処女の落とし方

14.

涼は美和子の一言で嫌な汗をかいた。まだあの噂の顛末があるというのだろうか。美和子の次の言葉を涼は腹を決めてじっと待った。

「すでに伝説になりつつある、同期後輩食いの、、」
「ああ、つい、この間牧川から聞いた。」

美和子は目を細め、皮肉な口調でちょっと笑った。

「ふっ、“この間ね” ですか?  
ユリタは、ここ、9年、ずっと、その噂のお陰で、、、」

つまりはゆり子は、そういった男たちからの征服の対象になっていったということ。涼が唯一落とせなかった倉沢ゆり子をもし自分が落とせたらという征服欲に駆られた男のエゴで、告白されたり、付きまとわれたり、セクハラまがいのことをされたり。そういうことがずっと続いていたらしい。最近はさすがにそれもなくなってきていたが、未だに諦めきれずにいる久保川とか数名の社員から、いい寄られる事がまだあるという。

ほとんど顔色を変えず淡々と業務をこなしていく。口数も少なく、時々ゾクリとするような目の光を放ち、涼を睨む女。そのゆり子に長年にわたってそんなことがおきていたのかと、今さらながらの事実に、益々言葉がなくなって行く。

「知らなかった、、、オレ。まったく、、」
「でしょうね。設楽さん、他人のことなんて関係ないですものね。」

ゆり子にも確か同じ事を言われていた。あの女は一言も愚痴すらも言わなかった。全くゆり子に身に覚えのないことで、勝手に誤解され、理不尽にも、この間の久保川みたいなやつとや、セクハラまがいのことや、嫌な思いを、何度も何度もしたのだろうか? 涼はあの意志の強い決して人に弱みを見せないゆり子の目を思い出す。

(、、なら、、恨まれているのか、、、俺、、)

それにしてもと思う。女子社員を次から次に手を出していた涼にとって、噂の尾ひれはあっても、それはまあ事実の許容範囲というべきか、だが、ゆり子が振ったという話は全くの事実無根。いや一度だって手をだしたことすらないのだから、ゆり子が振る振らないの問題ではないのだ。涼がずっと疑問に思っていた事が口にでる。

「でも何で噂の顛末が倉沢なんだよ? 
俺誓っていうけど、倉沢を口説いた事一度もないのに。」

「だからじゃないんですか?」
「え?」
「あれだけ女子社員にお手をつけていた若様がですよ、ユリタには一度も言い寄らなかったんですから、、何か理由があるって思いませんか?」
「、、、」

「ユリタは問題起こすような、つまり男に即座に責任取らせるとか、そういう厄介なタイプじゃないし、どちらかと言えば、ちょっと手を出してみたい気さえおこさせるようなチャーミングな女ですよ、ユリタは。第1あの頃、設楽さんは、ユリタが処女だってことすら知らなかったわけですよ? 何の理由で手を出さなかったのでしょう?」 

美和子はチラリと涼を見た。

「それにね、設楽さんの後輩食いは何故かユリタの代でピタッて終わってるんです。気づいてましたか?」
「えっ?」

意識したわけではないが、確かにその頃から涼の仕事も少しずつ増えていきどちらかといえば仕事に重きを置きだした頃だろうか。

「いや、それは偶然でしょう?」
「そうですかね? わたしは設楽さんの噂聞いてましたから、入社当時は今か今か、って誘惑されるの期待してたんですけどねえ?」
「おまえなああああ、」

(そうだよな、確かに、倉沢の下の代って、、あまり覚えてないし、、)

ニカッと美和子が笑った。

「さっきの動物クイズなんですけど、牧川君がもし野獣なら、ふふ、まあかわいい野獣ですけど、、もし子羊が泣いて騒いで食べないでって言ったらどうするんでしょうね?」
「さあね?」

涼は頭をひねるがまるで見当もつかない。

「多分どんなにお腹が空いていても、子羊が懇願していたら、きっと、彼は食べないで、子羊をただ、ただ、みつめているだけだと思いますよ。何日も何日も、何も口にしないで、、、目の前でそのかわいい野獣が弱っていくのをみたら、さすがの子羊だって、泣き止んで、食べてください、って自ら自分をさしだすかもしれませんよねえ?」

ありえる、ありうる、涼は頭をかかえて、思いっきりワインを飲み干した。何だか今日の酒は悪酔いしそうだと思いながら、、、、

*****

美味しい肉料理とワインを満喫したものの、帰宅するには少しばかり早い。美和子は今度は自分が寝酒を馳走したいからと言い出し、今、2人タクシーの中だった。美和子はどこへ行くとも涼には言わず、運転手に井の頭通りを西へとだけ告げて、乗り込んだ。車窓の風景を見ながら、涼は段々自分の家の方角に向かって車が走っているのだなと思いながら、それが偶然なのかどうなのか図りかねていた。やがて車は池の上駅周辺で止まった。財布を出そうとした美和子に、涼が、俺がだすよ、と先輩風を吹かせる。タクシーから降りた涼に、美和子が、満面の笑みで、サンキューです。とお礼をする。

「いいよ、どうせ、俺の家もこっち方面だから。ここから2駅手前。」

涼が言えば、美和子はすかさず答える。

「ええ。何度か朝お見かけしますもの。」
「えぇぇぇなんだよ、お前、声かけてくれりゃあいいのに。」

『人が悪いよなあ』と頭を軽くかいた。

「ええ? 朝っぱらから、嫌ですよ、面倒ですもん。」

しらっと答える。涼は思わず笑ってしまう。谷美和子のこういう所、実によろしく、確かに正論。朝は出来れば知らん顔するほうがお互い楽なのだし。この手の女は、過去に確かに涼がよくつきあっていたタイプだ。ゆり子の1期下で入ってきた美和子をよく自分が手を出さなかったと、今さらながらに思っていた。しかし同時に、現在ゆり子のことがある以上、自分が美和子と肉体関係をもっていなくて本当によかったと安堵もする。そんなことになっていたら話がますます複雑でやりきれない。

美和子に案内されたところは駅の商店街を抜けて、少し歩いた閑静な住宅街の中にポツンとあった。

『ここなかなかですよ』と言いながら美和子は涼をリードしながら店内に入っていく。どうやら顔なじみらしく、従業員が人なつっこい顔をして美和子に次々と挨拶をする。美和子は奥のカウンターを選び、涼と並んで座った。

「何飲みますか?」

メニューを見れば一応酒全般はあるが、どうやらワインの種類が豊富のようだ。 

「じゃ俺、久しぶりにチリの赤ワインにするわ。」

指でメニューを指し示す。

「はあい。 マキちゃん、お願い。」

フロアーからマキちゃんらしき女性がやってきてオーダーを取っていく。その時、美和子がフワリと笑って手を上げた。涼は手が振られた方に視線をやって、心臓がドキリとはねた。

グレイのパーカーを無造作にはおり、ジーンズのいでたち。いつもひとつに結わいている髪を肩まで下ろして、こちらに歩いてくる女。全く見慣れないゆり子の姿に、涼はひどく居心地の悪い思いがした。

「ユリタはここが最寄り駅なんです。ふふ、あたしは結婚してから夫にも便利なんで、ここに越してきたんですよ。」

(知らなかった。)

「まったく急に呼び出すんだから、もう、美和子。あっ、今晩は、設楽さん。」

涼の耳にとても落ち着いた耳障りのいい声が届いた。

ゆり子は涼が来ていることを知っていたのか否か、別段驚く風もなく、いつもの淡々とした口調で挨拶をする。しかし涼の方はといえば、いきなり、こんなカジュアル姿の彼女に面食らってしまう。全く知らない女がそこにいるみたいに感じてしまうのも、髪を無造作に肩にたらしラフな服装に身をつつんでいるためか。

(なんだか、、幼くみえるというか、、)

「今日は家でゆっくり飲もうと思ってたから、もう化粧もおとしてしまって、すみません、設楽さん、お見苦しかったら、、」

幼く見えた印象は化粧を落とした顔だからなのか。薄いピーチ色のグロスだけを唇に塗っているだけのようだ。そういえば、先ほど美和子がタクシーの中で携帯をカチカチしていたのを思い出す。ゆり子に連絡をとっていたのだと納得がいった。そして思いもかけずに会えたことと、今の涼の気持ちの高ぶりが果たして関係しているのか、涼はあわててワインをまた口につける。何事もないようないつも設楽涼に戻って、言葉をかけた。

「なんだよ、かわいいけど、、ちょっと、いつもと違うんでびっくりしたよ。」

ゆり子も涼の隣に座った。美和子とゆり子で涼を挟む形だ。

「ユリタ、今夜はあたしが奢るから、何でも飲んで!」

ゆり子はチラリと涼の頼んだワインに視線を落とす。

「設楽さんのは?」
「ああ、俺、チリの辛口。」

ゆり子はメニューも見ずに先ほどのマキちゃんを呼び、注文を伝える。

「全く、あなた方はマニアックですよ。折角美和子さんが奢るんだから、こういうときは王道のフランスとかイタリアで頼んでほしかったわ。」

ゆり子はスペイン産の赤をオーダーしていた。

「いいのよ。だって、あたし好きなんだから。
飽きるまではスペインのあの赤がいいんだから。」
「そうだよね、ユリタ、冒険しないもんねえ。」
「だって冒険して、味を裏切られたらショックだもの。美和子が折角奢ってくれるのに。」
「何よ、たかだかワインでしょ? 色々試せばいいのに、」

そうね、とゆり子は笑う。涼はずっとゆり子を目で追っていた。


///観察したあげなきゃだめなんです。ユリタは見ててあげないと、、///


ゆり子は美和子と一緒にいるときは表情も柔らかいし、いつもよりよく笑う。それを見れるたびに涼の心臓が少し早くなる気がした。

「今夜は美味しかった?」

美和子は今夜の談合を何といってゆり子に話したのかは不明だが、とりあえず涼に食事を奢ってもらうことだけは言っていたようだ。

「うん、美味しかった。あたしがリードタイムで設楽さん救ったんですものね。このくらいじゃお安いくらいですよ。ね、設楽さん?」

実は2週間ほど前、リードタイムの件で、美和子を連れて得意先を訪ねていて、現状など専門的立場から説明してもらった。客もそれでようやく納得して、現状維持という結論で一件落着。確かに美和子のサポートの力と言えたのも事実。

「よかったじゃない。」

ゆり子の白い指先がワイングラスの足をそっと持つ。それを静かに持ち上げて口へと運ぶ。パーカーのえりもとから長い首がのぞく。素肌がドキリとするくらい白くて、ワインを飲む度に、その白いのど元がゴクリと少しだけ動く。

「ユリタはどうだったの?」
「わたしはこ一時間くらいかな? 軽く飲んできた。」
「牧川君、言い寄ってきた? ねーねー?」

ゆり子の流れる仕草に思わず見とれていた涼は、いきなりの急な名前に動揺する。思わず驚きで言葉が押し出された。

「倉沢、牧川と2人っきりで飲んでたの?」
「あ、はい。」

つい声がきつく責めている口調になってしまう。今夜は涼も仕事のあがりが早かったが、確か牧川も早くあがって何だか少しばかり浮かれながら帰っていたのを思い出した。

「牧川とどんなこと話すの?」
「え?」
「いや結構年離れてるでしょ?」
「あら失礼な、それってケンカ売ってます?」

美和子が即座に応戦する構えで話に入ってきた。ゆり子は下を向いて笑っていた。

「わたしも同じ事思いましたから。何だか、若いって思います。目がキラキラしてまっすぐで、みてるこちらが気恥ずかしくなりました。今夜。」

ゆり子はふわりと笑った。涼にしてみれば牧川を思って笑顔になっているのかと思うと、こっちを、今ここにいる涼をしっかりと見てもらいたい衝動にかられる。
ポチリ嬉喜
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