シークの涙

49.

<あなたのことは、何てお呼びすれば?>

ハナは指先をせわしなく動かしながらサビーンに訳してもらおうと彼女を見た。だが、すぐさま、ナイーフ王子が優雅な手の仕草でハナにこう答えた。

<手話を知っている人いないし、、ましてこの手話特別でしょ? 僕の名前でいいよ。ナイーフって呼んで!>

ハナはびっくりして固まってしまう。まず、王子が手話ができることも驚きなのだが、何とナイーフ王子の手話は、日本のものだ。

「ちょっと、、ナイーフ!あなたいつから、ジャパニーズサイン習ったのよ?やあだ、このわたしだって出来ないのに!」
「あ?サビーン見直した?だって、キミ、日本語出来るでしょ?せめて何か君に勝ちたいと思ってさ?」

まつ毛に囲まれた澄んだ瞳をくるくるさせて、王子は、サビーンにいたずらっぽく笑いかけた。サビーンは英語・フランス語・日本語と自由自在に言語を操る事ができるし、手話も英語のサインなら出来る。だが、日本語の手話は習っていない。

「ま、生意気ね!」
<サビーン!王子に対して失礼だよ?>

ハナが叱るようにサビーンを諌める手話に、ナイーフとサビーンは顔を見合わせてクスリと笑う。ただ、その場で一人疎外感を漂わせているモーセは、目を細め孤高を保っている。ハナはチラリとモーセを見つめ、彼が退屈をしているように見え、あわてて、袂のスケッチブックを出した。

/ガシリ/

その刹那、モーセの大きな手でハナの小枝のような手首を掴まれた。

<え?>
「先ほど、夫人が呼んでいた。あちらに馳走が出ている。ラビも待っているぞ。」

モーセは、そのまま、サビーンも、そして無礼にも、ナイーフ王子すらも無視する形で、ハナの手首を掴んだまま、それはその場からハナをさらって行くように、ずんずんと歩き出していた。ハナは突然のことで、歩の速さについていけず足元がグラリと揺れる。だが、すぐにモーセの逞しい腕に簡単に納められた。

「よそ見をするからだ。ちゃんと歩きなさい。」

フロアーにいる全ての客がまるで息を飲んだような、一瞬、静けさが生まれた。モーセの稀有な態度に驚きを隠せない。だが、モーセの動じない瞳は前だけを見つめ、人垣を縫っていく。招待客たちは、まるで魔法にでもかかったように、さーっと道を作り、モーセの前を阻む人影はない。ハナは小走りになりながらトコトコと必死に引っ張られる力について行く。だが、モーセはサビーンとナイーフから離れたところへ来ると、その歩をゆったりと落とした。

「大丈夫か?」

低い声音なのに、その中に彼の優しさを見つけてしまったようで、ハナの胸が切なくなった。あわてて頭を必死に振った。ハナが今モーセのために出来る事は、それだけしかなかった。モーセの考えていることはわからないけれど、とにかく、彼は今ハナを思ってくれている。だが、彼のそんな気持ちがハナの胸をキュンとさせていたというのに、目の前に広がる光景に勝てなかったのは、空腹という敵。

/ぐううう、、/

ハナの腹が無常にも鳴った。



「くっ、」

一瞬間があいて、いきなり、モーセの唇が歪んだ。笑い出す、ハナがそう思った瞬間、やはりモーセは笑った。そのアーモンド形の瞳がなくなるくらい、いつもは散漫に見える唇も、長い指先で覆い、逞しい肩を震わせて笑っていた。ハナは真っ赤になった。

「好きなだけ食べるといい。」

その一言が合図になったのか、ラビがハナの傍にやってきた。盛大な馳走が飾られている大きなテーブル奥には、たくさんの給仕を厳しい目で追っているタマール夫人が、ハナを見つけて微笑んでいた。

「シーク、それではここから、わたしがハナさんのお相手を。」
「うむ。」

シークは一つ頷いた。そして、ラビに鋭い視線を浴びせ、問いかけた。

「で、お前は誰が適任だと?」
「はい、プレスワールドの記者が適任かと。」
「む?それは?」
「あそこにいる記者ですが、オマールはかなりやり手の報道記者です。今夜来てる記者たちは、だいたいがゴシップネタを扱う担当者ばかりのはずですが、、、ですから、彼がここにいるので少し驚いているのですが。」

ハナは目の前でやり取りされる聞き取れないペルーシア語に、熱心に耳を傾けている。音楽のような旋律を繰り出すかと思えば、ラビがしゃべると、何だかフランス語のようにも聞こえるし、だが、モーセが話すとそれは嵐のような強さを持ち、ときに川のせせらぎのように淀みない流れをでハナの耳をくすぐっていく。何だか素晴らしく魅力的な音に聞こえた。

「確か、彼は、、サビーンさまの同級生だったと思います。」
「うむ。わかった。では。」

言葉を打ち切ってモーセはハナを見つめた。

「今夜は楽しめ。」

くるりと、大きな背中をハナに見せつけるようにして、また客たちの下へと戻っていく。人垣は、羨望の思いで、モーセを受け入れていく。


「さあ、ハナさん、食べましょう。今夜は、世界一周ができますよ!」
<え?>
「我がシェフが言うには、今夜のテーマは、ワールドキュージンだそうです。大好きなあなたをお迎えしているモイーニ家に相応しい、グローバルな皿ばかりで、招待客たちも本場の味が堪能できると豪語していました。」

【では、安上がりですね?】

ハナは先ほどしまい忘れたスケッチブックに文字を書いた。

「え?」
【だって、旅行費用を支払わないで現地の料理が食べれるんですもの!】

ハナの心が表れているように、文字が躍っていた。

「ああ、はは、フフフフ、なるほど。それでは、あとでシェフの給料をあげるようにシークに頼んでみましょう。コスト削減に、おおいに貢献してくれたわけですね?」

メガネの奥の瞳を茶目っ気たっぷりにウインクすれば、ラビの端整な顔が優しく揺れた。周囲の女たちは、うっとりしながら、モーセだけでなく、ここでもいい男を独占しているハナに、嫉妬の嵐がうずまいた。だが、ハナはそんなことはもうおかまいなしで、美味しそうに誘っている皿に心はすっかり奪われていた。




*****

「それで、俺にどうしろって?」


オマールは、どっしりとした部屋に腰をおろしているつもりだった。だが、彼の195は優にある大きな体でも、この部屋を前にすると小さく映る。宴会場から、かなり遠くにあるこの部屋がいったい何の為の、誰のための部屋なのかは不明だが、アンティークな家具がゆったりと部屋を飾り、非情に厳かな雰囲気だ。窓もなく薄暗さも手伝って、何となく、オマールは少しだけ気後れした気持ちになる。それもそのはず、今、オマールの目の前には、滅多に一般人がこうも近くでお目にかかることのできない男と対峙しているのだから。モーセの隣には、サビーンも一緒に座っていた。

「相変わらず、あなたってせっかちね。すぐに結論を急ぎたくなるのね?」

淡々とした口調でサビーンに言われた。この女は全く変わってない、まるで大学時代の悪夢が戻ってきたようで、オマールの体中が苦々しさでいっぱいになった。

「わたしのいとこは口が悪い。学生時代も、君に迷惑をかけてなければいいのだが。」

モーセは慇懃な口調で、一応オマールに詫びた。

「あら、失礼ね!モーセ、あなたに協力してあげてるのよ?わたしは。」

先ほど、招待客と歓談している最中にモーセに捕まったサビーンは、頼みごとを持ちかけられた。勿論、何か魂胆があるのだろうとは百も承知だが、サビーンは敢えて異論を唱えず、すんなりと彼の頼みごとを聞いてやり、現在、こうして、モーセとオマールの会談が秘密裏に実現されている。

「今日のターゲットを記事にしてほしい。ハナ コスギについてトップ紙面で飾ってほしい。」

オマールはモーセを見つめ、ゆっくりと観察していく。モーセは単刀直入に用件を切り出した。ならば、腹の探りあいはやめてオマールも直球で行くのが得策だと、はじきだした。

「シーク、彼女はあなたの有力花嫁候補なんですか?」

「ハナ コスギは、この国の要人の関係者の娘だ。君にとっても興味深い話だと思うが?」

ニヤリと意味ありげに笑ったモーセにオマールはゾクリとした。美しい顔に浮かんだ笑顔は、妖艶であり、そして残虐だった。信念のためなら、顔色ひとつ変えずに人を殺せる残忍さを持ち合わせている怜悧な男。まったく噂どおりだとオマールは考え込んだ。

「わかりました。話を聞きましょう。」



*****

「ふうう、、」

モーセから話を聞いたオマールが、重いため息をついた。

「では、うちの社で、特ダネということで、ハナコスギ嬢をあなたの花嫁候補だという誤報を流せばいいのですね。世間を騒がせ、デマを流せと?」

オマールの言葉に、相変わらずの皮肉屋だとばかりにサビーンは、ほくそ笑んだ。モーセも同じように思ったのか、散漫な笑みを浮かべた。

「ふん、誤報といえばそうかもしれぬが、まあ、世を混乱させてもらいたいのは事実。」

「それで、俺の見返りは?」
「む。」
「デマを流すというのは、俺の記者魂から、いや、本来のジャーナリズムから反している。それを俺にやらせるという、、その見返りは?」

モーセは一度ゆっくり瞬きをした。

「首尾よく行けば、君は報道部に戻れる。それで十分だろう?」

モーセはオマールの答えも聞かず立ち上がり、さっと部屋を出て行ってしまった。重苦しい空気のなか、サビーンと二人残され、益々憂鬱になる。

「まったく、さすがにアンタの従兄弟だな。血は争えない。」

つい愚痴が出てしまったところへ、サビーンがピシャリと言い返す。

「失礼ね!わたしはモーセほど失礼ではないわ。ただ、わたしは、嘘がつけないだけよ。あら、あなた、まだ昔のことを根に持っているの?いやあね、昔から、視野が狭くてちっちゃな男だと思ったけど、変わってないんじゃない?」

オマールは何も言わずただ唸るだけだった。これでは余計なことを言わないモーセのほうがまだマシだ。毒舌な女は、余計な形容詞をつけて追い立ててくるからまったく厄介だと、オマールは自然と頭を抱えていた。

「でも、わたしとモーセの唯一の共通点は、人を見る目。あなたなら、わたしたちが期待する以上の成果をあげてくれると信じてるから。」
「え?」

にっこり笑ったサビーンに、思わずオマールは見惚れ、、そして柄にもなく顔が赤くなった。これだから、困るのだ。この女は、昔から、飴とムチの使い方が異常に上手かった。オマールは思い出したくもない過去にトリップしないように、ぐっと奥歯を噛んだ。




*****

熱があるわけではない。いや、熱に浮かされているだけなのだ。ただ、昨夜から明け方にかけての夢のようなお伽話の世界に浸り、興奮冷めやらない。ハナは、すでに朝を迎えようとする3時には寝床に入ったのだが、眠ろうと意識が引っ張っても、頭のどこかで今日のことが蘇り、ちっとも眠気が訪れない。そんなことを繰り返しながら、4時近くになって、寝室の扉が、ノックされた。

/ガチャ/

扉が開けられ、ハナは、もぞもぞと上半身をベッドに起こしてみる。

「大丈夫か?」

モーセは、起き上がるなと言いたげに片手をあげた。ふかふかの絨毯の上を、彼はしっかりとした足取りでやってくる。その間に、ハナは側にあったスケッチブックを手に取りサラサラと文字をしたためる。

【女性の部屋に、こんな時間忍びこむなんて、痴漢です!】

眉をぐいっとあげて、スケッチブックをモーセは差し出された。それを見ながら、彼はゆっくりと横たわっているハナの寝台に座った。

/ギシ、、/

マットが深く沈んで、ハナの体も少しだけ沈んでいく。

「ふん、女性であるならば公の席では多少食欲を抑えソソとしているものだ。どうせ食べ過ぎで眠れやしなかったのだろう。話し相手ができたのだから、ありがたいと思えばいいだろう。」

ハナに痴漢呼ばわりされても、モーセは全く動じない様子だ。冗談のつもりだったが、女としても相手にもされていないようでハナは少しムキになった。

【食べなさい!って言ったのは、モーセだものっ!】

殴るように文字を書けば、ハナの天辺にモーセの息がかかり、ふわりと髪の毛が揺れた。

「ふっ、美味しかったのだろう?シェフの自慢の料理だ。堪能してよかったではないか。」

ハナのご機嫌など意にも介さない。けれど、モーセの口調は優しかった。

/ズキン、、/

ハナの胸が切なく痛む。

(ずるい、、、)

無言になったハナの頭に、モーセの大きな手が下りてくる。もう数え切れないくらい撫でられているのに、その度にハナはうっとりしてしまう。

「ハナ、、、今日から、お前には試練がやって来る。」

来るかもしれない、、とか、来るだろう、、ではなく、モーセの言葉は確信に満ちていて、断定的な言葉だった。ハナは覚悟した。上を見上げれば、モーセの瞳にじっと見つめられていた。

/サラサラサラ/

【大丈夫。わたしはモーセを信じている。】


その文字を見た瞬間、モーセは眉間に長い指先をあてて、大きな吐息をもらした。

「まったく、お前は、、、」
<あ>

後の言葉は聞き取れなかった。ハナはすでにモーセの大きな腕の中にいた。彼の逞しい胸が彼女の華奢な体をピタリと覆う。

「それでいい。何があっても俺だけを信じろ。信じていればいい。」

モーセの胸の中で、コクリと頷いた。

「よいな?どんなことがあっても俺はお前を見捨てない。」

ハナは、もう一度、コクリと頷いた。先ほどまでちっとも眠くなかったのに、その心地よい温もりは、ハナを夢の世界に誘い込んでいく。

「よいか?お前は俺を信じていればいい。」



「お前は、、もう、、俺の宝、、、、だ。」

夢の世界へといち早く旅立っていったハナには、最後の言葉は、彼女の耳には届かなかった。

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