シークの涙

9.

サビーンの衝撃的な告白に、一瞬時が止まったようだった。誰もが黙りこくった。幼いハナの感情を、それぞれが思いやっていたのかもしれない。だが最初の沈黙を破ったのはモーセだった。

「では、そいつが自殺の工作をしたと? 動機は?何か他人に恨まれるようなことをしてるくらい、アクドイ奴等だったのか?アイツの両親は?」

最もな質問だった。自殺にみせかけて殺す、まるでドラマの話のようだが、きちんと前もって計画と準備に抜かりがなければありえないことではない。となれば怨恨の線を疑うことになる。

「普通の平凡な家庭よ。人に恨まれるようなことなど、、、ただ、、」
「ただ?」
「小杉教授は、今の心療内科医の地位を築く前には、かなり腕の立つ消化器系の内科医でもあったのね。」
「ほお?」

サビーンによれば、心療内科の医師というのは、その分野だけの狭いフィールドだけで働くというよりも、多くの医師が、別の科の医局を経て、最終的に落ち着くケースが多いというのだ。結局、体と心の両方から来る病が多いため、フィジカルな分野で、ある程度働いた経験値が財産となるのだという。

「ね、モーセ? ジョゼフ・リドリー財務大臣が一度大病を患って死の淵から生還したこと覚えている?」

J・リドリーとは、ペルーシア王国の現王の母方のおじにあたる現役大臣なのだが、王の親戚ということを嵩に着て、現在王国一の権力を持つ。モーセの事業計画が幾度となくこの男によって握りつぶされていた。元々リドリーとの確執はモーセの祖父との間に遡る。二人は同年代で、何かにつけてライバル意識も強く、しのぎを削ってきた相手だ。モーセがシークとして部族を束ねている今も、リドリーから厄介ごとを持ちかけられ、頭を悩ませる事もある。モーセさえリドリーの傘下に寝返ってしまえば問題はないのだろう。現に、マイナー部族のシークなどはそうやって自分たちの繁栄を約束してもらっている。だが、モーセにしてみれば、そんな奴らは、すでにシークの資格などないと思っている。彼らの繁栄は彼ら個人の利益だけであり、ジョセフ・リドリーの僕(しもべ)になるということは、決して部族の繁栄のためなどではないのだ。

「そういえば、、リドリーの執刀医は、どこぞのアジアの、、」

そこでモーセは、はっとした。現在、リドリーは79歳だ。モーセがリドリーを叩き潰さないのは、遅かれ早かれ寿命が訪れるからだ。だが、亡き祖父は、現役時代リドリーと対立をしていた。良きにしても悪しきにしても生涯、永遠のライバルだった。二人の対立時代、祖父の苦悩、嘆きはすさまじいものだったのだ。何故ならリドリーのやり口は汚く品がなく、そして冷酷だった。だが、そのとき、一陣の風がモーセの祖父側に吹いた。モーセは当時10歳で、そのときの祖父の事をよく覚えている。



『おお、神はついに我に味方したのだ!おお神よ!』

コーランが流れてくる夕方、回教徒たちはみなメッカの方向へ祈りを捧げる。ペルーシア王国の都市、ナイヤリでは、宗教が分散しているものの、それでもかなりの多くは地面に座り祈りを捧げている。こんな光景は日常茶飯事だ。祖父は、回教徒ではない、と公言していたが、このときばかりは、祖父も中庭にはだしで降り立ち、外で祈りを捧げている人々と同じように、神に祈りを捧げていた。幼いモーセの瞳に飛び込んだ、祖父の姿。彼は無神論者であり、神は己の中にいるとモーセにいつも言っていたのに、このときだけは、彼はメッカの方向に頭を下げ涙を流していた。だからこそ強烈にモーセは覚えていた。

『じいさま、どうしたの?』

やがてコーランの祈りが終わり、祖父は立ち上がった。おそるおそるモーセは問いかけた。

『ああ、、、』

祖父は孫に見られてバツが悪かったのか、少年のようなはにかんだ笑顔を見せた。

『わしだって、この王国の息子じゃよ。』
『えっ?』
『つまりは一人の人間なのだ。わしの父親が回教徒だったように、わしもその昔は神を信じておった。』
『へえ。』

モーセは意外な気がしていた。

『だがな、シークとなり、トリパティ部族のような大所帯の長となった今は、宗教は足枷にしかならんのだ。部族には、それぞれの宗教心をもったモノタチがいる。その中で、シークがひとつの宗教を凝り固まって信じていると、争いの元になるのだ。』

無言で祖父の言葉に耳を傾けていた。

『けれど、、今しがた入った情報に、わしは、、天に感謝せずにはいられなかった。』

いくら孫といえども祖父は、それ以上は何も言わなかった。




だが、モーセが後になって色々内部の事情に通じていくうちに、祖父と長年の因縁を持つ、リドリーが不治の病に冒され、余命1年と宣告されていたという時期が、どうやらその頃だったのだろう。そして、死の宣告後、手術をして命をとりとめたのだ。それは今から30年ほど前の話。

「覚えております。わたしはまだ赤ん坊だった、、後になって大人達から何かにつけて聞かされた、、、リドリー大臣は奇跡的に命を取りとめ、彼は神の子なのだ、だから奇跡が起きたのだと、、みんなが信じるようにわたしもそんなことを信じていた馬鹿な子供でした。」

ラビは嫌悪するように吐き出したが、すぐにモーセの言葉に阻まれた。

「フン、奇跡は異国の医者によってもたらされたものだったわけだ。」
「そうね。リドリー側は、世界中から名医を募って、、そして最後に神の手と出会った。リドリーは当然敵も多いから、医者を保護する意味でも、その医者のことについては一切の詳細は伏せられた。だから、、、だからわたしたちは素性も何も知らなかった。」

奇跡を起こしたその医者のお陰で、リドリーの命は延長を許され、だがモーセの祖父は落胆し、寿命を急速に縮めていった。いや、そのせいだけではないかもしれないが、運命はモーセがシークになる時期を早めていくのだ。ただ、祖父が亡くなった時期とリドリーの病床生活が同じ頃だったので、幸いと言っていいのか、陰の指導者が不在だった。そのため、ペルーシア王国では比較的に平凡な時代が通りすぎていく。祖父亡き後はモーセの父が実権を握っており、無難にトリパティ部族を束ねていったのも事実だった。その間にモーセには次代を担うシークとしての教育を徹底的に学ばされることとなった。4年近くの平和な月日が流れ、突然モーセの父が凶弾に倒れた。モーセは14歳で部族を束ねるシークと君臨する事になった。今でも父親を殺した犯人は不明。もちろん敵対派の仕業であるのか、あるいは、それがリドリー派の仕業なのか、はたまたまったく違う敵なのかは、現在も判明していない。

こうしてリドリーは死の淵から生還することとなった。多くのリドリー反体制派は、この神の手を持つ医師を恨んでいたことは確かだ。何故なら、余命いくばくもないと囁かれ続けてきたリドリーが術後数年足らずで不死鳥のごとく現役の場へ蘇った。そこからは、リドリーの前に敵はいなかった。ただ、リドリー自身も、モーセの祖父と争っていたような一時の激しく汚いやり方は少しばかり影を潜め始めた。最大のライバルがこの世にいなくなったせいなのか、リドリーも表立って目にあまる横暴をすることもなくなった。モーセがシークになってからは、リドリーと真っ向から衝突することはない。たまにリドリーに不快感を募らせることはあったとしても。モーセは、今、虎視眈々と、リドリーが衰退していくのをじっと待っている。どんな栄華を誇ろうと、人間は必ず死んでいく。そして、通常ならば老いた者からの順番で、だ。よって、現段階で、モーセが手を下すこともない。何故なら、リドリーの老いは逆戻りは出来ず、彼の寿命は着々と擦り減っているのだから。

「その名医が、、まさか?」

ラビの驚いた声がした。

「いや、それはおかしな話だろう。サビーンの話では、ハナの父親は消化器系の内科医だったわけだから、、」

カンの良いモーセの指摘にサビーンが頷く。通常、内科医がメスをとらないとは言わないが、この場合、手術をすることは稀なケースだからだ。

「ええ。そう。ハナの父親、小杉教授はリドリーの術後担当医師。手術した担当医はその後 原因不明で亡くなってるわ。」

空気がざわりと淀んだ。

「わたしも、今回、日本に行ってから真実を知ったわ。本当に偶然だったんだけど、、、リドリーの手術後、小杉教授の優れた内科治療のお陰でリドリーが生還したと言っても過言ではないの。小杉教授の術後計画は完璧だったし、また再発防止、あるいは、再発早期発見のためのケアが素晴らしいものだったわ。だから、手術を執刀した医師が死んでも、小杉教授がいる限りリドリーは安泰といえる。この事実は、長い年月をかけて調べていけば、リドリーの命を本当に救ったのは、小杉教授だとわかってくるものよ。」

サビーンの言う事は真実だ。モーセだってその気になれば、その頃の手術状況や医師の正体など簡単に突き止めていたかもしれない。勿論、彼にその気さえあれば、の話だが。

「なるほど、、となると?」
「すみれさんの死の直前の来訪者、ハナの言う事もあながち否定できない、、そう思うの。そして、ハナが見たおじさんのことがもう少しわかれば、誰がすみれさんの命を奪って、そしてハナや小杉教授の運命を大きく変えた人間が見えてくるはず。」

確かにこの王国の人間の仕業のようにも思える。保守派の思考は、復讐は、罪を犯した人間の家族にも災いするのだという間違った倫理がまかり通っていたりする。

サビーンの声は怒りをこらえているような口調に聞こえた。知人たちの不幸を招いた残虐者に敵意を抱いているのだろう。

「わたし、最初、モーセ、あなたの仕業かと思ったの。」

思いもかけない言葉にモーセの瞳が驚いたように大きく開いた。

「バカな、わたしはリドリーを殺してやりたいと思うほど憎み蔑んでいるが、だからと言って、その医師の家族を殺させるほど愚かではない。」

凜とした口調はモーセの自信の表れだ。サビーンはそれを見て、満足そうに笑った。

「ええ。頭を一瞬掠めただけよ?従兄弟殿がそんなバカな真似するわけないもの。」
「お前の話は横道にそれてわかりにくい、それで結論は何だ?小杉教授の死と、ハナがしゃべれない事実と、何か関連があるのか?」
「「えっ?」」

驚いた声をあげたのはサビーンだけではなかった。ラビもその美しい眉根を上げた。モーセにしてみれば、ハナの状況から、すでに両親が他界しているであろうと推察していた。つまり、ハナの父親も、その何年後には亡くなりハナが天涯孤独になったことを示す。また、母親の死亡時、ハナは来訪者がいたことを証言しているわけだから、ハナがしゃべれないというのは先天性のものではないのだろう。しかも診療内科医であるサビーンが、ここペルーシア王国にハナを呼び寄せたとなれば、ハナの言語障害は、心の何らかの病から引き起こされたものと考えられるのではないか。

「さすがね。モーセ。」

サビーンは尊敬の眼差しを隠そうともせず、モーセを見つめた。モーセは散漫な態度で、彼女に話の先を促した。

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