シークの涙

57.

モイーニ家の屋敷は、今、静けさの中にも緊張の糸がピンと張っている。屋敷の者は、誰ひとりしゃべることもなく、音も立てず気をつけながら、それでも自分たちの仕事を全うしながら、気になる客間をチラリチラリと伺い見ていた。先ほど、客が案内され、その客間に通された。続いてすぐに、ゆったりとした足取りでモーセが、そしてその後にちょこまかと足を動かしながらハナが客間に入っていった。メイド歴の15年のノウルでさえ、あの大広間にゲストをあげたのを見たことは未だかつてなかった。普段はアカズノ間として、=勿論掃除だけは怠ることはないが= 人の息吹を感じさせない部屋に、今日は人がいるのだ。何とも不思議な気がして、何事も起こらなければいい、そう願いながら、家の者たちは丹念に手を動かし続ける。



カシミアをフンダンに使ったアルフォンブラ織の絨毯が真っ先に目に入る。落ち着いたレンガ色を基調に、グリーンの上品な色合いで幾何学模様がらせん状に広がる。これだけの広大な絨毯を敷いても、この部屋に収まれば、ちっともその大きさを感じさせない。客間は、50人はゆうに収容出来る広さだ。内装は全て古代ペルーシア人全盛時代を思い起こさせるローズウッドのアンティーク家具で統一されており、それぞれの家具には、これでもかというほどの見事な彫刻が施されていた。高い天井には、シャンデリア、ソファーも質の良い革張りで、レンガ色で統一されている。タマール夫人の号令下、入念に家具は磨かれピカピカと艶を帯び、また埃ひとつ落ちてない見事な大客間だが、残念なことに滅多に人が通されることはない。何故ならモイーニ家には、客間だけでも10室以上はあり、その身分、人数、用向きなどによって、場合場合によって、各客間に通されることになっている。このゲストルームは、当然、全客室の中で最も豪華で最も広い部屋だった。モーセの祖父ハベルが自慢とするインテリアとデザインで、王室でさえも、ため息をついたと言われているゲストルームだ。ハナだって、博物館でしか見たことのないような、まるで王様たちが使い込んだようなこの客間を目のあたりにして、先ほどから、目がぱちくりぱちくり、落ち着きないようで、少しばかり不審な動きだった。

「何十年ぶりだろうか。この家を訪れるのは、、、、」

モーセの威光にも負けない、敵陣に乗り込んだジョセフ・リドリーは、遠い昔を思い出すように目を細めた。

「さあ?果たして今の状況を祖父が喜んでいるとは思いませんがね。」

相変わらず冷たいモーセの物言いに、リドリーは苦笑した。

「わたしが憎いかね?」
「同じ土俵には立ちたくないですから。」

リドリーが先に話を変えた。

「さて、ハナ。わたしをもう一度紹介させてくれんか?」

リドリーは、モーセの隣でチョコンと小さく座っているハナに目を向けた。モーセと対峙していた時とは違い、リドリーの顔から険しさが消えていた。まるで娘を見るような、孫を見るような、そんな穏やかな瞳だった。ハナは自分の名前が呼ばれ、リドリーを見た。

「ああ、ハナ、、、君はコスギによく似ている、、、」

リドリーの薄色の瞳が潤んでいるようにみえた。ハナは不思議な気がする。アショカはハナが、すみれに似ていると狂った目で言い放った。だが、リドリーの目はしっかりとハナを見つめ、ハナが作り出す雰囲気を感じ取って、そう言っているのかもしれなかった。ハナにとってリドリーは、あまりよく知らない男だ。先ほどからモーセの感情はリドリーを否定していることがあからさまにわかるのに、自分の名前を呼んだこの男にハナは何故だか親愛の気持ちが生まれていた。リドリーともっと色々なことを話してみたいとさえ思った。彼の口から紡がれた自分の名前は、モーセとは違った意味で、ハナの心をぽっかりと温かな気持ちにさせた。

「ハナ、、君は、」

しわがれた手が空(くう)にあがり、ハナに差し出された。ハナも思わずその手をしっかり握ってあげたい衝動にかられる。

/バン/
「そんな三文芝居はやめていただこう!」

堪えきれずモーセが机を叩いた。ハナのおびえた顔がモーセの瞳に溢れた。ビクリと肩を震わせ、幼い子供のように、何か悪いことをしたのだろうかと、モーセを見つめていた。

無垢なものを穢されるようで、一人イライラしていた。肝心のハナがリドリーに心を許しているような素振りも彼のイライラを募らせた。気に入らない。

「君はハベルと違って感情を抑制できると思っていたが、そうではないようだ。ハベルと同じ短気なのか?かわいそうに、ハナが驚いているだろう?」
「大事な用向きだと言われたから、屋敷に呼んだ。とっとと済ませて早々に退散していただこう。」

リドリーの口ぶりが気に入らない。別段、ハナを驚かせるつもりもなかったし、ハナの瞳を見れば、いわれなくとも、驚かせてしまった罪の意識に、モーセ自身すぐに後悔が込み上げていたのだ。それを腹立たしくも、リドリーは言葉にしてモーセを責めた。実に気に入らなかった。

「わかった。わかった。大事な用向きというのは、モーセ、君にでは、ない。ハナに用があるのだ。」

ハナは、急に矛先が自分にやってきたことに別段驚いている風もなかった。最初から予想していたようで、ただ黙ってリドリーを見ていた。

「ではご勝手に。」

モーセは腕組みをしてリドリーを睨んだ。

「ただし、一言いっておこう。ハナを傷つけたりしたら、あなたも覚悟していただこう。」
「ふん。わたしはキミのようにいきなり物にはあたらんよ。」

モーセ相手にたいしたものだ。さすがにジョセフ・リドリー。彼にかかればモーセなどまだまだ青臭いに違いなかった。モーセの生まれる前から、彼は王国の為に、よくも悪くも、居座りつづけ、モーセの祖父ハベルの永遠のライバルだった。

モーセはすっかり諦めた境地で腕組みをしている。今は、リドリーがハナに何を言いに来たのか、それを見届けるつもりらしい。先ほどリドリーに宣言した通り、ハナに何かあれば、、、そんな殺気がモーセの体にはみなぎっている。だが、リドリーは落ち着いた様子で、ハナだけを見つめていた。

「わたしは、当に死んでいた人間かもしれない、、それを今日まで生かされているのは、君の父上のお蔭なのだ。」

リドリーはアッラーのおぼしめしとは言わなかったのが、モーセには意外に思えた。

「わたしに死の宣告が下された。青天の霹靂とはまさにこのことかね? どうやら、自分だけには決して起きないだろうとそんな風に思っていたようだ。だが、死の現実に、いきなり目の前が真っ暗になった。キミに想像できるかね?」

ハナをじっと見つめながら、リドリーはゆっくりと話し始めた。静かな口調だが、凛としていて、ハナはじっと聞き入っている。

「死神を前に、、わたしは、、、虚無感に襲われ、何もかもが無意味に思えたのだ。今まで、この王国がほしい!自分が一番でありたい、そんなことしか考えず、人を人と思わず生きてきた。富も名誉も全てこの手におさめ、人々が己にひれふすその快感、、、己の野望の為には、どんな卑怯な手を使っても何とも思わなかった。自分の目の前に立ちはだかる邪魔者は全て排除していく。この男の祖父もそうだった。わたしの唯一のライバル、生涯で一度しか出会わなかった男だ。あの男は何度もわたしの前に立ちはだかった。憎々しい男だったよ。だから、蹴落としてやろうと、散々ひどい目にあわせてきた。だがハベルはその度に必死に立ち上がった。彼の強さや潔さに、ますますわたしの中には憎しみが生まれたのかもしれん。今から思えば、己には持ち合わせないハベルの魅力に、嫉妬していたのかもしれん、、、」

祖父の苦悩が思い出され、モーセは瞼を閉じた。ハナは隣で心配そうにモーセを見つめる。リドリーは、淡々とした調子で話を続けていく。時折目を細めているのは当時を思い出しているのだろう。

「死を覚悟した途端、もうどうでもよくなった。わたしは、もうこれで死ぬのだと、アッラーがそれを望んでいるのだと、、、ところが、人間とは、最後まで往生際の悪い生き物だ。つくづく身を持って己を知ったよ。」

リドリーは疲れたように息をついた。深いため息だった。リドリーも年を取ったものだと、一瞬、モーセは祖父ハベルと、その姿を重ねていた。
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