シークの涙

8.


「さて、サビーンじっくり聞かせ貰おうか?」

翌日、サビーンが約束通りモーセの屋敷を訪ねた。少しばかり込み入った話なのだとタマール夫人の鼻がプンと効いた。

「ハナ様、クッキーはお好きでしょうかしら?」

そう言って、ハナと一緒にクッキー作りに励むべく、気を利かせてキッチンへハナを連れて行った。二人が出て行くと、広い客間に緊張の糸が張る。

「何から話せばいいかしら?」
「それでは、どこでハナさんとお知り合いになったのか、
というところからでどうでしょう?」

モーセのめいを受け、ラビも同席している。

「わかったわ。、、、ねえ、モーセ、わたしが日本に留学していたのを覚えている?」

おそらくその頃あたりだろうとはモーセも思っていた。

「ああ。」
「あのとき、わたしのお世話になった小杉教授のお嬢さんなの、ハナは。」

サビーンは懐かしそうな瞳をしていた。だが、その瞳の色には悲しげな切ない色が見え隠れしているようにみえた。サビーンは現在38歳で、今から12年前、26の時に日本へ留学した。もともと彼女は語学の才に恵まれ、大学では、第二外国語のフランス語のほかに日本語も選択していたので、日本での生活はそれほど苦労したという愚痴は、モーセも聞いたことはなかった。彼女の専門分野は、心療内科であり、留学と言っても、小杉教授の下で学ぶ研究特待生で、王国のエリートとして国を出発したのだ。小杉夫妻はサビーンを、自分たちの大きな娘としてとても大歓迎した。勿論小さい娘は、ハナで、当時彼女は10歳近く。ただ悲劇はサビーンが日本に来てから数ヶ月で起こった。

「ハナのお母さん、すみれさんが亡くなったの。」

モーセもラビも無言だった。

「しかも自殺、、」
「何故だ?」

モーセの声は硬かった。

「娘をおいて死ねる母親なんているのか? 日本とはそういう国なのか?」

シークは部族を重んじる。そして家族をしっかりと守ることも大切なシークの義務であり、そして権利でもある。だから、家族の絆も固い。モーセにとって幼い娘を残して死んでいく母親など悪魔にも匹敵し、彼にとっては全くありえない話だった。

「それがね、、」

サビーンの口は重かった。

「睡眠薬を飲んで手首を切った、、かなり深く切ったみたい。大量の睡眠薬だったらしいから、朦朧とする意識の中で切った手首の傷の痛みを感じるほど、彼女は苦しまなかったはずだろうけど、、だけど、、その第一発見者が、ハナだったの。」

「何だと?」
「ああ、何という、、」

モーセとラビが同時に口を開いた。二人とも自分の痛みのように思えた。まだ、たった、10歳にもならいない少女が、、、床に横たわっている母親から大量に流れ出る血を見てどんなに驚いたことだろう。そして、いつも優しい母親が横たわり、ピクリとも動かずに、傍らに血のついたナイフが転がっていて、その光景を目の当りにしてハナはどんなに衝撃的で恐ろしかっただろうか。

「現場は何も怪しいこともなく、日本の警察はすみれさんの死を自殺と結論づけたんだけど、、遺書だけは見つからなかった、、 その数年後、警察は殺しの線も考慮して動き始めた、、」
「何故だ?」

モーセがすぐに反応した。ラビも同様にその先を聞きたい様子だ。

「ハナ、、ハナがね、その何年か後になって、その、、お母さん、おじちゃんとお茶飲んだ、っていう証言をしたの。」
「おじちゃん?」
「ええ、多分訪問者がいたのではないかと。」
「ちょっと待て。お前の話はどうも腑に落ちない。」

モーセのロジカルな頭ではサビーンの説明は不十分だ。何故警察が自殺と断定してから数年後殺しの線が浮上してきたのか?またハナは何故、訪問者のことをすぐに警察に証言をしなかったのだろうか?

「わかったわよ、モーセ。わかったから、この話は初めっから順序たてるから、、」

サビーンは両手を胸の前にもってきて、従兄弟を落ち着かせた。

「ハナのお父さま、小杉教授は日本では帝東大学で心療内科で教鞭をとっていらして、その分野では世界で片手に名前があがるほど。その論文は素晴らしかったわ。彼は心療内科を一つの病気の一点ととらえるのではなく、最終的に人が死に直面するときの心的ケアについての多くの論文を発表した。」

ラビがサビーンの言葉を継いだ。

「ええ、サビーン様が師と仰ぐ方で、だからこそ、その教授の下で教えを乞われるため、サビーン様は日本への留学をお決めになったのですよね?」
「ええ、、」

ラビに促された言葉の先にサビーンの瞳が悲しげに曇った。モーセもラビもそれに気がつかないほど鈍くはない、だが、彼らはそれを追及はしない。サビーンは7年前にその日本から引き上げてきたのだが、日本での出来事については、その後あまり多くを語りたがらなかった。ハナのことにだって話した事はなかったし、ましてや小杉教授の細君の自殺の話も今日初めて聞いたことだ。

「わたしが、、着いて早々、何ヶ月もしないうちにすみれさんが亡くなって、、で、ハナがそのショックで体のありとあらゆる臓器に支障を来たすようになったの。朝になるとお腹が痛くて学校に行けなくなったり、夜中突然過呼吸になったり、偏頭痛もあってよく吐いていた。」
「それはそうでしょう。当時10歳の娘が、母親の遺体を発見したんですからね。、、、かなりショックなことだったでしょう。」

ラビは直接的な表現をさけた。すみれの手首から流れ出る赤い血はドクドクと流れ出て、母親の体を侵食して行った。それでも止まることなくあふれ出ていく。つまりそういった現場にハナは一人でいたのだ。

「ハナさんはショックのあまり精神的に病んで、
お体に変調をきたされたという事でしょうか?」

ラビは専門家を前に断言を避けた。サビーンは静かに頷いた。

「実は、ハナはそのときの記憶を一瞬消してるの。だから、その当時は精神的なダメージを本能的に庇うあまり、身体にかなりの負担がかかったのね。」

なるほど、記憶を失った事で、母親が死ぬ間際の状況などが、ハナの口から語られるまでに数年を費やしたというわけか、モーセは納得したように、頷いた。

「それで、小杉教授が、わたしにハナを、、差し出したの。」

「「えっ?」」

「研究材料として。心療内科の分野としては、ハナのケースはかなり興味深い。丁度、わたしの研究課題にはぴったりだった。」

「な、なんと、実の親なのに、子供のケアをすることもせず、
お前に全てを託したというのかっ?」

モーセは愕然とした。彼は冷たい男だ。どんなときでも間違った決断はしない。それが例え他人を傷つけることになろうとも、他の運命を変えることになろうとも、判断が正しければ、決して迷わない。けれど、そこには、家族や部族を守るという根本的な理念になりたっていた。そして彼はどんなことがあっても真っ先にこれらを優先させ、そのために最良の方法を選びだす。それが結果的に、冷酷無比な決断になる場合があるからだ。

「何だか、気分の悪くなる話だ。」

吐いて捨てるように言うモーセの顔は苦々しさをたたえている。だが、サビーンはそのまま唇を噛んで黙ってしまった。自分の師が、悪く思われていることが、かなり堪えているのだろうか。ラビが、空気を読んで助け舟を出した。

「確かに、一見そう思われる方も多いかもしれませんが、、ただ、サビーン様も留学生とはいえ、すでに心療内科医としての経験をお持ちだったわけですから、逆に言えば、サビーン様がハナ様の治療をすることで、彼女の病状がよい方向へ進むと小杉教授はお考えになられたのではないでしょうか?」

途端にサビーンの顔に笑顔が戻った。

「ラビ、そう、その通りよ。みんな、モーセのように、教授のハナに対する態度だけで非難する人々が多いけれど、わたしもラビの言う通りだと思うの。だって、彼は口数は少ないけれど、とても穏やかで本当は優しい方だったから、、、」

サビーンの瞳は、弟子が師を慕う以上のものが溢れ出ていた。

「だったら、それこそ実の父親であるソイツがハナの治療に専念すればいいだろうが!」

相変わらず手厳しいモーセに、サビーンは負けずと説き始める。

「身内が診療するのは、メリットもあるけれど、デメリットの方が大きいの。彼は教授であり医師であるけれど、ハナの父親よ。小杉教授だって、奥様のすみれさんを亡くされたばかりで、彼の精神だってボロボロだったわ。そんな彼がハナの治療にあたれば、ハナには悪影響しか及ぼさない、、」
「フン!結局、自分の精神もコントロールできないようじゃ、医師として失格と言えるんじゃないか。」

モーセは最後まで教授を認める発言をしなかった。おそらく、それは父親として、唯一残された一人娘のハナを見捨てたとしか思えなかったのだ。

「サビーン様の治療のお陰で、ハナ様の記憶が戻ったわけですね?それで、母親が亡くなったときのことの証言で、新しい事実が浮き彫りになった、というわけですか?」

ラビが先ほどの話に戻した。

「ええ。そうなの。だから記憶が戻ってからハナはわたしに話してくれた。すみれさんがなくなった日、ハナが学校から戻ってきたとき、来客中で、おじさんが来てたんですって。」
「それは?」
「すみれさんはその客人をハナに紹介したんだけど、、、その後、ハナは名前までは思い出せなくて、、、でもお母さまが、『お父さんの大切なお友だちなのよ。』って言ったんですって。」
「友だち、、で?そいつの特徴は?」
「それもハナは思い出せないらしくて、、でも、めがねをかけていたおじさん、、とだけ、、」
「フン。」
「それで、ハナはそのままお友だちのところへ遊びに行って、そして帰宅したところに、すみれさんの遺体が横たわっていた。そして訪問者は姿を消していた、ううん、誰かが訪れていたという事実が抹消されてしまった。だって、お友達のところへ遊びに行く前に、ハナはその目にしっかりと焼き付けいるのよ。紅茶カップが2つあって、その横に和菓子も置いてあったって、、それが跡形もなくなっていて、、」

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