わんこの騒動

6.

一重の切れ長の瞳が、一瞬細められた。遠くからでもわかるゆり子の姿勢のよさや、美しい歩き方が、彼の視界に入り込んで涼の口元が自然とゆるんでいく。

(まだツキに見放されてないしな、、)

独りごちながら、じっと彼女が改札を通るのをこちら側で待つ。ゆり子は涼には気がついてないようだ。今日のゆり子は、会社にいるときと同じようにオデコをだして髪をひとつに束ねていたが、いつものようなきっちりとした感じではなく、ルーズな柔らかな印象だ。とても優しい感じがする。秋にしては少しばかり寒くなった気候に、レンガ色のショールを首周りにまいて、颯爽とこちらに歩いてくる。今さらながら、実にいい女なのだと涼は舌打ちしたくなった。

「よっ、倉沢っ!」

定期をICチップ台にのせたところで改札のドアが開いた。その前で涼はフイウチをかける。案の定ゆり子の瞳に驚きの色が広がった。

「設楽さん、、」

驚いたように首をかしげ、ゆり子の束ねた後ろの髪の毛がサラリと揺れた。

「どうしたんですか?」
「ん?俺?倉沢のストーカー。」
「え?」

今日はとことんまでダメな男になりさがるつもりだ。涼はあえて電話をしなかった。日曜日の午後だから、もしかしたら家にいるかもしれないと、かすかな期待で、ゆり子のマンションを訪ね、共同玄関で部屋の番号を押した。2回ベルを鳴らしたけれど、インターフォンからは何も返事がない。その辺の買い物ならば、すぐに戻りそうなものだと、家の周りで待つこと20分。ならば、賭けにでるしかないだろう。そう思いながら、ぶらりぶらりと涼は駅へと向かった。彼にしてみれば、運を景気づけにしたい、その一心で、アテもなかったけれど、駅の改札で人の流れをボンヤリ見つめていた。ツキの流れはまだ涼にあるのか、駅についてから30分もしないうちに、ゆり子の姿を目にすることが出来て、涼の口元がほころんだのも頷ける。こんな非合理的なことは、設楽涼の人生で一度たりともしたことはなかった。

「メールをいただければ、、、」
「しない。俺、倉沢からの電話待ってたから、、」
「え?」
「だから俺からはメールも電話もしない、、でも会いたかったから、、、」

いつもと違う涼の雰囲気にゆり子は戸惑っているようにも見えた。

「どこか、行きますか?」
「いや、今日はゆっくり倉沢と話したいから、できれば、、、」

本当はかっこつけてホテルの個室レストランでも、、そう今までの涼なら迷わずそうしただろう。けれど、カッコつけるのはやめた、今日だけは、本音でゆり子とぶつかりたい、、そう思う。

「わかりました。」

ゆり子は、それだけ言うと歩き始めた。おそらくゆり子の自宅に行くのだ。一足出遅れた涼は、しゃんとしたゆり子の背中を見つめながら、情けない気持ちになっていく。ゆり子の本気を、ゆり子の心を、探りたいのに、、これでは、また涼に勝ち目はなさそうではないか。弱気な心を追い出すように、大股で歩いてゆり子と肩を並べた。彼女の爽やかな香りが秋の風に運ばれる。手を伸ばせばこんなにも近くにいるのに、、思わず触ってしまいたくなる衝動をぐっと抑えれば、何だか急に胸が切なくなった。


*****
/コトン、、/

目の前に置かれた見慣れたマグカップ。青いラインがすっと一本鮮やかにカップの周りを飾る。いつものマグカップだ。コーヒーの湯気をハナに掠めながら、涼はほっとしながらコーヒーを一口飲む。

「随分待たれましたか?」
「あ?何、倉沢、誰かと会ってた?」

普段なら絶対しない質問も、今日の涼は気にしない。ゆり子の全てが知りたいのだから。一拍、間をおいて、ゆり子が答える。

「北村さんの、お見合い相手、、笠原舞花さんと、、」
「ぶっ」

コーヒーのしぶきをあわてて手で拭いて、想定外すぎるゆり子の回答に、涼は真っ白になった。

「な、なんで?ど、どうして?」

言った傍から、能天気な北村の顔を思い出した。

「あんのやろおおおおっ!!」

「設楽さん、北村さんを怒らないであげてください。北村さんから、設楽さんには内緒って、約束したんですから。」

どうしてこの女はいつもそうなのだ。自分よりも、牧川や、北村を優先しているように思える、、これは惚れてしまった涼の、醜い嫉妬、ヒガミなのか、、、いや、第三者が見ても、ゆり子は牧川や北村への態度と、涼への態度は違って見える。職場では、完璧に何でもこなす涼には手厳しいこともしばしばだが、できる男とはいえどこか間の抜けている北村や、ここぞというときに甘え上手の牧川には、何故だかゆり子は寛大に思えるのだ。

「お前、、どうして、、そう、いつもいつも、、」

北村に優しいんだよ、、そう言いたかったのだが、涼の矜持がそれを言葉に出させない。

「拝み倒されてしまって、、、」

ゆり子も情けないため息を漏らし、コーヒーを口にした。どうやら、彼女も北村に甘いという自覚はあるようだ。



『たまには、ユリタの前でかっこつけるのやめてみたら、どうですか?』

『ユリタの足元に崩れ落ちて、泣いて騒いで、別れないでくれえ、俺が悪かった、ってのはどうでしょう?』

美和子の言葉が思い出された。北村や牧川のように、バタバタと見えない尻尾を振る事ができたら涼もどんなに楽だろう。


「で、あのオバカになんか言われた?」
「オバカじゃないですよ。設楽さん。」

ゆり子にたしなめられる。こんな場面でさえも彼女はとてもマイペースなのだ。

「それで?笠原舞ちゃん、だっけ?何で倉沢と会ったの?」
「設楽さんの周りにいる、自分よりもかなり年上の女が、どんなものなのか、品定めをしようと呼び出されたようですけど、、、」

やはり、、、涼は指で額を抑える。大方、アンタなんか設楽さんに似合わないし、別れてあげたほうが設楽さんの為なんだから、、、と、こんな風な展開を容易く想像してしまう。そしてゆり子は、そうかもしれないなどと、思いながら、自分と涼とではあわないのだ、などと結論を急いでしまったのかもしれない。

「それで別れるわけ?」
「はい?」
「だから別れたいとかいうの?」

ゆり子とのかみ合わない会話に涼はイライラを募らせる。

「俺は嫌だから。」

ゆり子の瞳が細くなった。薄い唇をギュッと噛み締めて、眉間にシワを寄せる。真意が伝わらないのだろうか、あせりながら、もう一度ゆっくり言葉にした。

「俺、倉沢と別れないから。」
「わたしもですよ。」

即座にゆり子から反応があった。

「え?」
「何で別れ話になるんですか?設楽さん、、もしかしてわたしに飽きました?」
「え?ええ?ち、違うっ!!」

あわてて首を振りながら、涼はゆり子の顔を見つめた。

「だって、、あれ、、倉沢、、ここのところ、、俺たち、、」

なんともしどろもどろの涼で、実に不甲斐ない。ゆり子を前にすると、涼はとんでもなくカッコ悪い男に、なっていく。これが惚れた弱みというものか。

「少しお互い、、頭を冷やした方がいいのかな?ってそう思っていました。」
「、、、、」
「だけど、、、思ったより、、、辛かったみたいです、、わたし。」
「え?」
「自分の気持ちと仕事は別物と割り切っていたつもりなんですけど、、、結局、、下らないミスを犯してしまって、、、かなりへこみました。」

美和子と金曜日飲んでいたときに言っていた話だ。

「設楽さんに、、会いたかった、、、」

ゆり子の白い肌がうっすら赤くに染まった。

「え?」

「会いたかった、、、」

もう一度ゆり子はつぶやいた。瞳が潤み熱を帯びていた。涼の胸がドキリと高鳴った。

「だったら、何で電話しねえんだよ? 会いたいっていやあ、すぐに飛んできたのにっ!」

ゆり子がクスリと笑った。

「それが出来れば、、苦労しません、、、」

ゆり子の指先が何度もマグカップをいじる。

「今日笠原舞花さんと話して、あんなふうに何でも素直に自分の気持ちをさらけだせることに、本当に羨ましいと思いました。」

恥ずかしそうな色を隠しながら、ゆり子は目を伏せた。結局、恋愛ベタの外見だけの大人たち、素直な気持ちを時々心の奥底に封じ込めてしまう。なんともお粗末な話なのだが、、、

だが、ゆり子の切なる思いは、十分すぎるくらいに涼の胸に伝わっていく。いつだって強情なくせに、いつだって睨んでるくせに、いつだって頑固なくせに、、、こんなときに、会いたい、、なんていう女。勝てるわけがない。

体が勝手に動く。涼の長い指先がゆり子の顔に伸びていく。涼は目の前にいるゆり子の顎を指先で持ち上げた。俯いていた睫毛があがり、涼を視界におさめる。視線がからみあい、涼はぐいっと前に乗り出して、ゆり子の唇を優しく覆った。

刹那、涼の背筋がぞくりと震える、、ああ、ぬくもりだ。この温かな感触はゆり子そのものであり、涼の大切な女。

ゆっくりと唇を離した。涼はじっとゆり子の瞳を見つめていた。ゆり子の瞳は潤み、目じりがほんのり赤く染まっている。

「たまんねえな。」

何度も思う。この女と会うたびに、触れるたびに、何度となくつぶやく言葉。

「たまらない、、、」

そう、一生、勝てる相手ではないのだ。

「わたし、、設楽さんの指が好きです。長くて、、細くて、、綺麗だと思う。」

ゆり子の口からもれ出た言葉に、涼の胸が弾む。色々な女から言われてきた言葉。つい先日も、笠原舞花にも憧憬の眼差しを向けられた。けれど、ゆり子が紡ぐ涼への賛辞は、たまらなく心地がよい。

「いやらしいな?」

ニヤリと笑って、指でゆり子の唇をなぞる。

「あっ」

エロチックな動きで、誘うように、ゆり子の唇を指先でこじあけ、舐めさせる。

「甘い?」

ゆり子の顔が真っ赤に染まった。きつい目で睨まれた。こんな表情もたまらない。どんなに肌をあわせても、なれないらしく、こういう場面で必ず睨まれる。ゆり子の手が涼の腕を掴んだ。

「もお、美味しくなんかありませんから。」

照れているらしく、すぐに涼の指先は口から出されてしまう。

「こんなとき、ばっかり、、、」

ゆり子の情けない声が漏れた。

「え?」

「こんなときばっかり、饒舌でわたしを追い詰めるくせに、、肝心なことはいつも言わないから、、設楽さんが何を考えているかなんて、、わたしには、、わかりません、、」

ゆり子が肩で息を吸った。彼女にしてみれば、必死に心の叫びを絞りだしているというところか。
Copyright(c) 2013 Mariya Fukugauchi All rights reserved.
inserted by FC2 system