シークの涙

46.

あわただしいこと、この上もない。屋敷の者たちも、ピリピリといつも以上に緊張の面持ちで、それでも動作だけはキビキビと、無断な動きなど一切見られない。タマール夫人も、いつもより念入りにアイロンをかけた黒いドレスをピシッと着こなし、満足そうに見つめながらも、周囲にぬかりがないか入念だ。今日はモイーニ家の特別な日で、これから盛大なる招宴が開催される。使用人たちも久しぶりの大仕事に緊張した面持ちで動きも硬い。だが、長年勤めあげているタマール夫人はさすがであり、そのぽっちゃりと揺れる柔らかな体つきのせいか、夫人の雰囲気はぴりりと緊張した中にも、どこか人をほっとさせる。屋敷で働く人々は、夫人の醸し出す雰囲気にどんなに救われているだろう。勿論、ハナもその中の一人だ。昨日いきなりモーセから言われた。



『明日、屋敷で盛大にパーティを開く。』
<え?>
『かなりの人数が集まる予定だ。』
<どのくらい?>

ハナは指を数えてみせた。

『ざっと1000人くらいだろうか。』

絶句したハナに、追い打ちをかけるようにモーセは話を続ける。

『よいか?お前もこの屋敷の一員だ。正装をして客をもてなすのだ。』
【ど、、ドレスなど持ってません。】
『案ずるな。明日コーディネータを呼んである。お前はただそのものの言うとおりにしておけばよい。』


何のパーティなのかとか、客はいったいどんな人なのか、ハナはそこで何をすればよいのか、など何もモーセは説明してくれない。そんな不安な中ハナは当日を迎え、おろおろしていたところへ、タマール夫人が現れた。

「ハナさん、大丈夫ですよ。」

夫人に背中をポンポンと叩かれただけで、ハナはひどく落ち着いてくる。そうだ、何もハナが緊張することもない。パーティはモーセが主役であり、ハナはその他大勢にすぎないのだ。一応屋敷に住んでいるものとして、礼儀にかけないよう、そっと隅でひっそりしていればいいのだ。そんな風に思い直し、ハナもリラックスした面持ちで夫人に、にっこりと笑いかけた。

「おや、その調子ですよ。それではそろそろお支度でもいたしましょう。コーディネータの方がお待ちですよ。」

ハナは満面の笑顔でこくりと頷いた。





*****

衣装部屋と呼ばれる大きな部屋は20畳くらいはあるだろうか。そのフロアに、王国特産品のひとつ、アルフォンブラ織の見事な幾何学模様の青い絨毯が、まるで海の底にでもいるように床に敷き詰められている。ウオークインクロゼットが壁際をずらりと占領し、その真ん中の空間に、大きな大きな三面鏡が置かれていた。

うわお、とは、さすがに言わなかったが、タマール夫人に流れているヨーロッパの血が騒ぎだすのか、驚きに合わせて思わず態度に現れ出た。

「オー、ハナさん!」

両腕を捧げんとばかりに夫人はハナに手を差し伸べて、大層な驚きぶりだ。

ハナはといえば、大きな鏡に映った己にきょとんとするばかりだ。第一、ここペルーシア王国で、振袖など着ようととは思ってもいなかった。20歳はたちになったときでさえ、成人式はスーツで出席したし、生まれてこの方、日本人でありながら、着たこともなかったというのに、、それを、日本から9000KMは離れた場所で、よもや袖を通すなど、思ってもいなかったのだ。

「ほほほ。さすがトリパティ部族のシーク、本当に気前がよろしいですわ。こんな高価で、職人技が凝縮されたゴージャスなお着物なんてめったにお目にかかれない。ああ、わたくしも久しぶりに目の保養をさせていただきました。」

先ほどからため息まじりに、流暢な日本語を繰り出すこの夫人は、マダム ラジャブ。正しくは、マダム キヨコ ラジャブ タニムラで、こちらの人間と国際結婚をした美容師である。勿論、モーセの目に留まるくらいなのだから、ペルーシア王国でもその腕は高く評価されていて、世界に顧客を持つカリスマ美容師、ビューティーコーディネーターだ。年のころは
50歳、名実一体、ついで、外見も見事に脂にのっているグラマラスなマダムだ。

日本より遠く離れたこの異国で、しかも日本と異なる文化の中で、ハナの着付けは完璧だった。よくハリウッド映画に出てくるような、違和感あるだらり流しの着方ではない。日本の伝統ある行事の、どこにでても恥ずかしくないほどの出来栄えだ。しかも小柄のハナには、着物がよく似合っていた。風に流れゆく色とりどりの花々は、さすがに友禅の特徴をふんだんに使った色彩だ。花びらひとつひとつに生命を送り込む筆使いは、着物の中の花々が艶やかに匂い立つようだ。ぱっと見、人の目を釘づけにする鮮やかな赤は、それぞれの色の濃淡で丁寧に染められ、空に解き放たれた朝焼けのようにみえた。

「ハナ様、あなたの髪の毛はとても美しいですわ。だから、このまま垂らしておくことに決めましたのよ。」

美容師でありながら、あえてヘアスタイルをアップなどにしなかったのは、ハナの光輝な黒髪が、和にはえるからだ。それはまるで日本人形のようだと誰もが思う。マダムは同じようにペルーシア語で、タマール夫人に同様の説明を加えた。タマール夫人は同感だとばかり、何度も頷いた。

「ええ、ええ、本当に仰る通りですとも。わたくしは、映画や絵画でしか見たことはございませんが、まるで、本当に日本人形のようでございます。ハナさんの黒髪は、全世界の女性の憧れですよ。」

夫人は、自分の髪の毛を指先で摘み、それからハナの黒髪を指し示した。マダム キヨコが日本語で言葉を足してやる。ハナは、真っ赤になった。自然と下を向いてしまったその顔に、漆黒の艶やかな髪の毛がサラリサラリと落ちてくる。

「今宵はハナ様にとって素晴らしい思い出の夜となりますように。」

マダムは深々と頭を下げた。ハナは小首をかしげた。サラサラと、また髪が横に流れた。

「はい?」

マダムが去ろうとするその腕をハナは掴んで、少しだけ時間をくれというように、親指と人差し指を近づけた。

「何でございましょう?」

きょろきょろとしているハナに、タマール夫人がすぐに小走りに、スケッチブックの置いてあるテーブルへ取りに行く。

「はい、ハナさん。」

ハナは頭を下げて、スケッチブックを受け取り、すぐに文字を書いていく。久しぶりに書く日本語は、何だか、少しだけ不思議な気がした。

【すみません、今日のパーティはいったい何のためでしょう?モーセは何も教えてくれません。】



実は何度かタマール夫人にも質問をしてみたのだが、夫人はハナに笑顔を返すだけだった。

『大丈夫ですよ。ハナさんは美味しいものを食べてればいいんですよ』



マダム・キヨコは、口元を押さえながらコロコロと笑った。

「ほほほほ、シークがおっしゃらないのであれば、わたくしが存じあげるわけがございません。申し訳ございませんね。ほほほ。」

その口調はなにやら面白がっているようだったが、マダムは両手でハナの手を優しく包み、今度は真剣な調子で語りかけた。

「ただ、わたくしは、日本人としての誇りを持って、どこに出しても恥ずかしくない仕事はしたつもりでございます。ですから、ハナ様、あなたも日本人としての矜持を持ってどなたにお会いになっても堂々となさっていればよろしいのです。」

今度こそマダム・キヨコは会釈をして部屋を出ていく。タマール夫人も彼女を見送るため一緒に連れ立った。部屋に残されたハナは一人、ポツンと考え込んだ。

(日本人としての誇り、、、、)

自分はオマケで、パーティーに顔を見せるだけなのに、何故、日本人としてという話になるのだろうか、、着物を着ているからなのか。

どこでどのように手にいれたものか、あるいは、レンタルなのか、、、例え着物のことをよく知らない人でも、今ハナが着ている着物が、シルク糸で紡がれており、一面に散りばめられた花々の模様は全部手描きであることがわかる。ところどころに金糸で刺繍もほどこされ、染め物に立体感を与えている。花々には生命の息吹とその一瞬にして散りゆく儚さが感じられる。ハナも日本人でありながら、着物の造詣が深いわけではなかったが、肌にするりと馴染み、体の線をゆったりと包み込む着心地の良い豪華な着物が、友禅だということはおぼろげながらわかった。そして、この着物が日本円で、何百万ではきかない世界であろうこともわかる。

(よ、、汚したら、、)

ついつい、そんなことを不安に思う。これからどんな人たちがやって来て、自分はどうすればいいのかというような先ほどの不安よりも、まず一番の懸案事項にぶつかり、体が震えるのがわかった。ハナの眉毛が自然と下がっているのも、無理はないと言える。


「どうしたのだ?」

すっかり耳になじんだ声に嬉しそうに顔を上げれば、鏡越しに映るモーセの驚いた顔とぶつかった。だが、同時に、ハナの体に電流が走ったような衝撃で、息もできない。鏡の男は、ペルーシア王国の民族衣装を堂々と着こなして、やはり鏡に映っているハナをじっと見つめていた。

(なんて、、美しい人なんだろう、、)

モーセと出会ってハナが何度も息をのんで、思い描く言葉。モーセ シャリマール モイーニ は、いつも威風堂々としてその立居振舞もすこぶる華麗なのだが、特に、彼は部族の長として公に現れるときに、その異彩を強く放つ。今夜で二度目のモーセの民族衣装、ディシュダーシャ姿だ。しかも、真っ白な純白なもの。前回ハナの目にした衣装は、白を貴重にとても豪華な金糸刺繍がほどこされ華やかできらびやかで、そこにイガールと呼ばれるヘッドドレスにも宝石が散りばめられていた。富も名誉もほしいままに出来るモーセの栄華を物語っていたようだったのに、、今夜のディシュダーシャは、本当に白一色で、イガールも黒の皮ひもでヘッドドレスで頭を押さえているシンプルなものだ。それなのに、何故だろう。ハナはモーセの前に跪きたい衝動にかられる。余計な飾りがないからこそ、モーセ自身の威厳と美しさが余計に強調され、まるで神々しささえ感じられる。

ハナはゆっくりとモーセの方に向いた。

「ハナ、、」

モーセが喉から搾り出すようなかすれた声でハナを呼んだ。ハナは、圧倒されて目を合わせられないでいる。怖がらせないようにと、そんな配慮をする男ではないが、それでもモーセはゆっくりと歩を進めハナとの距離を縮める。彼の圧は、ハナを追い詰める。まるで獣に目をつけられた獲物だ。

「ハナ、、美しい、、」

<え!?>

「民族衣装は、己のルーツを感じる心の叫びだ。だからこそ、本当に、、美しいのだ。」

モーセは、ハナの着ている煌びやかな友禅を褒めているのだろう。ハナへの賛辞なのかと一瞬誤解したことが恥ずかしくて、ハナは瞬きをしながら自分の愚かさを笑った。

「その着物にお前の髪は良く映える。」

じっとしているハナの瞳に、背の高いモーセが近づいてきて、ハナは頭に温かさを感じた。彼はハナの頭の天辺にそっと唇をおろし、つぶやいた。

「今夜はわたしの傍にずっといることだ。」

どうしても誤解してしまう。モーセの言葉はハナを手放したくないというニュアンスを含んだようにも聞こえる。そしてその綺麗なアーモンド形の中で光る薄茶の瞳が、ユラユラと何かを求めて深くなっているように見える。ハナの体は自然と熱を帯びる。だが、自分に言い聞かせるように、二、三度頭を振る。オマケのハナが、見ず知らずの客たちの中で浮かないように、恥をかかないように、そしてモイーニ家に恥をかかせないように、、そういった配慮から出たモーセの言葉だということを、ハナは自分の胸に言って聞かせた。だから、モーセの目を見つめて、眉毛をキリリとあげて大きく頷いた。ついでに任してくれと言わんばかりに胸を叩いた。だが、その動作はあまりに日本的だったらしく、モーセには何の意味かわからなかったようだ。その代わりに、それはあまりにかわいらしく、まるでアニメに出てくる赤ちゃんゴリラの覚えたての雄たけび、それも、あまり立派に叩けない幼い雄たけび、の動きのように映ったようだ。モーセの唇が震え始めた。やがて抑えきれないように、声を立てて笑った。

「おかしなヤツだ。くくくくっ、お前は、この国では、道化として食べていけるかもしれん。ハハハハハ。」

キョトンとするハナに、珍しくモーセの笑いは後をひく。抑えようとすればするほど、結局笑いが止まらなかった。

「いや、、たまらん。くくく、、ハハハハ、、」

人はあまり笑われると面白くないものだ。ましてや普段あまり笑うことのないモーセの笑いに、ハナは少しばかりへそを曲げた。どうやら、彼女の表情にそれは表れていたらしく、口がへの字になった。

「くくくくっ、、、、、む?」

ご機嫌斜めのハナにやっと気がついたモーセの大きな手が伸びた。

「悪かった。だが、バカにしたわけではない。」


/くしゃり、、/

ハナの頭を優しく撫でる。

「、、、可愛いから、心配するな。」

<え?>
「さあ、そろそろ時間だ。」

空耳かと思って聞き直したかったけれど、モーセはその機会すらハナには与えなかった。ハナは時計を見つめ、すでにパーティ開始時間よりも30分が過ぎていることを知る。ここはペルーシア王国。人々はのんびりと時間と過ごす。開始時間を決めても、30分遅れてやってくることはあたり前のことで、主催者側も心得たものだ。時刻は、夜の9時になろうとしていた。

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