シークの涙

55.


「これは?」

モーセの眉根があがった。

病院に運ばれたハナは命に別状がなかったし、幸い、刺した場所も、神経を損傷するにまでは至らなかったので、2,3日の安静ですぐに退院の許可がおりた。だが、精神的な面を考慮して、今は、サビーンの大学病院に入院している。事件から1週間経った今でも、ハナは大事を見て未だ検査入院だ。その間、モーセはハナにつきっきりで、一度も社に顔をださなかった。ださないところで支障があるわけではない。モーセには頼りになる部下たちが脇を固めているのだから。その筆頭が、ラビ アシュウカだ。モーセが不在の間、ラビはしっかりと会社を支えていた。そして、一度もハナのいる病室に顔を出していなかった。

1週間ぶりに社に顔を出したモーセをラビが神妙な表情で待っていた。モーセは、ラビの差し出した封筒を手にとった。表には辞職届と書かれていた。

「はい、、、結局、口だけだったわたしは、責任をとらなくてはなりません。」

ラビが今までモーセの下で14年間手となり足となり動いてきた。18歳のとき、モーセに出会い、その男の生き様に惹かれ、今、こうして共に働いていた。その間、モーセの逆鱗に触れたことだってある。不機嫌なモーセを何度もなだめたこともある。ライバル会社と競り合って、幾度も窮地に陥った。だが、そのたび、モーセのために、部族のために、ラビは奮起した。驕りではなく、ラビはこの14年間の貢献度はかなり高いと自負していた。だが、それも一度の過ちで、全て奈落に沈む。

「わたしは、シークの意思に反して、危険を承知で今回のことを実行致しました。」
「、、、、、」

ラビは目を伏せた。モーセの瞳をまっすぐに見れなかった。

「そして大切な、、かけがえのない、、人を、、傷つけてしまいました。」

モーセの眉が厳しく寄った。

「おまえはハナを好きなのか?」
「は、、い、、?、、」

思わぬモーセの問いに、ラビの顔が曇った。モーセの意を解さなかったようだ。

「お前ははハナが好きなのかと、聞いた。」

好きというのは、どういう意味だろうか。ラビの疑問は即座にモーセが把握したらしい。すぐに彼は言い直した。

「ハナを愛しているのか?ラビ。」
「いえ。ハナさんは、わたしにとってなくなってしまった妹を思い起こさせます。また、あれだけ、わたしにもなついてくださって、情だって湧いております。今となってはわたしにとっても大切な方。ですが、、女性として、、という意味合いをおっしゃっているのであるならば、それは違います。」

ラビのきっぱりとした否定は大いにモーセを満足させた。

「なら、お前は辞める必要はない。」
「、、、、?」

「よいか?ジーナの件では俺も間違いを犯した。だが、俺はそれを後悔はしていない。」

迷いのないモーセの言葉だ。

「とはいえ、アショカを追い詰めないことには、ハナの安らぎはないことも、王国にメスを入れることも出来なかっただろう。お前の判断にも、俺は満足している。」

「しかしながら、、」

ラビの言いかけに、モーセは片手で制する。

/ビリビリ/

ラビの目の前で辞職届を破り始めた。

「お前が俺を裏切らない限り、俺はお前を手放さない。いいな?今も、そしてこれからもだ。」

モーセはキッパリと言い切った。これで話は終わりと言わんばかりに、再び片手をあげ、下がれとラビを追い払う。ラビの肩が震えた。モーセは絶対に言葉にしない男だ。けれど、彼に仕えていれば、彼の考えていることは、ラビは手に取るようにわかった。自分の働きぶりも評価されているという自信もあった。けれど、、知っているつもりだったけれど、モーセの言葉は、ラビの打ちしがれてしぼんだ心に優しく空気を送るように、彼の心に息吹を吹き込んでいく。

「ああ、あなたさまは、、、」

ラビは、左手で銀フレームを少し上にあげ、目を覆った。恥じも外聞もなく熱いものが喉を押し上げて、胸を痛くした。そんなラビを見てモーセがふっと優しく笑ったようで、柔らかな空気が広がった。

「それから、ラビ、これからは、ハナを傍に置く。」

潤んだ瞳を手でこすりながら、銀フレームをくいとあげたラビは、いつもの冷静なラビに戻りつつある。

「一生だ。」

ラビはモーセを見つめた。今日初めてモーセをよく見た気がした。カリスマ性にあふれている美しい男の顔に、少しだけ照れが浮かんでいた。勿論、これはラビだからこそ読み取れたモーセの表情。

「ということは?」
「そうだ。正妻に迎える。」
「しかし、、長老たちが、、」

異国の花嫁など、トリパティ部族の長老たちが首を縦にするわけもない。

「フフフ。お前の説得にかかれば、あの長老どもなど赤子にも及ぶまい?」

ラビに挑戦するように、モーセの唇があがった。ラビは考える。トリパティ族の繁栄に、政略結婚は必要ない。逆に別部族との婚姻は、トリパティ族にとっては足かせになるに違いない。ゆえに長老たちの唯一の望みは、由緒あるシークの跡継ぎだ。そのためには、トリパティの血筋を継ぐ女に産ませたいと思っている。

「しかし、、、ハナさんはまだ、お若いですし、、、」

21のハナの年齢を口実に、ラビはモーセがどれだけ真剣にハナのことを考えているのかを探ることにする。

「ふん!ハナはもう21だ。」

モーセは、”もう”という副詞を強調した。

「違法とはいえ、12、13、と幼な妻を娶る輩がいる中で、仮にも、ハナは成人ではないか?」
「はい、しかし、、、その、、かなり離れてらっしゃる。」

ラビはやんわりと言ったつもりだったが、モーセはそれを皮肉ととったのか、綺麗な曲線に沿った唇の端を少しだけあげた。

「お前は、俺がハナには年寄りだというのか?」

ラビは過去のモーセを振り返る。今まで妻や結婚などという話を彼の口からきいたことがなかった。さまざまな女と浮名を流してきたモーセだが、一人の女に固執することなど一度たりともなかった。それを、、、ラビの言葉に、なんだかだと反論してくるモーセの想いは真剣なのだろうか?確かにモーセとハナは、どこか深いところで繋がっている気がする。その絆は他人がおいそれと切れるようなものではないことも、ラビは感じていた。だが、それが男と女の絆だというのだろうか。ラビは眼鏡のフレームを人差し指でくいとあげた。のらりくらりの問答より、単刀直入にいくのに限る。

「では、シーク、あなたはハナさんを女として愛しているとおっしゃるのですね?」

ラビの問いかけに、モーセの長い睫が揺れた。

「ふっ。今さら何を聞いていたのだ?」

美しいアーモンド形の瞳がラビを見つめる。

「俺はハナを一生傍におく。ハナのためならこの命もおしくなかろう。」

ラビは一生このときのことを忘れないだろう。モーセの顔に浮かんだ不敵な笑みは、敵すらも恍惚させるほどの名酒のように抗いがたく、甘い誘い水のように柔らかくこの上もなく魅力的だった。長年仕えてきたラビですら見惚れるほどで、、

「だから、ラビ、お前がハナを横恋慕しようものなら、ただではすまぬ。まあハナは、どうやら、お前よりわたしになついているようだがな?ハハハハハ」

そのあまりにも眩しすぎる光輝く笑顔に、ラビは目を細めた。




****

/トントン/
「どうぞ。」

はきはきとした声はサビーンだろう。病室のドアをそろりとあけて、ラビは部屋に一歩足を踏み入れた。

「あら、久しぶりね、だけど、もっと早く見舞いに来ると思ったのに。責任でも感じてた?」

サビーンのピリリっと辛口の物言いに頭をかきながら、ベッドに起き上がっているハナを見つけてラビの胸がドキリとなった。それはハナが、まるで待ち人に会えたと言わんばかりに満面に笑みをたたえていたからだ。子犬ならば、尻尾をちぎれんばかりにバタバタと振るように、ハナはラビの訪問に嬉しさを隠さなかった。黒い大きな瞳が歓びの色でいっぱいになった。

「ああ、ハナさん。」

思わず胸を押さえてラビは寝ているハナの側へ近寄った。こんなに待っていてくれたのなら、何故自分はもっと早く来なかったのだろう、、、けれど、、、ラビの罪の意識がそれを許しはしなかった。

「お体、、腕の具合はどうですか?」

ハナの代わりにサビーンが答えた。

「腕の傷は、おそらく一生残るわ。もちろん、時間をかければ、少しずつうっすらとはなるでしょうけど、、」
「え?」

ラビの顔色が変わった。

「なんと、、なんとお詫び申し上げれば、、、」

ラビは、そのまま崩れるように跪き、ハナのベッドに頭をのせた。ラビの肩が震えていた。後悔で、嫌悪で、怒りで、彼の体は震えていた。

/ふわり/

「え?」

ハナがラビの頭を優しくなでた。そっと頭をあげたラビは、心配そうなハナの瞳とぶつかった。ハナが両方の指先をあわせてねじる。そして自分の腕の傷 =包帯をされていたが= を見せ、ゆっくりと首を横に振った。サビーンが合わせてハナの言葉を通訳してやる。

<腕はもう痛くないですから。>

それから、ラビの胸を指して、また両方の指先をあわせてねじる。

<けれど、あなたの心のほうが痛いのでしょう?>

「ああ、ハナさん、、、、」

ラビは何を言っていいのかわからなかった。見かねたようにサビーンが横から口を出す。

「ハナね、ラビのことずっとずっと心配していたのよ。何度も何度もモーセにラビは見舞いにこないの?って聞いて、あんまりラビのことばかり聞くから、モーセったら、しまいに怒っちゃって、、、」

その時のことを思い出したのか、サビーンとハナは目をあわせて、ぷーっと吹き出した。


本当は、すぐにもハナを見舞ってやりたかったラビだが、自分の立てた計画でハナを利用して怪我まで負わせてしまった責任と、ハナが自分を恨んでいるかもしれないという情けない怖さから、なかなか彼女の顔を見る勇気がでなかった。だが、モーセが、、


『ハナを見舞ってやれ。あれもお前を待っているようだ。』


モーセの言葉に決心がついた。しかし、あのとき、言葉を放ったモーセがやけに無愛想で、とても機嫌が悪かったことを思い出す。サビーンの話でようやく合点がいった。思わずラビも、ふっと優しい笑みを浮かべた。ハナがすかさず手を動かした。サビーンが訳してくれる。

「フフフ。ハナは、あなたの笑顔が大好きですって。とても綺麗に笑うから、素敵って。」

おそらくサビーンのことだ。多少意訳はあるとしても、確かにハナはラビが笑っている姿が好きだった。ハナは、ラビの時折見せる寂しげな顔を知っている。だからよけいラビの笑う顔が好きなのかもしれない。

「ハナさん。」

ラビは真剣な瞳をハナに向ける。サビーンは気をきかせて、ベッドサイドに置いてあるスケッチブックとペンをそっとハナの側において、部屋から出て行った。

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