シークの涙

51.

ハナは何だか知らないが落ち着かなかった。いつもの車内、未だに慣れない高級な革張りの臭いが鼻につくものの、いつものようにサファールの運転で、サビーンが勤務している大学へ向かっている。飛んでいく景色を車窓から眺めながら、胸がさわさわしているのを感じていた。

ハナがいなくなったと屋敷での騒ぎ以来、ボディーガードを伴って外出することは必須となった。運転手のサファールは、傭兵あがりで、本来なら彼ひとりで警護は十分だったのだが、あの騒動後、ハナの外出時には、他一名以上の警護をつけることがモーセの命によって絶対とされている。
サファールは先ほどから、珍しいことに、ちらちらとバックミラー越しに後方をうかがっているようだ。ハナからは鏡に映ったサファールの瞳しか見えないが、彼はハナを通り越してリアウィンドーを気にしている。運転手の隣には、初めて見る顔の警護のモノが一名乗り込んでいる。先ほどサファールからの紹介によれば、今日が初仕事らしく、本人も緊張している様子だ。体は鍛えているのだろうが細身で小柄、何よりもその若さが経験のなさを物語っていて、頼りない感がぬぐえない。

屋敷を出てから、15分ほど走ったところでサファールが減速をした。あたりは工事現場で、来年には大きなショッピングモールが建つという。建築現場では大勢の人間が働いて、機械の音とがいりまじり、かなりの騒音だ。

/キキィーーーーーーーッ!/

目の前に黒塗りの車が二台割り込んできた。突然の急停車にハナの小さな体がガクンと大きく前のめりになり、シートベルトの強い反動で、そのまま後ろへバンと引き戻された。すかさずサファールが声をかけた。

「ハナ様、大丈夫で、、、」
/カチリ/

サファールの声が終わらぬうちに、いきなりハナのドアが開いた。外から操作されたらしく、ドアロックの自動が解除されていた。黒づくめの男たちが、いきなり二人ザッと乗り込んで、後部座席を占拠した。

/ガツン/

サファールが抵抗する間もなく、いきなり頭を殴られ、彼の大きな体がゆらりと、ハンドルの上に覆いかぶさる。隣でワタワタと動いている新米警護の後頭部に硬い鉄があてられた。ボディーガードは見なくてもそれがピストルとわかったのだろう。うっと声をだし、サファールの方をちらりと伺ったが、すでに殴られたサファールはびくとも動かなかった。

ハナは恐怖のあまり体が動かない。すでに男たちの体が後部座席に乗り込んでいたので、実質的には身動きが取れなかった。男の一人がハナの口元に布をあてた。ハナの唇にぬめっとした湿った感覚を覚えた瞬間、ツンと鼻にくる化学的な臭いで、彼女の視界がゆらりとぼやけ始めた。意識が遠のいていく。ガクンと首を倒したハナの小さな体を男たちは確認する。

「よし。運べ。」
「こいつは?」

前方の新米ボディーガードは心なしかガチガチと震えているように見えた。

「ふん!眠らせておけよ?」

黒ずくめ集団のリーダーとおぼしき男の声で、あっというまに、クロロホルムをかがされた新米警護は、あっけなくガタンと力を抜いた。車が襲撃されてから、1分とかからぬ早業に、周囲には誰も気が付くものはいなかった。勿論、工事現場では、何事もないように、建設作業が続行されている。

/グッググッ/

一人の男が、ハナの安全ベルトをシートベルトナイフカッターでグサリと切った。ハナの脱力した体を毛布にくるみ、あっさりと何かの荷物のように肩に担ぐ。ハナが乗っていた車をブロックするように止まっていた二台の黒塗りの車は、エンジンをかけたままでじっと待っている。その一台にハナを押し込んだ。そのまま、排気ガスが煙幕のように広がり、車はその場を立ち去った。あっという間の出来事だった。




*****

がっちりとした男たちが物音をたてずに動いているさまは見事だ。静寂だけがそこにはあった。隣の部屋での物音をひとつも聞き逃すまいと一同は息を吸うことも忘れているのではないか。ホテルを買収し、従業員全てをモーセの手の内のものに代えた。

今、隣の部屋にいるハナを拉致した男は、なかなかに慎重な石橋を渡る男だった。万が一の場合を想定して、コネクトルームを押さえていた。最悪の場合の逃げ道を確保するように、部屋二つがドアを隔てて繋がっている特別室だ。今は、しっかりと両部屋を隔てるドアには鍵がかかっている。ひとつの部屋には、現在拉致されたハナがいる。そして犯人は未だ知らぬことだが、彼の逃げ道のための予備室、つまり隣接部屋は、すでにモーセたちが占拠していた。犯人の注意深さが、モーセたちには幸いだった。なぜならモーセたちが待機して見張るには、こんな都合の良い部屋はなかった。よもや自分の逃げ道がモーセたちによって阻まれているなどとは、まだ感づくわけもなかった。

モーセとラビは、ヘッドフォンをして、デスクに設置した機材の側に座っていた。また、警護の男たちも片方にイヤーホンをつ、隣の部屋の様子をうかがっている。ハナにしかけた高性能ワイヤレスマイクのおかげで、髪の毛一本落ちる音すらも聞こえてきそうだ。

/ガサガサ/

衣擦れの音が聞こえた。ハナはクロロをかがされ、未だ意識が戻らないのか。隣の部屋は、モーセたちのいる部屋と丁度真逆のレイアウトの造りになっている。この部屋にどんと構えているその大きな豪華なベッドと同じベッドに、ハナはきっと寝かされているに違いなかった。

<おお、おおおお、目が覚めたか、ううん?>

モーセは眉をしかめた。男の唇がモーセの耳元でささやくように、とても声が近かった。その声質は、ざわついていてしゃがれていて、吐き気がするほど不快だった。

<おお、ツルツルの肌じゃ。>
/さわさわ/

/ガタン、ドスン/

ハナが抵抗している音なのか、おそらく男に肌をふれられて、逃げようとしている音だ。モーセの顔は平然としていた。中の様子だけに集中しているようだった。ところが、一見冷静でどっしりと構えているように見えるモーセだが、机の下で組んでいる手が無意識のうちに握りしめられ、それはワナワナと震えていた。周りの部下たちは、もちろんモーセのそんな微かな動揺に気づくはずもない。ラビだけが、モーセの微妙な変化を不安気に思っていた。

モーセの長い睫が伏せられた。考えまいとしながら、だがどうしてもハナの様子に心が寄ってしまう。拉致された現状で、目が覚めた瞳があの醜い男の顔をいきなり映し出し、おそらくハナは驚愕しているに違いない。瞳を大きくこらして固まっているのかもしれない。今朝がた、マイクをしかけるために、そっとハナを引き寄せたときの彼女を思い出す。事情を話さずハナに見つからないようにそっとマイクをしかけた。それはこれから起こることを話せば、ハナに精神的負担が益々かかることを危惧したためだが、今、拉致されている現状を考えれば、どんなにハナは恐怖におののいていることか、、、そんなことを考えれば、モーセの握ったこぶしは益々強く力が入り、握りしめすぎた指先がうっ血して白くなっていた。

<フフフン、もうここは逃げられんよ、ハナ!>

ラビの眉も苦しげに寄せられている。

<んんんんん、うんん>

ハナは言葉にならない音を、喉元から必死に搾り出し懸命に抗っているのだ。モーセもラビも、ハナが哀れに思えてならなかった。

<お前が、すみれの娘だとはなあ?大きくなったものだ。どれどれ?>

/ガサガサガサガサ/

<おお、これはよく見える。美しいものは近くでちゃんと見ないとの?おおお、肌のきめ細かいこと、、>
<むうううううううううっ>

おそらく胸ポケットからメガネを出したのか、ハナをくまなく見ようとしているらしい。

<ひっ>

ハナの引きつった息の音が聞こえる。

<コンニチワ ハナチャン、オトウサンノトモダチダヨ>

突然、男は外国語で話し出す。今密かに耳を立てて聞いている誰一人、日本語に覚えがあるものはいなかったが、だが、こんにちは、はな という言葉を耳が拾い、ハナの母国語だとモーセは理解していた。男の突然の言葉に、ハナの様子がおかしくなった。


<は、はっはっ、はっ、はっ、ひっ、、>

息苦しさで、呼吸ができていない。

<はっ、はっ、はっ、、、>

ラビは、自分の胸の痛さに瞼を閉じた。そしてモーセは、、、、唇をぐっと噛み締めた。まだ、何も、、何も敵は白状していない、、、

(ああ、ハナ、、)

祈るような思いで、モーセは何度も祖父に父に祈った。知らず知らずのうちに、助けを求めていた。

<大丈夫かい?水でも飲むかい?>
/ガサガサガサ/

衣擦れの音がした。

/ドサリ/

<よいしょっと、さあ、ハナ、これから楽しいことをしよう。お前の母親は、バカな女だ。こんな楽しいことを拒むのとはの?お前は、母親も出来なかったことを、わたしとこれから楽しむのだ。ワクワクするの? ハナ? フフフン>

何と言うヘドの出る声だろう。こんな声を聞くのはもう耐えられない。モーセは勿論、警護のものたちもあからさまに嫌な顔をして横を向いた。


/チョキーン/ 

/チョキーン/
/ガサガサガサ、ゴソゴソ/

無機質な金属音が聞こえ、シーツが擦れる音とハナが抗っているような音が重なった。

/チョキチョキチョキチョキ/
<ひっ、んんんんん>

<おお、これは、これは、かわいい乳首じゃ、、桜貝のような色で、、おおなんとツンとしていてウマそうな、、舐められたことはあろうか?>
/チュル/
<んんんんんんんん>

もうこれ以上、ハナへの陵辱は我慢ならなかった。モーセの体が動いた。だがその瞬間、その腕を、すごい力で引っ張られた。

「む?」

見ればラビが必死に、とても悲しげな顔で、首を横に振っている。辛抱してくださいませ、ラビの表情は辛そうにそんなことを言っているようだ。モーセは怒りで鬼のような顔をしたが、だが、そのまま、ラビの腕を払いのけゆっくりと椅子に座りなおした。隣でラビがほっとため息をついたのがわかった。

「アショカツール、あやつめ!」

モーセは小さく低く唸った。

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