面倒見て、なんて言わないから安心してちょうだい。」


/バタン/

言いたいことだけを言って、さっさと退散してしまったサビーンに、いつものように呆れてものも言えなかった。だが、彼女の言わんとしていることが彼の心のどこかにつかえていた。モーセの心にじわじわと霧が立ち込めていく。

妻を迎え、子を成すことは、シークにとっての重責のひとつだとしても、それがハナに何が関係あるというのか、、側めを抱えているシークなど何のめずらしいことでもない。

モヤっとした霧を晴らすように、ピシャリと強く言い聞かせる。だが、思った傍からモーセは動けなくなった。

(側め?未だ男と女の関係でもないハナとのことを、、愛人だと?)

確かに、、、つるりとした肌は上等の陶器のようで、シルクのようなすべすべとしたさわり心地はたまらない。モーセの肌の温もりとやがて溶け合い、それは熱を帯びていく。いつまでも触っていたくなるくらいで、、、あのかわいらしい唇をそっと味わえば、うっとりするように甘い、、自分だけを見つめる漆黒の濡れた瞳はすいこまれそうで、、

すっかりハナに思考を妨げられてしまい、モーセは額をそっと抑えた。

屋敷からハナを嫁に出せば、いつかあの女は誰かの為だけにその黒い瞳を向けてしまう。だからといって嫁にも出さず、愛人にもせず、己の満足のために、ハナを囲うことなどあってはならない。無垢さに心奪われ、無邪気さに惹かれている。穢してはいけないと思いながらも、結局、衝動に駆られた。思わず口づけをして、、、そのあとも、つい手が出てしまいそうになる。ハナに自分が何を求めているのかすらわからない。結局、二人が男と女の関係でもないからこそ余計に厄介な話だ。モーセのような男には、女との友情はありえない。女とは、組み付して、寝て、征服してしまうか、あとは、モーセのほんの少しの時間にも全くかかわってこないような女、、それだけだ。勿論、タマール夫人やサビーンのような肉親に近い者たちは例外だろう。ならば、、それを思うとき、ハナはいったいどこの位置にいるのだろう。

モーセは唸りながら目をとじた。すぐにハナの笑った顔が瞼のうらに浮かぶ。ふっと笑いが漏れた。胸に温かさがこみあげるから不思議だった。モーセは瞼をあけ、そのアーモンド形の美しい双眸をぎっと見開いた。だが彼の瞳は、未だ行く末が決まらずユラユラとくゆっているように見えた。

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