シークの涙

58.

リドリーの思い出話は続いた。それは怪物だったジョセフ リドリーが、やがて人並みの人間になっていく、そんな軌跡を辿っていた。生きることを諦め、死を受け入れるというよりも絶望のどん底にいたリドリーが、ある日、コスギの名前を耳にする。

「彼のすごいところは、医師として適切な診断を下し、そして次に患者に何が必要かを即座に用意できる男だ。」

リドリーは、ハナの父親をこう振り返った。父の評価に、ハナの胸には父への誇る気持ちが広がっていく。

コスギ教授は内科医であったが、リドリーを診察するや否や、世界中から消化器系の手術に必要な人々を呼び寄せた。医師は勿論のこと、オペレーション看護婦、麻酔医などなど、コスギの元に名医と呼ばれしモノタチが集結していく。どの医者もさじを投げたリドリーの病に、一筋の光りを見つけたコスギは諦めなかった。そして、そのお陰で、ジョセフ・リドリーは不死鳥のように生き返ったのだ。

「わたしの生還は、モーセ、君も知っているだろう?ハベルがかなり衝撃を受けたことを。」

モーセは目を細めただけだった。あの日の祖父を思い出していた。祖父 ハベルはリドリーが不治の病だと知り、アッラーへ感謝した。だが、そのわずか1年後、リドリーが戻ってきた。奇跡なのか、黄泉の国へ足を一歩も踏み入れずに。

「だがな、わたしはもうどでもよくなった。名誉も富もそんなものなど、病の前では何も役に立たん!目が覚めた、まさにそんな感じだった、、、遅すぎるかもしれんが、、わたしの大切なものは、そんなものではない、そう強く思ったのだ。」

だからこそ、リドリーはハナの父、コスギを人生の友と崇めた。命を助けてもらった心からの感謝もあるだろうが、何よりも、真に大切なものを気づかせてくれたコスギに、リドリーは一生尽くしていこうと思ったらしい。そしてまた、、

「モーセ、、君も、そしてもしハベルが今生きていたとしても、わたしの話は信じてもらえんかもしれんが、、、わたしにとって、ハベルは一生の敵であるとともに、同時にかけがえのない同志であると、気が付いたのだ。」

モーセの肩がピクリと動いた。

「そのことをハベルに伝えよう、、そう思った矢先、ハベルはもうこの世から消えてしまった。わたしの前からいなくなってしまった、、」

ハナの目に映ったジョセフ・リドリーは、ただの、一人の翁のように見えた。人生に疲れ、悲しみや辛さを知った、一人の普通の老人のようだった。けれどモーセの瞳に映ったリドリーは、違っていたようだ。いや、彼の瞳が真実を映しだすことを拒んでいたのかもしれない。握る拳が震えていた。ハナはそっと、モーセの震えている手に自分の小さな手を置いた。

「う、、」

モーセは小さく唸った。

「だが皮肉なものだよ。人生とは、皮肉すぎる。わたしが人生の真理に気が付いたとき、ハベルはもういなかった。わたしに、、、懺悔することもさせずに、ハベルは逝ってしまった。わたしに情をかけてもくれず、悔いを改めることもさせてもらえず、わたしを一人残し、、ハベルは逝ってしまった。」

人を食い散らかす病魔のように、人々を傷つけ、その人間の人生をこれでもかと踏みにじり、幾多の命すらもその手で握りつぶしていき、散々悪事を尽くしてきた男の悔恨は、あまりに身勝手で、あまりに一方的で、、、その懺悔は、あまりに遅すぎて手の施しようがなかったというのに、、、誰もがきっとそう思うに違いない。だが、ジョセフ・リドリーがそれを一番身に染みてわかっていたことかもしれない。疲れきったリドリーの顔には、葛藤し続けてきた老人の孤独だけを刻みつけてきた皺の数しか、もうそこには残っていなかった。

「大切な人を失うことの辛さが、初めてわかった、、、身勝手なものじゃ、、、」

その瞳はハナに向けられた。それは悲しく切ない瞳の色だった。ハナの心がひしひしと揺るがされていく。

こうしてすべてを失くした、いや、全てを己の手で闇に葬った男。そして残された最後の絆、、、それはコスギとの友情だった。コスギという男は、医術への情熱のためには必死な男だった。それは絶対あきらめない理想の医師であり、そして同時に、だからこそ厄介なのだ、とリドリーは言う。

「悪役のわたしの命を救った奇跡の医師は、世界中から命を狙われ復讐のターゲットにされるだろうと、、わたしは再三、コスギの説得にかかった。だがあの男は、すでに医師になったときから、いや医師をめざしたときから、覚悟は決めていたのだろう。わたしが用意する安全な病院で一生生活に困らない保障された人生に、いとも簡単に首を横にふりおった。」

結局最終的には未来の家族の為に、=ハナの為に= コスギは少しばかり妥協したという。それが、世界的に名をあげた消化器系内科医としての全てを捨てて、診療内科医からとして一からスタートを切り直すこととなった。すでに知識・経験・そして何よりも誰にも負けない熱意を持つ男は、この分野でもすぐにメキメキと頭角を現していった。そして最終的にはコスギなりのやり甲斐と目標を定めていくことになったのだ。そしてリドリーは、そのコスギを影で見守ることに徹した。まずは、コスギたちを安全に守るために、リドリーに携わった全ての医師たちとの関係を完全抹消した。幸い、コスギは執刀医でも外科医でもなかったため、その辺の事象は簡単にうやむやに闇に葬る事ができたし、また、彼が日本に帰国してからの足取りについても、後で王国の人間がその足跡を追えないように、かなり綿密に画策したのだ。

「だが、誤算があった。そして、恨むべき偶然があった。あのアショカ・ツールが、すみれを愛していたことだった、、、」

ハナの顔が歪められた。あの狂った男に拉致され、汚い手で体中を触られて、そして、母の面影と重ねられ、未遂とはいえ凌辱されそうになったこと、、、忘れようと必死になって、大切な人々の中でこんなにも幸せだというのに、それでもどうしても消せない記憶。理屈ではない。体が覚えているのだ。あの身の毛のよだつようなアショカの手、舌、声、、、思わずハナの体がガタガタと震え始めた。

「あ、、」

先ほどまでハナがモーセの拳に置いていた手が、今度は優しく覆われていた。モーセだ。彼は、その大きな手でしっかりとハナの手を握った。手の温もりはそのままハナの心へも伝わって行く。モーセがいてくれる、そう思うだけでハナは安心できて、それだけで幸せで泣きそうになった。必死に睫毛をしばたたかせ涙を飛ばせば、モーセの心配げな瞳が映りこむ。彼は何も言わなかった。けれど、全てを包んでくれるようで、言葉はいらなかった。

「アショカという男は、野望を持たない、ただ己の部族の存続の為だけに生きてきた男だ。わたしとも、モーセともどっちつかず、いつも良い距離を保っていて、わたしも恐らく油断をしていたのだろう。それがあの悲劇を生んだ。」

リドリーが快復していくその16年後、アショカはすみれを殺害した。勿論手を下したわけではなく、死因は、出血多量だった。真実は、名誉を守ろうとするすみれが自ら命を絶ったということになるのだろうが、アショカがすみれを追い詰めたのはまぎれもない事実だった。

「愕然とした。すみれの死は、わたしをどん底に突き落としていった。そして、当然コスギの悲嘆は、もう想像を超えるものだった。コスギは絶対に自殺ではないと断言していた。彼は狂ったように犯人探しにやっきになっとたようだ。まあ、わたしも同意見だった。すみれの自殺には納得がいかなかった。初め、わたしの命を救った事実から、すみれが狙われたのだと思い、その線から調査していったのだが、、これがまったくの見当違いの方向だったわけだから、アショカ・ツールに辿り着くわけもない。だから事実を知るのにかなりの月日を費やしてしまった。すみれの死から5、6年、、全ては偶然のことだった。」

ひょんなことから、アショカ・ツールが若い頃、日本に留学していたことを思い出したリドリーは、藁にもすがる気持ちで、何気にその周辺を調査させた。すると、当時リドリーの滞在先は、すみれの近所だったということが判明した。そこからは、糸を手繰り寄せるように、あっというまに真実が目の前に転がり落ちてきた。

「わたしはコスギに忠告した。もうすみれの一件から手を引けとな。コスギも独自に調べていたらしい。ハナ、君に被害が及ばないように、彼はわざと自分から遠ざけて、そしてその頃留学していたサビーンに一切合切を君に預けた。わたしも君がサビーンと一緒にいるのならば安心だと思ったよ。サビーンに何かあれば、彼女の後ろだてにいるモーセが動くのはわかりきったことだ。そうなれば話はややっこしくなってくるだろうからね。犯人としてもそんなリスクは冒したくなかったろう。」

そう、あの頃、サビーンがいてくれて、ハナはどんなに救われただろう。失ってしまった母親の愛情を、そして、どんどん自分と距離を置こうとする父親の態度に、幼いながら傷つき、その心の痛みを癒すようにサビーンとの時間を過ごした。父の邪魔にならないようにと、必死に勉強しようと思ったのもこの頃だった。だが、ハナの父親は、ハナを厄介者だなんて思ってはないかった。ハナを愛していたからこそ、だからこそ、ハナに危害が及ばぬように、距離を置いていたのだ。

「わたしは、自分の手でカタをつけるつもりだった。だが、すみれの死にアショカが関係していたらしいことはわかったが、アショカが手を下したという証拠は見つからん。昔のわたしだったら、アショカに最後通牒を渡すには、それで十分だったが、、だが、今のわたしにはやはり証拠を探しだすことが必須となった。」

リドリーは、コスギにアショカ・ツールのことは何も伝えなかったのだが、リドリーの態度から、犯人は、王国関係者だとあたりをつけたのだろう。コスギは最終的にアショカ・ツールに行き当たったというのだ。それを知ったリドリーは、コスギを守るために手を講じた。だが、数歩、コスギの行動が速かった。アショカと密かにコンタクトをとったのかその辺は定かではないが、アショカは、過去の罪の口封じと、すみれの愛を一身に受けたコスギに憎悪したのか、コスギを殺害する。現在、警察で取り調べを受けているアショカ・ツールの口から、詳細もわかってくるだろう。長くに渡り裁かれていくことになるだろうが、アショカ・ ツールはもう逃げられない。

「わたしは、、、このわたしは、、、コスギの死に、、、虚無となった、、、全てを失って、、、アショカへの憎しみも、何もかも、、もうどうでもいいと思ってしまったのだ。だがな、コスギの遺書とも思える手紙が届いた。彼はアショカと対峙すると決めた時、腹をくくったのかもしれん。アショカと会う前日に書き記した手紙をわたしに投函したのだ。」


【ハナのことを頼む、、、】

紙にはそう書かれていたらしい。リドリーは奮起した。必死に力を呼び起こし、全身全霊をかけてハナを見守ることを誓った。ハナの居所がすぐにわからないように画策したため、サビーンが後にハナを探し当てるまで1年間以上もかかったのも頷ける。

「ハナ、君を見守りながら、、勿論、アショカの行動も随時マークしていたのだよ。君に魔の手が伸びぬようにな。」

そしてサビーンがハナを見つけ出し、ハナの窮状を知り、王国へ連れてきて、こうしてハナはモーセと知り合った。

「ならば、リドリー、ハナがここへ、王国へ来たとき、何故あなたはわたしに真実を話してくれなかったのだ?」

モーセの声は、明らかにリドリーを咎めていた。

「フフン、君の瞳に真実はうつらんかったよ。君は、わたしを憎んでいる、、そんな君の耳にわたしの声は届かなかっただろう?」
「ぐっ、、、」

完全にモーセの負けだった。リドリーの言うことは紛れもない事実だ。祖父のことを思えば、モーセがリドリーの話を聞く道理もなかったし、そんな耳すら傾ける義理はない。

「だが、モーセ、君は少し変わったのかね?」
「む?」
「わたしには、そんな風に映ったよ。君のあの優秀な秘書、ラビだったかね?彼から連絡をもらったときには、実に驚いたよ。」

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