処女の落とし方

12.

出張から帰ってきた涼は怒涛の日々を過ごしていた。決済書類もたまっていたし、お偉いさん用の出張報告書もまとめなくてはいけない。牧川は帰国後、SCMとミーティングをしたりで、ゆり子の部署へ頻繁に顔を出していたが、そういった細々した打ち合わせは涼が出て行くほどでもない。また、時間も取れずSCM関係は牧川に任せたきり。つまりは、ゆり子に会えてもいないし、声も聞いてもいない。お望み通りの美和子へのテキーラすら牧川がSCMへ行くついでに持っていってもらっていた。


【宛先:海外事業部第3課 設楽課長
件名: 御礼。
輸入飲料深謝。不義理にも直接拝顔できず残念でした。勿論何かあってもサポート致しますので、お忘れなきよう。 
谷美和子】


美和子から、お前これからきっと世話になるくせに、顔も見せずに物だけ届けるとは失礼な、とでもいうような皮肉がはいったメールが届き、涼もあわてて返信する。

【失礼重々承知で申し訳ない。今後のことも含めてまた何卒よろしく。】

と返せば、了解との短い返事。美和子は絶対に味方にしといたほうがいい、と涼の本能は告げていた。かわいらしい横顔でデスクワークに余念がない牧川を横目で見ながら、涼は一瞬だけ仕事の事を忘れ、ひとつ息をついた。



*****

その後メキシコ滞在中に提起していたSCMと横浜工場の品質管理とのミーティングが行われていた。品質管理部に承認課というのがある。工場に納品される材料品や品物はまずこの承認課で納品日を記載する。承認課の納品日印が記載されてから、初めて 生産、品質管理の工程が開始する。そして最後はまた承認課で全ての作業を確認後、終了印日を記載して出荷準備完了。つまり、どんなに事実上商品が出来上がっている状態でも承認課が印を押さない限りは出荷が出来ないというシステムなのだ。

商品によっても色々違うのだが、通常出荷は納品されてから5日後と決められている。涼達の担当原材料も通常これに等しい。ただし営業は顧客側寄りのところもあって、お客が早くほしいといえば、どうしても掟やぶりを承知で出荷要請をプッシュすることになる。SCMは商品の工程を確認し、出荷準備が整っていて承認印未了のものがあるときは、当然、承認課へ連絡をして頭を下げなくてならない。もうこのやり取りが何万回と繰り返されてきておりSCMスタッフはかなりうんざりしている。というのも、承認課に はばかる久保川課長の存在が元凶なのだ。久保川は印籠のように、商品の出荷の猶予は5日で、わが課はそれに準じて仕事をしているのだ、と言い張る。他の承認課のスタッフはみんな嫌な顔せずに仕事だと思い、あんがい協力的なのに、だ。

営業だってSCMだってみんな決められた期間以内で出荷できるのが望ましいと考えている。ただ理想と現実はまた別なのだということも承知していた。それなのに、ルールとは別の場所で起きる、緊急出荷要請に対して、久保川はいつもネチネチと文句をつける。特にSCMは全員女性なので、言い易いというのも要因の一つかもしれないが、、、いつものイヤミが始まり、その間承認作業がまたもや停滞しているのは確実で、ほとんどのゆり子のスタッフはただひたすらイヤミが終わるのを待っている、というのが毎回の話。

今回牧川の担当しているタラウマラオイルについては出荷期間が3日しかない。工場についたらすぐに作業を始めてほしいところ、承認課では、納品日印の承認が遅いため生産が遅延しているというのが現状。そこで、このオイルについては、入荷する際、SCMで入荷日を連絡し倉庫とも連携し、納品したらすぐ承認作業という工程を確立してほしいと提案していた。

承認課長の久保川としてみれば、SCMに倉沢がいるものの、営業は牧川だけ、それ以上の大物が会議に出席していないのが不満でたまらない。仕事の出来ない男の典型的なプライドである。結局会議はのらりくらりとはぐらかされSCMと牧川達は勝利を100%手にする事ができなかった。

課長席に座っていた涼は牧川からさっきまで行われていた久保川との会議内容の報告を受けていた。

「まったく僕達はいつもSCMに出荷要請依頼してるだけでいいけど、毎回毎回、あの親父に頭を下げてる日比野たちとか本当、かわいそうっす。」

久保川の評判の悪い事は今に始まったことではないが、営業などは直接関与することはない。営業がたまに直接久保川に頼む事もあるが、男同士の“なあ、なあ” 的会話の際には、久保川はそれほど嫌な顔をすることはないのだ。牧川にしてみれば、今日、目の当りにしてみる久保川課長のイヤミな態度に頻繁に接しているSCMスタッフの苦労をおもんばかった先ほどの言葉、なのである。

「それに倉沢さんにイヤミネチネチで、ずっとですよ、最低ですよ、あのおっさん。それなのに、美和子さんと倉沢さんを誘って飲みに行こうって、僕もついていこうかな、心配っす。」

それは聞きのがせない一言だった。涼は時計を見た。頭の中で、この仕事をきりのいいところまで終わらせるのにかかる時間をさっと計算し、おもむろに電話をとった。

「あっ、倉沢? 久保川課長、今、どこにいるかな?」




*****

何とか夜7時には仕事にカタをつけ、ゆり子と美和子を誘い、“久保川ご機嫌伺い“ に励んでいる最中。涼は会社の傍にある落ち着いて美味しい和食が楽しめる場所を選んだ。完全個室から見える庭園が高級感をだしていた。先ほどから久保川は機嫌よく振舞っていた。久保川を庭の見える一番良い席に通し、隣には口達者の美和子、久保川の前には涼が座り、その隣をゆり子で固めていた。

「まあ、わかってますよ。わたしも、あのオイルが結構な利益を生んでるのはね。」
「辛島本部長も最近工場のスムースな受けだしにご満悦でしたよ。うちの牧川とかがいつも無理を言ってすみません。」

頭をさげながら、涼はキレイな笑顔を浮かべて久保川にビールを注ぐ。

「そういや、辛島さんと最近会ってないなああ。」
「じゃあ、今度いらっしゃるときはみんなで飲みましょう。」

涼が言えば美和子も加勢する。

「そうですよ、横浜近いんだし、もっとこっちに顔出してくださいよ。うちの子たちも電話で久保川さんとお話しするよりも、課長のお顔拝見しながらのほうがきっと喜ぶと思いますよ。」

それは本当のことだった。電話でいつ終わるかわからないイヤミにつきあわされるよりは、顔を見たほうがまだ次の打つ手があるというもの。その上、久保川が工場にいないほうが、あんがい作業がスムーズに行くのも、これもまぎれもない事実。

「谷さんは、もう結婚してるんだよね。倉沢さんはまだだったかな。確か倉沢さんは、谷さんより入社早いよねえ。」

ゆり子にイヤミに聞く。美和子がすかさず援護射撃で応じる。

「何言ってんですか、久保川さんだって今は独身でしょ? うらやましいですよ、独身っていう響き。」

久保川はゆうに涼よりかなり入社は上だが、未だ独身。いや実はバツあり。底意地の悪さを考えれば、前妻が何を思って離婚を決意したのかその理由も頷けるというものか。ただ久保川は年の割りに見た目は性格ほど悪くはない。SCMの早乙女まみは、あたしが犠牲になってあの課長のイヤミが収まるなら、と自ら人身御供を買って出るくらいのジョークがでるほどだ。

「設楽君も独身だったよね。うらやましいのはこういうのを言うんだろう。遊びまくっていたっていう噂だしねええ、モテていいねえええ。」

久保川は涼とは関係なく、ゆり子を値踏みするようにじっと見ていた。例の牧川が言っていた噂が頭をかすめ、横浜工場にまでそれが広まっていたのかと、涼はヒヤリと嫌な汗をかいた。

「そういう久保川さんだって色々あったんじゃないんですか? 久保川さん素敵ですもの、すごい逸話、お持ちそうじゃないですか?」

美和子はソツがない。涼は安堵し『また借りだ』と美和子に頭があがらない。

「わたしなんて、はははは。」

満更でもない話題に、久保川はすっかり気をよくしていった。



*****

2時間近く食事をし会計の段となる。当然涼のおごりでレジで支払いをしていた。レジは出口にあり、その隣には洗面所がある。美和子は化粧室へといき、ゆり子と久保川が出口で待っていた。久保川が少し酔っているせいか、どうやらゆり子にせまっているようにも見える。

「倉沢君、もう一軒行かないかい?」

ゆり子は即答せず、時計を見る。

「独身同士だし、何も悪いことではないんじゃないか?」

涼が会計を終わり振り向いたときには、久保川がゆり子の肩を抱いて耳元に口を近づけて話しているときだった。涼は、頭にカッと血がのぼり、思わず久保川の手をふりほどこうと傍による。背の高いゆり子の目とあう。久保川は背がゆり子より少し高いくらいで、酔っているためか肩を抱いていても頭はだらりと下にさがり、涼の形相は全く目に入っていない。ゆり子は静かにかぶりを振って、ゆっくりと抱かれている側の肩を下げた。するりと自然に久保川の腕が抜け落ちた。

「久保川さん、今のは、セクハラにカウントはしませんね。」

きれいな切れ長の目を細めて、淡々と言い放った。顔には何も感情がでていない、いつものクールなゆり子。

「本当はわたしみたいな年齢でもセクハラを受けたと自惚れたいところですけど。」

涼が冷静さを取り戻し、久保川を誘う。

「久保川さん、この後お時間あれば、独身の男同士、夜の街を少し謳歌しませんか?」
「そ、そうだな、うん。」

久保川はすでに涼の誘いに心奪われている様子。丁度美和子が合流し、涼と久保川は夜の繁華街へと消えていった。行った先は勿論六本木の麗華のお店。ひとしきり飲んで涼が会計をしようとすると、久保川が言う。

「設楽君、わたしのことはいいから、、、もう少しいるよ。」

たくさんの女の子に囲まれているのは麗華の心配り。それにすっかり気をよくした久保川はもう少し遊んでいきたそうだった。

「わかりました。じゃあ僕はこれで失礼しますので。」

ここまでの時間の会計は涼がきっちり支払う。久保川の見ていないところで麗華に耳打ちする。

「あの人、独身で、結構お金もってるから、たくさん使わせちゃって。」

麗華にウィンクすれば、『ふふ、悪い人ね』と笑いながら涼の胸を軽く、ぽん、と押した。わずかに近寄った麗華から追憶の香りが涼の鼻をかすめる。涼はそのまま出口に向かい、見送っている麗華に後姿を見せながら、『沢山散財してもらえよ』と後ろでに手を振り店をでた。

涼は久保川が今夜ゆり子にしたことを再び思い出していた。あの白く長い首から流れるように続く美しい肩の線、その上に置かれた久保川の腕。美観をそこねる光景、、

(くそっ。)

今夜はあれだけ飲んだのに全く酔っていなかった。別れてしまった麗華に思いを馳せる。思わず頭を振った。涼は、打倒、牧川!と心に誓う。女を抱きたいのではない。ゆり子がほしいのだ。ゆり子を優しく抱きしめたい。だが、それからは、、、答えがまだ決められないその先、、、

意気地がないにもほどがある、涼は自虐的に自分を追い詰める。自分はゆり子をどうしたいのか、、ゆり子は涼をどう思っているのか、、いや、ゆり子の気持ちがわからないから、それが自分をここまで追い詰めているのだ、、、ゆり子の心がどうすればわかるのかその手立てすらおぼつかない。女と付き合うってこんなむづかしいものだったろうか、涼は今までの女たちを思い出しながら、この勝手の違う状況をどう対処すべきか、また途方にくれる。最悪の状況だ。
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