シークの涙
54.
ハナの手は震えていたが、それでもぎゅっとペーパーナイフを握りしてめていた。どうせ小娘のたわごとだとばかりにアショカは鼻で笑った。
「ふん、何を愚かなことを、そんなものでは死にはしないわ。」
/グサッ/
次の瞬間、アショカは愕然となった。ハナはそのペーパーナイフを自分の左腕に力いっぱい突き刺していた。
<う、、>
ハナの眉間が痛みでゆがむ。唇もワナワナと震えていたが、気丈にもぐっと奥歯を噛みしめて、アショカを睨んだ。
「な、何をするんだ、お前は、馬鹿なことはやめろ!!」
勿論、ペーパーナイフだ、限界はある。だが、ハナの力いっぱい刺したペーパーナイフは、彼女の左腕から鮮血をしたたらせ、本気で急所を刺せば死ねることを証明していた。
「やめろ、、いい子だから、、、ほら、、こちらに貸しなさい、、すみれ、」、
アショカの様子が変だった。血を出しているのはハナの方なのに、アショカの顔がどんどん青ざめていく。ハナは刺さったナイフをすぐに引き抜いた。傷口から、先ほどよりもダラダラと血が噴き出してくる。痛みなど何も感じなかった。ただ、生温かさと鉄臭い臭いで、頭が少しだけぼおっとした。アショカの体が血を見て、ガタガタと震えだした。ハナがじわじわと後ろに後ずさりするその足元に、滴る血が床を汚していく。
「お、、、そんなことを、、しないでおくれ、、、すみれ、、、お前の美しい肌を傷つけないでおくれ、、、おお、おおおおおお、、、」
アショカは両手で顔を覆った。もう彼は錯綜している。現実なのか、過去なのか、どこを彷徨っているのかわからない。
「わたしが、、、20年ぶりに日本に行くことになったのは運命なのだよ、、すみれ、、おお。わたしとお前が一緒になる運命を神は導いてくださった、、、なのに、お前は、またわたしから逃げて行くのか、、すみれ、、、」
ハナは自分の意識が少しだけ霞んでいくような気がして、必死になって頭を振った。しっかりと聞いていなくては、母の死をしっかり受け止めなくては、そんな強い思いがハナを支えている。
「あの日、わたしが訪ねて行ったとき、お前はリドリーの友としてわたしを歓迎してくれた。そして、おまえの娘に、わたしをコスギの友だとも紹介した、、だが、わたしたちは、恋人ではなかったのか?あの日、お前の17歳の初々しい姿と出会って以来、わたしの胸はお前で満ち溢れていた。消そうと消そうと消そう、何度しても、忘れたころに、お前は現れる、、、あの病室での出会いもそうだ。そして、20年ぶりの日本でわたしが会いにいったとき、、お前は、女盛りの匂いをぷんぷんとふりまいて、わたしを誘っていたくせに、、なぜ、、、逃げるのだ、、?」
アショカの目は、朦朧としていて、“あの日” に戻っていた。
「お前が、学校から帰ってきた娘の世話をしている隙に、わたしは睡眠薬をお前のカップに入れておいたのだ。」
完全にアショカはハナをすみれだと思って話し始めた。
「勿論、お前はわたしを焦らしているだけで、本当はわたしの腕に抱かれるつもりだったろう。だが、恥ずかしさから、きっと初めはわたしに抵抗するであろうから、、だからわたしはお前のために薬を盛ってやったのだ。まあ、わたしに抱かれてしまえば、恥ずかしさもかなぐり捨てて、きっとお前から泣いて喜んで足を開くであろうがな?」
今でもアショカにはあの日の光景が昨日のことのように思い出される。
『何か、、めまいが、、』
すみれは突然めまいに襲われた。足元がふらつき、思わずテーブルの端に手をついた。
『すみれ、、フフフ、わたしに抱かれたがっていたのだろう?何年も何年もわたしを無視して、わたしの気持ちを試していたのだろう?』
20年ぶりにリドリーの使いだと訪ねてきた、リドリーの友人アショカ・ツール。すれみは、歓迎して家に招き入れたものの、古き知人の様子が一変していた。
『シーク、、あなたは何を?』
『何がシークだ、水臭い。わたしだよ、アショカと呼んでくれ、、、』
アショカの言っている意味をまったく解さないまま、すみれは自分に危険が迫っていることを覚悟しただろう。すみれの体は自分の意思とは関係なくふらりふらりと揺れていた。意識も朦朧となって行く中で、目の前にいる狂った目に、犯される、そのことだけが恐怖いっぱいに広がった。ふらつきながら、すみれはいきなり台所へ走った。足がもつれそうになった。それでも必死にシンクにたどり着き、しまってあった包丁を抜き取った。そして自分の喉元にあてた。
『そんなポーズはやめなさい。夫がいる身だからといって恥じることはない。コスギが後からきたのだ。わたしたちは会った日から互いに惹かれておったろう?後からやって来たコスギのヤツめが、わたしたちを邪魔立てしたのだ。さあ、もうお前は意識がなくなる。次に目が覚めるこ頃には、お前はわたしのものになってお、、』
言い終わるか終らぬうちに、すみれは、ゆっくりと包丁を動かした。おそらく意識が落ちる限界のギリギリのところで、それは間に合った。手首から見えやすい太い静脈からドクドクと鮮血がしたたり落ちていた。彼女の白い肌から真っ赤な血がタラタラと流れていく。すみれはその場で床に崩れ落ちた。
『すみれええええええええッ!!』
過去の自分なのか、今の自分なのか、アショカの悲痛な声が部屋を支配した。
/ドンドドン/ /ダダッ/
大きな音でコネクトルームのドアが開いた。黒ずくめの男たちがだだだっとなだれ込んでくる。モーセは躊躇うことなく、一直線にハナの体に覆いかぶさり、全ての敵から彼女を遮断した。それは本当に迅速な一瞬のこと。アショカは茫然としていて、何がおこっているのか理解してない様子だ。だが、すでにアショカの部下たちは、モーセの部下に鎮圧されていたので、今やアショカに抵抗する術はなかった。
「ハ、ハナっ!」
上ずったモーセの声に、朦朧としていく意識の中でハナは、笑った。
ハナの足元は、血の水たまりが小さくできていて、今もそこに、ポトリ、ポトリと血がしたたり落ちている。ハナは安心したのか、何だか気が遠くなりそうだった。それでも彼女は必死にモーセに言いたくて、手を動かそうとする。
―−−知ってた。来てくれるって、、信じてた。
けれど思ったより手が重くて動かない。
「いいから、もう、いいから、ハナじっとしていろ!」
モーセはハナの体をぎゅっと抱きしめる。
「救急車を急いで!」
同時にラビが携帯でアンビュランスを呼んだ。モーセにも声をかけた。
「ハナさんに止血を!」
モーセの指先は震えていた。それは怒りなのか恐怖なのかわからなかった。ラビは、モーセの代わりに、自分の上着の胸ポケットからハンカチを取り出した。ハナの体は、モーセの大きなからだにすっぽりおさまっていて、尚もモーセは力を抜こうとしない。
「シーク。まずは、ハナさんの傷の具合を、、」
ラビの声に我に返ったのか、モーセの体がピクリと反応した。ハナの顔色は真っ青だった。
「ちょっと失礼します。」
ラビが二人の間に入って、モーセに支えられてかろうじて立っているハナに声をかけた。
「ハナさん、わかりますか?」
ハナがコクリと弱々しい笑顔を返した。ラビは傷口を確かめた。パックリと開いた傷口から赤い肉が見えていた。本来ペーパーナイフなら、それほど深くは刺さらないはずなのに、、、それをハナはもてる力で刺したらしい。スーッと切れる刃物よりも、こういった切れない刃で切った傷口のほうが痛むに違いない。それでも気丈に笑顔を返そうするハナに、ラビの心は罪の意識で一気に重く沈んだ。
「本当に、、ハナさん、、すみません、、、」
謝りながら、ラビの指先も震えていた。だが、しっかりと、ぎゅっと止血をほどこした。
「ハナさん、、、すみません、、、わ、、わたしは、、、」
言葉にならなかった。結果的に、アショカは己の罪を告白した。初めは殺すつもりなどなかったとしても、結局、あの男はすべてを捨てて逃げたのだ。部下に隠ぺいさせた。部下は自殺に見せかけるために証拠隠滅を図る。もしかしたら、その間、まだすみれは息があったかもしれない。実際にすみれを殺したわけでないとしても、アショカの犯した罪は明白で、これから、警察が色々な真相を解き明かしていけば、彼の未来はもう王国にはないであろう。だから、ラビの采配は間違ってなかった。だが、ハナを傷つけてしまったことに変わりはない。結局、また大切な人を傷つけてしまったのだ。
ラビが悔恨にさらされている間に、モーセは、意識を失ったハナを抱きかかえていた。いつのまに上着を脱いだのだろうか。ハナの上半身はモーセの上着に包み込まれていた。ハナの切り裂かれた衣服を隠すように、誰の目にも触れないように、そっと大切そうに、壊れないように抱えるモーセの腕の中で、ハナはモーセの匂いに包まれて幸せな顔をして意識を落としていた。
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