処女の落とし方
4.
月曜日から飲みに行くのはちょっときつい。日曜の怠惰をまだ引きずって、週始めのリズムに慣れない朝。そして否応なく時間が流れ、昼、夕方、と仕事が終わる頃、やっとリズムが戻る。月曜日は、わき目もふらず帰宅して明日のためにゆっく体を休みたい。なのに、設楽涼は、今、ドイツ風居酒屋にいる。
今日は散々だった。朝、出社早々、本日午後一の定例会議をうっかり失念していたことに気づく。部下からのデーターをもとに、午前中は統計や、前回の懸案事項に打開策を折込み、さらに資料集めに翻弄。結局、昼抜き。午後一の会議には間に合ったものの、今日、税関から出てくるはずの原材料の一部が、書類不備のおかげで保留との連絡あり。それは涼が自ら緊急に出荷要請をかけてもらった材料品で、納品先は、涼がヒラ社員の頃からお世話にっている超VIPの顧客だ。しかもその要望が緊急納品。前もって品管部長に頼み込んで材料が着き次第、優先で作業開始の約束をとりつけていたというのに、その肝心の材料がなければ生産遅延。超お得意様だから納品期日に間に合わないのは非常にまずい。何とかすべく、とどのつまり、SCMの倉沢ゆり子のところに出向いて、例に漏れず拝み倒した。結局月曜日から、涼の寝不足の原因と顔を合わせてしまい、もやもやとしているのも我慢出来ず、ゆり子を飲みに誘った。彼女は月曜だというのにあんがい嫌な顔もせずについて来た。
今日のゆり子は髪を一つにくるりとまとめシニヨンにしている。勿論きれいなおでこをしっかりだしているオールバック。聡明な彼女は年相応の化粧をほどこしていた。20代に対抗して若作りメークなど決してしてないところが好感がもてる。
涼はすでに空腹感が麻痺していたが、とりあえず腹にためこむように、チーズをかじりソーセージもつまむ。ゆり子とはまずは当たり障りのない仕事の話題で、本題のタイミングを計る。
「そういや、北村のチーム、
松島百貨店からまた契約取れそうだって?」
何気に北村の名前を出してゆり子の表情をうかがう。ゆり子は何事もなかったように白ワインをそっと口にした。グラスが冷えているのかシャンパン色のワインが少し霧がかっている。
「そうなんですか。すごいですね。」
ゆり子から表情は読めない。諦めて涼は もう一杯ビールを注文した。
「設楽さん、北村さんから何か聞きました?」
いきなりの先制攻撃に、とぼけてみる。
「何で?」
質問には質問返し。困ったときの常套手段。
「そうですか。」
だがこれはゆり子には通じなかった。いきなり話題に終止符が打たれそうになって、あわてて涼は言葉を継ぐ。
「いや実は聞いている。」
いたらずらした子供のように頭をかいて笑った。笑うと一重の切れ長の目が細くなって幼くみえる。普段はクールそうに大人の男を見せつけていても、時々不意をついたように無邪気さを見せる。涼のこのギャップが世の女はたまらないらしい。
「あの本、何で渡したの?」
「北村さん、何か言っていました?」
「何だかよくわからないけど、読んだらしいよ。
で、女に今まで騙されてたああって、泣いてたぜ。」
クスリと笑った。『おや?』というように涼は眉毛をあげる。
「北村さんらしい。でもよかった。」
最後は自分に言い聞かせるように聞こえた。
「珍しい。俺、初めてみたかも、倉沢の笑うの。」
「まさか?」
「だって、いつも俺のこと、睨んでるじゃない。」
「最近は、そんなに睨んでませんよ。」
「じゃあ、前はやっぱ睨んでたんだ。」
ゆり子はあまり口数が多いほうではないから、こういう砕けたやり取りは、らしくない。けれど涼はこの空気が嫌いではなかった。
「あれか? やっぱり、受付の上田に何か言われた?」
ゆり子はじっと涼を見つめた。
「知っているんですか?」
「ん?」
「上田さん、たぶん、設楽さん狙いです。」
「ああ? 俺、手出してないけど?」
「だから、蛇の道は蛇。
仲いいの知っているから、だからじゃ、ないですか?」
「北村、遊ばれちゃったんだあ。」
おどけた口調でいうものの、実は上田のしたことは非常に内心面白くない。いや不愉快だ。心中のイライラを消し去るように、涼はグイっとビールを飲んだ。
「設楽さんほどじゃないと思いますけど?」
「何が?」
「上田さん。」
ゆり子は涼が入社当時のあんなことやこんなことを指して、それと比べたら上田はかわいいものだ、と言っているのだ。涼はあからさまに嫌な顔をする、ポーカーフェースが崩れる瞬間。
「今舌打ちしました?」
ゆり子は珍しく目を細めて笑い、してやったりという顔をして気持ち良さそうにまたワインを一口飲んでいる。その笑顔に、まあ、いいかと思い直し、涼は会話を続ける。
「それで上田和美、何て言ったの?」
「わたしは直接聞いてません。その場で聞いていたら、
今頃、彼女が二度と立ち上がれなくなるくらい、
かなり辛辣な言葉でボロボロにされているはずですから。」
サラリと顔色ひとつ変えず放った過激な言葉。涼は、『誰に?』とはあえて聞かない。倉沢ゆり子は普段しゃべらないくせに、言うべき時には、ものすごく弁がたつ。おそらく理詰めで淡々と上田を追い込み巧みな言葉で切りつけていたことだろう。
「うちのフロアーの子が、上田和美と同期で、飲み会のときに話してたらしいんですけど、どうやらあまりに聞くに堪えない内容だったからと、その子がわたしのところへ後で相談にきたので。ちょっとプライベートの問題から大幅にはみ出してるんじゃないかと、、」
「北村の、その 夜テクが非常に稚拙でお祖末だと、
おおかた吹聴したんだろう。 最低なヤツ!」
軽蔑するように涼は吐き捨てた。
「助かる。設楽さん、カンが良くて。 北村さんにも、それとなく言ったんですけど、結局わかってもらえなかったみたいで、、、」
「だからって、カーマスートラ?」
この落ち着き払ったゆり子が、どんな顔で北村に渡したんだか、思わず、涼は吹き出した。社内の人間がもし今の涼を見つけたら、雰囲気が違うと首をかしげたかもしれない。いつもの型にはまった設楽涼ではなく、北村や仲の良い人間とリラックスしている涼がいる。
(そういえば、倉沢と二人っきりで飲んだことは、、、)
何回かある、ここ最近あるにはあったが、いつも仕事の話や当たり障りのない話に終始して、今日のような少しプライベート寄りの話は初めてだった。
「本については、、その、、何て切り出していいかわからなくて、、、責任も何となく感じてたし、、、」
ここで正しい涼の受け答えは、何で? 何でお前が責任感じるの? と言うべきところだ。
「ああ、倉沢、振ったんだろ?」
ところが期待を裏切りダイレクトにゆり子に言葉をぶつけた。ゆり子は、涼がいったいどこまで知っているのか、探る目をして涼を再び見つめた。
「言っとくけど、酒の肴のつまみとかそういうレベルじゃないから、ことの流れで、北村が悩んでて、あいつ、つい、口がすべったんだよ。」
「別に秘密じゃないですから。」
「ふうん、じゃ、もうひとつ聞いていい?
すっごいプライベートなこと。」
無言のゆり子。仕事と同じ目をして切れ長の二重で涼を見つめた。
「俺、マジ、そういう話苦手だし、興味本位で首突っ込んでくる奴とか、最低だと思うし、噂も興味ない。だけど、あれは、ちょっと驚いた。」
涼の抽象的な言葉は、真実を知るためのちょっと思わせぶりな誘導尋問ともとれる。とぼけることもできたはずだが、ゆり子は迷わずに口を開いた。
「引きました?」
「本当なんだ? あっ、別に他の女子とかにも全員に聞いてるわけじゃないからっ、そういうこと。俺、そこまで悪趣味じゃないから。」
照れ臭くなって思わず言い訳に走る。
「知っています。設楽さん、噂とか全然興味がないの。誰がどこで何をしようと知ったこっちゃない、っていうのは昔から知っていますから。
もし噂とか気にしてる人だったら、過去のあの膨大な情事の数、自重してたと思います。」
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